第21話 第三皇女様、婚約者なのに一歩下がるのは禁止なんですか?
婚約発表まで、あと五日。
前日の舞踏練習で使い慣れていない筋肉を長時間動かしたせいか、翌朝、カイは寝台から身体を起こした瞬間に腰の少し上へ妙な張りを感じた。剣術の訓練後に残る腕や肩の疲労とは明らかに違い、身体を軽く捻ると、普段あまり意識しない場所がじわりと主張してくる。
「……剣を何百回振っても平気なのに、何で踊っただけでここが痛くなるんだ」
誰もいない宿舎の一室でぼやきながら、カイは寝台の横へ立って腰を伸ばした。痛いというほどではないのだが、昨日は二刻以上もソフィアと舞踏の練習を続け、さらに夜には狭い自室で机へぶつかりそうになりながら足運びまで復習している。
原因は考えるまでもなかった。
「一、二、三……だったよな」
昨夜覚えた拍子を口の中で数えながら、何となく右足を半歩前へ出してみる。左、右と続けようとしたところで、狭い室内で一人何をしているのだと我に返り、カイは小さく笑った。
数日前までの自分なら、婚姻準備のために自主的に舞踏を復習するなど絶対に考えなかっただろう。
それどころか、ソフィアの婚姻が決まったと初めて聞いた頃には、彼女が結婚すれば第三皇女付きの近衛騎士という立場から解放されるかもしれないと、本気で考えていた時期さえあった。
それが今では、婚約発表後に開かれる祝賀夜会でソフィアと最初に踊る自分を想像し、できるだけ格好悪い姿を見せたくないと思っている。
「……変われば変わるもんだな」
呟きながら、カイは右手首へ視線を落とした。
そこには今日も空雫石の腕輪がある。訓練中に革紐へ傷がつかないよう、最近は薄い布を巻いて保護するようになった。最初の頃は無意識にやっていたことだったが、今はもう、その理由を自分でも分かっている。
大切なのだ。
腕輪そのものも。
自分のために石を選んだソフィアの気持ちも。
そして、これを身につけている自分が、彼女の