第22話 第三皇女様、俺の身分を理由に婚約を否定されても手を離さないでください
婚約発表まで、あと四日。
その朝、皇城の空は薄い雲に覆われていた。雨が降り出すほどではないものの、昨日までの明るい春空とは違い、白く霞んだ陽射しが城壁や尖塔の輪郭を柔らかくぼかしている。風もほとんどなく、第四近衛騎士団の訓練場には、木剣の打ち合う音や掛け声だけが普段より重く籠もって聞こえていた。
朝の合同訓練を終えたカイは、いつもなら同僚の騎士たちと軽口の一つでも交わすところを、今日はほとんど誰とも話さず詰所へ戻った。汗を拭い、訓練着から濃紺の近衛騎士服へ着替え、剣帯を締め直してから鏡の前へ立つ。
服も、腰に差す剣も、鏡に映る黒髪の少年も昨日までと何も変わらない。
それでも、今日だけは違った。
昼前から、皇城へ招かれた主要貴族家の代表者たちとの非公開の顔合わせが行われる。正式な婚約発表を四日後に控え、第三皇女ソフィア・フォン・ガルアが選んだ婚約者とはどんな男なのか、その目で確かめようという者たちが集まるのだ。
近衛騎士としてではない。
第三皇女の婚約者として、カイ自身が帝国の有力貴族たちの前へ初めて立つ。
鏡の中の自分を見つめているうち、いつもより僅かに強張っている表情へ気づき、カイは口元を歪めた。
「……怖いな」
誰もいない更衣室で、あえて声へ出す。
怖くないふりをしても意味はない。平民であることも、幼くして両親を亡くした孤児であることも、姓を持っていないことも変わらない。昨日の礼法講習では、今回の婚約へ明確に反対している貴族もいると教えられた。
これまでも、陰で何かを言われることはあった。
平民のくせに皇女付きになった。
孤児の分際で皇族に近づきすぎだ。
運が良かっただけだ。
何度も聞いてきたし、その度に剣の腕と任務で黙らせてきたつもりだった。
けれど、これからは違う。相手が否定するのは近衛騎士としてのカイだけではなく、ソフィアが選んだ婚約そのものになる。
そう考えると、胸の奥に薄い重さが残った。
カイは右手首へ目を落とした。
淡い空色を宿した空雫石の腕輪。訓練中は傷を防ぐために布を巻いていたが、今はもう外している。銀色の金具の裏へ刻まれているのは、愛称であるソフィーの名だ。
指先でそっと石へ触れると、昨日の礼法室で交わした言葉が蘇った。
『それでも、俺がいい?』
何度聞いても情けない質問だったと思う。
それでもソフィアは、一度だって迷わなかった。
『カイがいいです』
その声を思い出すと、胸の奥に張りつめていたものがほんの少しだけ緩んだ。
「……大丈夫」
鏡の中の自分へ言い聞かせる。
「一人じゃない」
そこまで口にしてから、カイは小さく首を振った。
それでは少し違う。
ソフィアがいるから、全部を彼女に任せればいいわけではない。
守ってもらうために婚約者になったわけでもない。
「俺も立つ」
昨日、宮廷礼法師オルフェンに何度も注意された。一歩後ろへ下がるな。婚約者としている時は、ソフィアの隣へ立て。
身体には七年間、護衛として彼女の一歩後ろへ立つことが染みついている。
それでも今日は、自分の意思で隣へ行く。
「よし」
最後に襟元を整え、カイが詰所を出ようとした時だった。
「随分と気合いが入っているな」
入口から聞き慣れた声がして振り向くと、第四近衛騎士団長のマリアが腕を組んで立っていた。
「団長」
「顔が硬い」
「……そんなに分かります?」
「かなりな」
「やっぱり」
カイは苦笑したものの、否定はしなかった。
「今日は隠す気ないです」
「それでいい」
珍しく、マリアも最初から茶化さなかった。詰所の奥では数人の騎士が装備の手入れをしていたが、こちらを気にしながらも会話へ割り込んでくる者はいない。今日の顔合わせがカイにとってどういう意味を持つか、彼らなりに察しているのだろう。
「今日来る連中が全員、お前を嫌っているわけではない。皇帝陛下が正式に認めた相手なら、まずは見極めようと考えている者の方が多い」
「はい」
「だが、一部には明確に反対している者もいる」
「昨日聞きました」
「ヴェルク侯爵だ」
その名を聞き、カイは僅かに口元を引き締めた。
帝国北部に広大な領地を持つ名門貴族。古くから皇室との結びつきが強く、現当主は特に血統と家格を重視することで知られている。
「俺が平民だから、ですよね」
「それだけではないが、最も大きい理由ではある」
「まあ、そこは予想通りです」
「言い返すつもりか?」
マリアから問われ、カイはすぐには答えなかった。
喧嘩をするつもりはない。
怒鳴るつもりも。
剣で黙らせることなど、もちろんできない。
けれど。
「黙って下を向くのも違うと思っています」
昨日までは、身分差について何か言われれば、自分の中でも「その通りだ」と思う部分が強かった。だから反論するより、距離を取ろうとしてきた。
もう、それをしないと決めた。
「聞かれたことには、自分で答えます」
「出自についてでも?」
「はい」
「孤児だと言われても?」
「答えます」
「侮辱されても?」
そこだけは少し間が空いた。
「……できるだけ冷静に」
「できるだけ、か」
「団長。俺、聖人じゃないんで」
マリアは一瞬真顔でカイを見たあと、堪えきれないように小さく笑った。
「知っている」
「ですよね」
「だが、覚えておけ」
マリアは近づき、カイの肩へ軽く手を置いた。
「これからは、お前が怒ればお前一人の問題では済まない。姫様の婚約者として、二人まとめて見られる」
「……はい」
「姫様の立場を守ることと、自分を守ること。その両方を考えろ」
「剣より面倒ですね」
「そうだな」
「即答ですか」
「政治と社交は、斬れば終わる相手ばかりではない」
「本当に嫌な世界だ」
ぼやきながらも、カイの表情は少しだけ和らいだ。
マリアは肩から手を離し、いつものように短く告げる。
「お前ならできる」
「団長」
「何だ」
「それ、結構重いです」
「知っている」
「分かってて言ってます?」
「お前が何でも重く受け止めるから、こちらは軽く言うくらいで丁度いい」
カイは呆れたように笑った。
「行ってきます」
「ああ」
「ソフィーは?」
自然に出た愛称に、今さらマリアは何も反応しない。
「先に小応接広間へ入っている」
「待ってる?」
「今朝から三回確認が来た」
「今日は発表四日前なのに三回なんですね」
「数字は関係ないらしい」
「やっぱり」
少しだけいつもの調子が戻り、カイは詰所の出口へ向かった。
背中へ、マリアの声が飛ぶ。
「カイ」
「何です?」
「下がるなよ」
何から、と聞く必要はなかった。
カイは振り返り、口元を少し上げる。
「昨日、散々練習しましたから」
それから、はっきりと続けた。
「今日は隣に立ちます」
◇◇◇
小応接広間へ続く回廊は、普段より静まり返っていた。
今日の顔合わせは正式発表前の非公開行事だ。周辺の通行は制限され、要所には近衛騎士が配置されている。侍女や文官の姿も必要最低限で、足音さえ普段より大きく響いて聞こえた。
歩きながら、カイは昨日叩き込まれた礼法を頭の中で繰り返す。
来客を迎える位置。
爵位に応じた返礼。
ソフィアが先に応じる場合と、自分が応じる場合。
座る順番。
視線。
敬称。
頭の中へ詰め込みすぎたせいで、かえって一部が混ざり始めていた。
「侯爵相手なら……いや、今日の席は公式に近いから……」
小声で確認している自分がおかしくなり、カイは苦笑した。
剣なら身体が勝手に動く。
礼法は、まだ頭で一つずつ考えなければ動けない。
「……やばいな」
それでも足は止めなかった。
回廊の角を曲がると、小応接広間の前にエマが立っているのが見えた。いつもの侍女服姿だが、今日は表情も少しだけ引き締まっている。
「カイ」
「エマさん」
「お待ちしておりました」
「ソフィーは?」
「中にいらっしゃいます」
「緊張してます?」
「カイほどではございません」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「はい」
「即答……」
エマは小さく笑ったものの、すぐに声を柔らかくした。
「ですが、姫様もかなりご心配なさっております」
「自分のこと?」
「カイのことでございます」
「……やっぱり」
胸の奥が少し温かくなる。
だが、それと同時に、朝から考えていたことを思い出した。
「エマさん」
「はい」
「今日、俺が何か言われても、最初からソフィーに止めさせないでほしいです」
エマの表情が僅かに変わった。
「と申しますと?」
「俺自身のことなら、自分で答えたい」
カイは扉を見ながら、言葉を選んだ。
「政治とか、皇族そのものへの侮辱とか、俺が勝手に口を挟むべきじゃない話は分かってます。でも、俺が平民だからとか、孤児だからとか、俺自身のことを言われた時までソフィーに守ってもらうだけなのは嫌です」
これまでなら、そんな発想自体がなかった。
自分は護衛。
守る側。
ソフィアは守られる側。
それなのに身分の話になると、いつも逆だった。
ソフィアが怒り、自分を庇い、自分はその背中へ隠れるように一歩引く。
「俺も婚約者だから」
カイは小さく息を吐いた。
「自分の場所くらい、自分で立ちたい」
エマは少し長くカイを見つめていた。
やがて、その目元が柔らかくなる。
「分かりました」
「ソフィーに怒られません?」
「おそらく最初は」
「やっぱり」
「かなり」
「怖いな……」
「ですが、最後には理解してくださいます」
「最後には、なんですね」
「姫様は七年間、カイを守ることばかり考えてこられましたから」
その言葉に、カイは少し黙った。
そして、肩から力を抜くように笑う。
「……お互い様か」
「はい」
自分も七年間、ソフィアを守ることばかり考えてきた。
どちらも。
少し。
似ている。
「では、入りますか?」
「はい」
エマが扉へ手を添える。
だが開く直前、カイはふと思いついて小声で呼び止めた。
「エマさん」
「何でしょう」
「俺、今から逃げたら?」
「扉の向こうではなく、後方の角にマリア様がおられます」
「いつの間に!?」
「逃走経路は塞がれております」
「怖い城だな……」
エマが小さく笑った。
「どうぞ」
◇◇◇
扉が開くと、小応接広間にはまだ来客の姿はなかった。
中央には低い卓を囲むように長椅子と椅子が配置され、壁際には帝国旗と皇族紋章が並んでいる。窓から差し込む白い光は柔らかく、卓上からは用意された白花茶の甘い香りが漂っていた。
その窓際に、ソフィアが立っている。
カイが入った瞬間、空色の瞳が分かりやすく明るくなった。
「カイ」
「ソフィー」
「来ましたね」
「約束しただろ」
「はい」
「待った?」
「少しだけ」
「三回確認した?」
ソフィアの笑顔が止まった。
「……誰から聞いたのです?」
「団長」
「マリア……」
「怒るなよ」
「まだ三回です」
「少ないみたいに言うなよ」
「今日は少ない方です」
「基準がおかしいって」
カイが笑う。
その笑顔を見たソフィアの肩から、ほんの少しだけ力が抜けたのが分かった。
自分だけが緊張しているわけではない。
ソフィアも。
カイのことを案じている。
「緊張していますか?」
「かなり」
「私も少し」
「ソフィーも?」
「カイのことで」
「やっぱり俺なんだ」
「当然です」
ソフィアは一歩近づいた。
周囲にはエマだけでなく侍女や護衛もいるため、手を繋ぐことはしない。それでも以前より明らかに距離は近い。
「カイ」
「何?」
「今日、何を言われても」
空色の瞳が、真っ直ぐにカイを見上げる。
「私は、カイを選んだことを後悔しません」
その言葉に胸が鳴った。
何度も聞いている。
それでも今日ほど頼もしく感じたことはない。
「ソフィー」
「はい」
「俺も」
カイは一度だけ息を整えた。
「今日、何を言われてもソフィーの隣に立つ」
ソフィアの目が僅かに揺れる。
「後ろに下がりそうになったら?」
「引っ張って」
「分かりました」
「でも」
「はい?」
「俺自身のことを言われた時は、できるだけ俺に答えさせて」
予想していた通り、ソフィアの眉が僅かに寄った。
「カイ」
「分かってる。ソフィーが守ろうとしてくれるのは嬉しい」
それは嘘ではない。
どれほど身分を理由に傷ついても、ソフィアだけは一度も自分を恥じたことがない。むしろ誰かが侮れば、自分以上に怒ってくれた。
「でも俺、婚約者なんだろ?」
「……はい」
「なら、俺も自分で立ちたい」
守られるだけではなく。
ソフィアの隣にいる男として。
「少しくらい、任せて」
ソフィアはすぐには答えなかった。
反対したいのだろう。
心配なのだろう。
けれど、しばらくカイの顔を見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「私が我慢できなくなったら言います」
「そこは止めないよ」
「本当に?」
「無理に止めたら、あとで俺が怒られる」
「当然です」
「怖いな」
「婚約者ですから」
「本当に便利だな、その言葉」
二人の間に小さな笑いが生まれた。
緊張が消えたわけではない。
でも。
もう一人ではない。
◇◇◇
最初に訪れたのはクラウゼル伯爵だった。
ソフィアの友人エレナの父であり、皇帝とも長く親交を持つ人物だ。今回の婚約についても比較的早い段階から事情を知っていた、数少ない貴族の一人だった。
五十歳前後の穏やかな男性で、淡い金髪にはところどころ灰色が混じっている。柔らかな物腰とは裏腹に、皇帝の側近として政治の場で長く働いてきた人物でもある。
扉が開いた瞬間、カイの背筋へ再び緊張が走った。
だが、下がらない。
ソフィアと同じ位置に立つ。
クラウゼル伯爵はまずソフィアへ正式な礼を取り、それからカイへ視線を向けた。
「第三皇女殿下」
「クラウゼル伯爵」
「そして、カイ殿」
自分に対して「殿」と付けられることには、まだ慣れない。
それでもカイは昨日習った正式礼を思い出し、丁寧に頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
少し固い。
自分でも分かる。
けれど、間違えなかった。
伯爵の目元が僅かに柔らかくなった。
「ご婚約、まことにおめでとうございます」
その言葉を受けた瞬間、昨日礼法室で祝われた時と同じように胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます。今後とも、殿下ともどもよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
クラウゼル伯爵は満足そうに頷いたあと、ソフィアへ視線を向けた。
「ようやくですな」
「伯爵」
ソフィアの頬が薄く赤くなる。
「失礼いたしました」
「絶対に楽しんでいますよね?」
「父親同士で随分長く待たされましたので」
「お父様まで何を話しているのですか!」
張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
ただ一人、話についていけていないカイが眉を寄せる。
「待たされた?」
伯爵は面白そうにカイを見る。
「詳しくは殿下へ」
「また秘密?」
「もうかなりの部分は明かされているのでは?」
「……それはそうですけど」
自分だけ婚約者の正体を知らされていなかった一件を思い出し、カイは弱い顔になる。
伯爵は小さく笑ったあと、改めて表情を整えた。
「カイ殿」
「はい」
「私は今回の婚約を支持しております」
まっすぐ告げられ、カイは少し目を見開いた。
「理由をお聞きしても?」
「もちろんです。殿下が望まれたこと、陛下が認められたこと。それもあります」
伯爵は一度ソフィアへ目を向けたあと、今度はカイを見た。
「ですが、あなた自身を多少なりとも知っているからです」
「俺を?」
「娘から聞いております。それに、近衛騎士としての働きについても」
エレナが何を話したのか少し気になったが、今は聞かない。
「私は、あなたが平民出身であるという事実よりも、七年間殿下を支え続けてきたという事実の方を重く見ます」
思っていなかった評価に、カイは少し返事を失った。
伯爵は続ける。
「ただし、今日訪れる者すべてが同じ考えではありません」
「分かっています」
「怖くは?」
「怖いです」
その答えに、横にいるソフィアが僅かに動いた。
だが、カイは続けた。
「でも、逃げません」
クラウゼル伯爵はしばらくカイを見つめ、それから小さく頷いた。
「それでよろしい」
そしてソフィアへ向き直る。
「殿下。良い方を選ばれましたな」
「知っています」
あまりにも迷いのない即答だった。
「ソフィー」
思わず愛称で呼ぶと、カイ自身が少し固まった。
伯爵は目を細めて笑う。
「随分と自然になりましたね」
「……最近、こうなりました」
「そうですか」
ソフィアだけは、隠しきれないほど嬉しそうに笑っていた。
◇◇◇
二人目、三人目と顔合わせが進むにつれて、部屋の空気は少しずつ変わっていった。
素直に祝福してくれる者もいれば、礼儀正しい笑顔を浮かべながら、カイを測るような質問を重ねる者もいる。
「騎士としては大変優秀と聞いております」
「ありがとうございます」
「ですが、皇族の配偶者に必要なのは剣の腕だけではありません」
「承知しています」
「外交については?」
「これから学びます」
「領地経営は?」
「経験がありません」
「礼法は?」
「昨日から本格的に」
その返答に伯爵の一人が僅かに目を丸くした。
「随分と正直ですな」
「できないものを、できると言っても仕方ないので」
「帝国法は?」
「勉強中です」
「大変でしょう」
「かなり」
そこでカイは少しだけ笑った。
「でも、今できないからって、やらなくていい理由にはならないと思っています」
剣もそうだった。
十歳で皇城へ来た時は、まともな型さえ知らなかった。
何度も転び、負け、馬鹿にされ、それでも繰り返した。
「殿下の隣に立つために必要なら、覚えます」
隣にいるソフィアを見る。
彼女は口を挟まなかった。
ただ、ほんの少し誇らしそうに笑っていた。
伯爵はしばらくカイを見つめたあと、静かに頷いた。
「なるほど」
それだけだった。
けれど、入室した時よりも、去っていく時の目は少し柔らかくなっていた。
◇◇◇
四人目の来客が入室した瞬間、空気は明確に変わった。
「第三皇女殿下」
低く、よく通る声。
ヴェルク侯爵だった。
六十歳前後。白髪の混じった濃い茶髪を後ろへ撫でつけ、年齢を感じさせないほど大柄な体格をしている。礼の角度も足運びも完璧で、一見すれば非の打ち所のない高位貴族だった。
だが、カイを見る目だけは冷たかった。
「本日はお時間をいただき、恐悦至極に存じます」
「こちらこそ、お越しいただきありがとうございます」
ソフィアは第三皇女として完璧な笑みを返した。
侯爵はその後、ゆっくりとカイへ視線を移した。頭の先から足元まで、値踏みするように見られているのがはっきり分かる。
胸の奥が重くなる。
それでも、下がらない。
「こちらが、殿下のご婚約者ですかな」
「はい。近衛騎士カイです」
ソフィアが紹介する。
侯爵は一拍置いて尋ねた。
「姓は?」
いきなり来た。
カイの鼓動が強くなる。
隣でソフィアが口を開こうとした気配がしたが、カイが先に答えた。
「ありません。現在は」
「現在は?」
「婚姻までに、陛下のご判断で身分整理を行う予定だと伺っています」
「つまり、現時点では平民」
「はい」
「出自は?」
「孤児です」
広間の空気が静かになる。
控えている侍女たちも、壁際に立つ近衛騎士も表情を変えない。ただ、皆が会話へ意識を向けているのが分かった。
「どこの家の血を引くかも不明」
「父も母も平民でした」
「それを証明できる記録は?」
カイの眉が僅かに動いた。
だが声は変えなかった。
「ありません」
「なるほど」
侯爵は一度深く息を吐き、ソフィアへ向き直った。
「殿下。率直に申し上げても?」
「どうぞ」
「私は、この婚約に賛成いたしかねます」
予想していた。
昨日から聞かされていた。
それでも、目の前で言われるのは違った。
胸の奥へ、冷たいものが落ちる。
無意識に右足が半歩、後ろへ動きそうになった。
その瞬間。
指先へ、微かな温もりが触れた。
ソフィアの左手だった。
袖の陰に隠れ、周囲からはほとんど分からないほどの接触だった。
握らない。
引っ張らない。
ただ触れただけ。
カイは足を止めた。
――隣。
昨日、何度も覚えた場所。
「理由を伺っても?」
ソフィアの声は穏やかだったが、その奥には明確な強さがある。
「皇族の婚姻は、個人の恋情だけで決めるものではありません」
「承知しております」
「血統、家格、政治的結びつき、国外への影響。そのすべてを考慮すべきものです」
「はい」
「その上で申し上げます。素性の明確でない平民出身者を第三皇女殿下の配偶者に据えることには、あまりにも問題が多い」
胸が痛む。
昔、訓練場や廊下で聞いた言葉と形は違っても、本質は近い。
お前はここにいる人間ではない。
皇女へ近づく資格などない。
「まして、騎士として功績があるとはいえ、まだ若い。政治経験もない」
「はい」
「外交経験も」
「ほとんどありません」
今度はカイ自身が答えた。
侯爵の目が鋭く向く。
「自覚はあると?」
「あります」
「ならば、自ら身を引くという考えは?」
隣でソフィアの身体が僅かに動いた。
今度こそ前へ出ようとしたのだろう。
「ソフィー」
周囲には聞こえないほどの声で呼ぶ。
ソフィアが止まった。
約束を思い出したのだ。
カイは侯爵を見る。
「以前は、そう思っていました」
「ほう」
「平民だから。孤児だから。姓もないから。俺が殿下の隣に立てば、殿下まで笑われると思っていました」
ソフィアが横で静かにカイを見る。
「だから、もし選ばれても断った方がいいと思っていた」
「ならば――」
「でも、それは違いました」
侯爵の言葉を遮らない程度に、けれどはっきりと言葉を重ねる。
「俺が勝手に、殿下の未来まで決めることになる」
以前の自分は、ソフィアのためだと言いながら、一度も本人へ選ばせようとしていなかった。
「殿下ご自身が、俺を選ぶと何度も言ってくださいました」
「だから受け入れたと?」
「それだけじゃありません」
カイは一度息を吸った。
ここで言うのは、ものすごく恥ずかしい。
それでも。
「俺も殿下が好きだからです」
広間が完全に静まった。
壁際の侍女が僅かに目を伏せ、近衛騎士の一人が瞬きをする。ソフィアの頬にも、皇女としての表情を保ちながら隠しきれない赤みが差した。
カイ自身も顔が熱い。
けれど、言葉を引っ込めるつもりはなかった。
「皇族の婚姻が恋愛だけで決められないことは理解しています」
「ならば」
「だから、必要なことは覚えます」
カイは自分の右手を軽く握った。
「礼法も、政治も、外交も。今の俺にないものを、ないままでいいとは思っていません」
「血統は得られない」
侯爵が即座に指摘する。
「はい。それは変えられません」
「家柄もだ」
「今までの俺にはありません」
「ならば」
「でも」
今度は目を逸らさなかった。
「それで俺が殿下を大切にできない理由にはならないと思っています」
侯爵の表情が僅かに変わった。
「皇族の配偶者として足りないところがあるのは分かっています」
「大いにな」
「はい」
刺さる。
けれど否定しない。
「だから埋めます」
「二月で?」
「二月ですべては無理です」
それも正直に答える。
「ではどうする」
「婚姻したあとも続けます」
「どこまで?」
問いに、カイは一瞬黙った。
そこまで考えて口にしたわけではなかった。
それでも、胸の中から出てきた答えは自然だった。
「一生」
隣にいるソフィアの呼吸が止まる。
カイ自身も少し驚いた。
けれどもう、言葉は引っ込まなかった。
「必要なら一生かけて、殿下の隣に立っても恥ずかしくない人間になります」
広間の空気が変わった。
エマの表情が僅かに柔らかくなり、壁際の騎士たちも静かな目でカイを見る。
ヴェルク侯爵は長く黙っていた。
やがて、低い声で言う。
「……随分と都合の良い話だ」
「はい」
「自分の不足はこれから補う」
「はい」
「その間、皇女殿下へ負担をかけることになる」
「そうなると思います」
「それでも婚約者でいると?」
カイは一瞬だけソフィアを見た。
空色の瞳と目が合う。
答えはもう決まっている。
「はい」
今度は迷わなかった。
「いたいです」
ソフィアの目が僅かに潤んだ。
侯爵は今度、彼女へ向き直る。
「殿下。それでもこの男を選ばれると?」
「はい」
ソフィアも即答だった。
「何度聞かれても同じです。私が選んだ人はカイです」
「家格を考慮しても?」
「承知しています」
「血統を」
「承知しています」
「他国との婚姻によって得られたはずの利益も」
「すべて理解した上でです」
ソフィアの声は強かった。
「その上で、私はカイを選びました」
侯爵は黙る。
「そして、この婚約は皇帝陛下も認めています」
「陛下のご決定へ異を唱えるつもりはありません。ですが、臣下として懸念を申し上げることもまた必要だと考えております」
「それは否定しません」
ソフィアも怒りだけで返さなかった。
彼女は皇女だ。
異論を述べる臣下すべてを敵にすればよいわけではない。
「だからこそ、私も申し上げます」
ソフィアは静かにカイを見る。
「私は、カイを出自で選んだわけではありません」
「当然でしょう」
「ですが同時に、出自を理由に捨てるつもりもありません」
カイの息が僅かに止まる。
「私が見てきたのは七年間です。命を救ってもらった一日だけではありません」
ソフィアの声が少しだけ柔らかくなる。
「騎士になるために何度倒れても立ち上がったことも、平民だからと蔑まれても努力をやめなかったことも、孤児だと馬鹿にされても他人を恨むより守る方を選んだことも」
全部。
見ていた。
「私は、その人を選びました」
長い沈黙が落ちた。
ヴェルク侯爵は一度目を閉じ、深く息を吐く。
「……殿下のご意思が変わらぬことは理解いたしました」
「ありがとうございます」
「しかし、私の懸念も変わりません」
「はい」
今度はカイが答えた。
「婚約発表後、今日より強い反発が出る可能性もある」
「承知しております」
「その時」
侯爵は再びカイを見る。
「今日の言葉を忘れぬことです」
「……はい」
「一生かけて、殿下の隣に立てる人間になると」
完全に認められたわけではない。
賛成へ変わったわけでもない。
けれど、最初のように「身を引け」とだけ言われているのでもなかった。
カイは姿勢を正し、正式礼を取った。
「忘れません」
「ならば私は見ます」
「……」
「お前が、どこまでやれるか」
「ありがとうございます」
「まだ礼を言われる段階ではありません」
「それでもです」
カイはほんの少しだけ笑った。
「話を聞いてくれたので」
侯爵の口元が僅かに動いた。
笑った、と呼べるほどではない。
それでも入室した時の冷たい表情とは少しだけ違っていた。
◇◇◇
ヴェルク侯爵が退出し、重い扉が閉じたあとも、カイはしばらく姿勢を正したまま動かなかった。
「カイ」
隣からソフィアに呼ばれ、ようやく息を吐く。
「……うん」
「大丈夫ですか?」
「多分」
そう答えた直後、肩から一気に力が抜けた。
「はあああ……」
長いため息が漏れる。
「めちゃくちゃ怖かった」
ソフィアが一瞬目を丸くしたあと、思わず小さく笑った。
「やっぱり?」
「やっぱりって何だよ」
「途中まで、とても平然として見えました」
「必死だったんだよ」
手のひらを見せる。
僅かに汗ばんでいる。
「ほら」
「本当ですね」
「剣で斬りかかられる方がまだ楽」
「それは言いすぎです」
「本気」
ソフィアは笑いながら一歩近づいた。
まだ侍女も護衛もいるため、抱きつきはしない。それでも声だけは少し柔らかい。
「よく頑張りました」
「子供扱い?」
「婚約者扱いです」
「便利だな」
「はい」
カイもようやく笑えた。
「でも」
ソフィアの目が少し潤む。
「カイ」
「何?」
「一生かけて、って」
「……そこ拾う?」
「大切です」
「忘れて」
「絶対に嫌です」
「だよな」
「一生覚えます」
「重い」
「一生と言ったのはカイです」
「そうだった……」
二人で少し笑う。
それからカイは、自分がさっき下がりかけたことを思い出した。
「ソフィー」
「はい」
「さっき俺、一瞬だけ後ろに下がりそうになった」
「はい」
「止めてくれた?」
「ほんの少し触れただけです」
「ありがとう」
「約束でしたから」
「でも」
カイは今度、少し嬉しそうに笑った。
「その後は下がらなかった」
「はい」
「俺、自分で戻れた」
「はい」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「最後まで、ずっと隣にいました」
その言葉は、今日受けたどんな評価よりも胸へ残った。
◇◇◇
顔合わせはその後も続いた。
ヴェルク侯爵ほど露骨に反対を示す者はいなかったが、質問は決して優しいものばかりではない。
「爵位を得ることへ抵抗は?」
「あります」
カイは正直に答えた。
「なぜ?」
「今まで何も持っていなかったので、急に変わるのが少し怖いです」
「それでも受けるのか」
「必要なら」
別の貴族からは姓について聞かれた。
「家名はどうするつもりです?」
「まだ陛下と相談中です」
「殿下の家名へ入る可能性も?」
カイはそこで少し困った顔になった。
「……それ、今日俺に聞く話ですか?」
質問した伯爵が一瞬黙り、やがて小さく笑う。
「失礼。確かにまだ早かった」
ソフィアは横で頬を少し赤くしていた。
また別の貴族からは、婚姻後も剣を持つつもりなのかと聞かれた。
「完全な形はまだ決まっていませんが、俺は剣を置くつもりはありません」
「皇女殿下の夫となる者が、自ら剣を振ると?」
「必要なら」
「危険ではないか」
そこでカイは一度、言葉を選んだ。
ソフィー、と呼びそうになり、公的な場であることを思い出して飲み込む。
「俺が剣を覚えたのは、殿下を守るためです」
右手が自然に剣帯へ触れる。
「自分を立派に見せるために持っているわけじゃありません。必要なら、これからも使います」
その答えに、数人の貴族が僅かに表情を変えた。
同意したかどうかは分からない。
けれど。
聞いてはくれた。
◇◇◇
すべての顔合わせが終わった頃には、昼をかなり過ぎていた。
最後の伯爵が退出し、重厚な扉が静かに閉じる。
「……終わった」
カイの口から、堪えていた声が漏れた。
エマが小さく笑う。
「お疲れさまでございました」
「昨日の礼法講習より疲れた」
「昨日も同じことをおっしゃっていました」
「今日は本当に。剣の方が百倍楽」
首を軽く回しながらぼやくと、ソフィアが隣から笑った。
「でも、逃げませんでした」
「うん」
「一度も」
「一回下がりかけた」
「戻りました」
「ソフィーに触ってもらって」
「それでもです」
ソフィアは少しだけ誇らしそうに笑った。
「最後まで隣にいました」
カイはゆっくり目を伏せた。
今日、いくつも言われた。
平民。
孤児。
血統がない。
政治経験がない。
外交経験もない。
すべて事実だ。
何一つ、簡単には否定できない。
けれど、それら全部が「自分には価値がない」という意味ではない。
今日初めて、少しだけそう思えた。
「ソフィー」
「はい」
「二人きりになれる?」
エマがすぐに察し、壁際の侍女たちへ目配せした。
「皆、少し外しましょう」
「エマ」
「はい」
「判断早い」
「長年のお仕えでございますので」
護衛と侍女たちが順番に退出し、扉が閉じる。
二人きりになった瞬間、カイはもう一度大きく息を吐いた。
「……はあ」
ソフィアが近づく。
「カイ」
「何?」
「本当に、よく頑張りました」
「だから子供扱いするなって」
「違います」
「じゃあ」
カイは少し照れながら両腕を広げた。
「婚約者扱いなら、来て」
ソフィアの動きが一瞬止まる。
この「来て」に、まだ弱い。
次の瞬間には素直にカイの胸へ近づき、両腕を背中へ回した。
カイも彼女を抱きしめる。
朝からずっと強張っていた身体から、ようやく力が抜けていった。
「……やっぱり、これが一番落ち着く」
「私もです」
しばらく何も言わず、互いの温もりだけを確かめる。
「カイ」
「何?」
「先ほど、侯爵へ」
「うん」
「殿下が好きだから、と」
「……言ったな」
「皆の前で」
「言った」
「恥ずかしくありませんでした?」
「めちゃくちゃ恥ずかしかった」
「それでも言ったのですね」
「言わないと」
カイは少し笑った。
「俺がここにいる理由、ちゃんと伝わらない気がしたから」
ソフィアが胸元から少し顔を上げた。
「それだけ?」
期待している。
もう声で分かる。
「それと」
「はい」
「本当だから」
空色の瞳が一気に潤んだ。
「泣く?」
「今日は」
ソフィアは泣きそうなまま少し笑った。
「泣いてもいいですか?」
「聞くの?」
「はい」
「いいよ」
カイは背中をゆっくり撫でる。
「今日は俺も結構怖かったから」
「……はい」
「ソフィーが隣にいてくれて、助かった」
一粒、涙が落ちた。
「カイ」
「うん」
「私も、嬉しかったです」
「何が?」
ソフィアは少しだけカイの胸へ顔を埋め直した。
「ずっと、私が守らなくてはと思っていました」
カイは黙って聞く。
「カイは平民だから、孤児だからと、昔から傷つくことが多かったでしょう」
「……うん」
「だから、私が守らなければと」
七年間。
自分も。
同じだった。
「でも今日、カイは自分で答えて、自分の足で立って、それでも私の隣にいてくれた」
ソフィアは涙を浮かべながら、少し笑った。
「それが、とても嬉しかったです」
カイの胸にも温かいものが広がる。
「じゃあ俺たち」
「はい」
「お互い守りすぎ?」
ソフィアは一瞬考えたあと、小さく笑った。
「そうかもしれません」
「でも俺、守るのやめる気ない」
「私もです」
「じゃあ駄目だな」
「はい」
二人で笑う。
そしてカイは、少しだけ真面目な声へ戻した。
「でも、一人で全部やるのはやめよう」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「はい」
「俺が言えるところは俺が言う」
「はい」
「ソフィーが言うところはソフィーが」
「はい」
「二人で言うところは」
「一緒に」
ソフィアが迷わず答えた。
「うん」
それでいい。
多分。
今は。
◇◇◇
「カイ」
「何?」
抱き合ったまま、ソフィアが少し躊躇うように声を落とした。
「先ほどの、一生かけて私の隣に立っても恥ずかしくない人になる、という言葉ですが」
「そこ掘る?」
「大切です」
「出た」
「本当に」
ソフィアが顔を上げる。
「一生?」
カイは少し困った。
勢いで言った部分がないとは言わない。
けれど。
考えてみれば。
答えは変わらない。
「……婚姻するんだろ」
「はい」
「なら、一生じゃないの?」
ソフィアが完全に動きを止めた。
「……」
「ソフィー?」
「カイ」
「何」
「今日、私、もう十分泣いたのです」
「うん」
「なのに、また泣きます」
「いいよ」
カイは少し笑った。
「今日は泣いていいって言ったから」
ソフィアは再びカイの胸へ顔を埋めた。
「……ずるいです」
「何が?」
「優しいです」
「普通だろ」
「カイが言うと、ずるいのです」
「意味分からない」
そう言いながら、カイは腕へ少し力を込めた。
「ソフィー」
「はい」
「俺、身分のこと」
「はい」
「まだ怖い」
「はい」
「四日後に正式発表されたら、今日よりもっと色々言われると思う」
ソフィアは黙って聞いている。
「でも」
カイは一度目を閉じた。
「今日、少しだけ思えた」
「何を?」
「平民だからって、俺の全部が否定されるわけじゃないんだなって」
これまで。
平民。
孤児。
姓なし。
その言葉が出れば、自分自身まで否定されたように感じていた。
けれどクラウゼル伯爵は、七年支えた事実を見ると言ってくれた。
他の貴族も、答えを聞いてくれた。
ヴェルク侯爵でさえ、最後は「見ている」と言った。
「俺、まだ足りないものいっぱいあるけど」
「はい」
「足りないことと、ここにいちゃ駄目ってことは、同じじゃないのかも」
ソフィアの腕が少し強くカイを抱く。
「はい」
「そう思っていい?」
「もちろんです」
答えは早かった。
「カイ」
「うん」
「今日、とても格好良かったです」
カイの顔が一気に赤くなる。
「……何で急に」
「言いたくなりました」
「恥ずかしいんだけど」
「私には言わせるのに?」
「それは」
「カイ」
ソフィアは意地悪そうに少し笑った。
「格好良かったです」
「二回?」
「何回でも言います」
「もういいって」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
「では言います」
「本当に便利だな、それ」
二人の笑いが、ようやく穏やかになった部屋へ広がった。
◇◇◇
午後、顔合わせの内容を整理するため、カイとソフィアは白銀宮へ戻った。
長い回廊を並んで歩く。
そこでソフィアは、しばらくしてから一つの変化へ気づいた。
今日は最初から。
カイが隣にいる。
昨日のように無意識に一歩後ろへ戻りそうにならない。
「カイ」
「何?」
「今日は言わなくても隣ですね」
カイは自分の足元を一度見てから、少し驚いたようにソフィアを見る。
「そう?」
「はい」
「……慣れたのかな」
「一日で?」
「少しだけ」
「では、明日はもっと」
「厳しいな」
「毎日です」
「婚姻式まで二月あるぞ」
「二月しかありません」
「またその言い方」
二人で笑う。
「二月後」
カイは少し照れながら続けた。
「夫婦、か」
「……はい」
今度はソフィアの頬が赤くなる。
「だったら、それまでには隣にいるの慣れないとな」
ソフィアは少しだけ目を細めた。
「慣れなくても、私は何度でも呼びます」
「隣に?」
「はい」
「じゃあ安心」
向こうから使用人たちが歩いてきて、二人を認めると立ち止まって礼を取った。
以前のカイなら、その瞬間に一歩後ろへ下がっていた。
今日は違う。
ソフィアと同じ位置に立ったまま、二人で礼を受ける。
すれ違ってから、カイが小さく呟いた。
「……できてる」
ソフィアには聞こえていた。
「はい」
少し誇らしそうに答える。
「ちゃんと」
「隣?」
「隣です」
カイは少し照れながらも、前を向いて歩き続けた。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、机へ向かい、今日の顔合わせで出された質問を思い出しながら簡単な記録を取っていた。
外交。
帝国法。
爵位。
姓。
領地経営。
婚姻後の騎士身分。
紙の上へ並べてみると、自分がまだ知らないことの多さがよく分かる。
「……勉強すること多すぎる」
思わず額を押さえる。
昨日までなら、面倒だという気持ちが一番強かったかもしれない。
今日は少し違う。
ヴェルク侯爵の言葉が頭へ戻る。
『今日の言葉を忘れぬことです』
一生かけて。
殿下の隣に立てる人間になる。
自分で言った。
「……大きく出たな」
カイは苦笑した。
だが後悔はしていない。
「やるしかない」
一生というのは、今日明日で全部を完璧にするという意味ではない。
今日できることを一つ。
明日また一つ。
積み上げ続けるということだ。
それなら。
剣と同じ。
カイにも理解できる。
右手首の空雫石へ触れた。
婚約発表まで、あと四日。
今日は初めて、有力貴族たちの前で自分自身の言葉を使った。
怖かった。
手に汗もかいた。
足も一度だけ下がりかけた。
それでも。
「ちゃんと立てた」
誰もいない部屋で、少しだけ笑う。
「おやすみ、ソフィー」
いつものように小さく呼びかける。
そして今日は、続けた。
「明日も隣にいるから」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアが今日の顔合わせ記録へ目を通していた。
本来なら、各貴族の質問内容や反応、今後注意すべき点を確認するための記録である。
けれど。
どうしても。
同じ場面ばかり思い出す。
『必要なら一生かけて、殿下の隣に立っても恥ずかしくない人間になります』
文字に書かれているわけでもないのに、何度も頭の中で再生される。
「……一生」
小さく呟く。
向かいで茶器を整えていたエマが、何気なく顔を上げた。
「姫様」
「何です?」
「本日、何度目です?」
「何がです?」
「『一生』とおっしゃるのが」
ソフィアの動きが止まった。
「……数えていたのですか?」
「六回ほど」
「そんなに?」
「はい」
頬が熱くなる。
「だって」
「はい」
「カイが」
「はい」
「一生って」
「はい」
「私の隣に……」
思い出したところで、また顔が熱くなった。
「エマ」
「何でしょう」
「今日のカイ」
「はい」
「格好良かったです」
「本日七回目でございます」
「それまで数えているのですか!?」
「長年のお仕えでございますので」
「もう……」
抗議しながらも、ソフィアは笑っていた。
左手首の夜空石へ指先を添える。
「明日も」
「はい」
「明後日も」
「はい」
「その先も」
声が少しだけ柔らかくなる。
「隣にいてほしいです」
エマも穏やかに笑った。
「きっと、もう言わなくても戻ってこられますよ」
ソフィアは少し考えた。
今日、顔合わせが終わって白銀宮へ戻る道。
カイは最初から隣にいた。
一度も、後ろへ戻らなかった。
「……はい」
ソフィアの口元が柔らかく緩む。
「そうですね」
婚約発表まで、あと四日。
カイは今日初めて、自分の出自を理由に婚約そのものを否定された。
平民であること。
孤児であること。
姓がないこと。
政治も、外交も、皇族の配偶者として必要なものの多くを、まだ持っていないこと。
その事実を、真正面から突きつけられた。
けれど、持っていないものを持っているふりはしなかった。知らないことを誤魔化さず、変えられない過去まで恥じることもしなかった。
足りないなら覚える。
知らないなら学ぶ。
そして、変えられないものまで理由にして、自分から消えることはしない。
ソフィアもまた、カイを守るために一人で前へ出るのではなく、彼が自分自身の言葉で立とうとすることを受け入れ始めた。
守ることと、代わりにすべてを戦うことは同じではない。
手を差し伸べることと、相手が自分の足で立つ機会を奪うことも違う。
ヴェルク侯爵の前でカイが半歩だけ下がりかけた時、ソフィアは強く引き戻さなかった。
ただ、指先で触れた。
ここにいると。
隣にいると。
一人ではないと伝えるように。
そしてカイは、自分の足で隣へ戻った。
正式な婚約発表が行われれば、今日以上の声が届くだろう。
祝福だけではない。
疑問も。
反対も。
打算も。
きっと増えていく。
それでも。
平民だからと否定されても。
血統を理由に相応しくないと言われても。
足りないものをいくつ数えられても。
カイはもう、それだけを理由にソフィアの隣から消えようとはしない。
そしてソフィアも。
彼が迷うたび、自分一人で前へ出るのではなく。
必要なら手を差し出し。
必要なら待ち。
必要なら一緒に立つ。
二人とも、まだ上手ではない。
皇女と婚約者としての立ち方も。
反対された時の向き合い方も。
互いを守りながら、互いに守られることも。
だからこそ、これから覚えていく。
一人で全部を背負わず。
片方だけが前に立たず。
迷った時には隣を確かめながら。
今日。
二人はようやく。
その最初の形を、自分たちのものにし始めていた。




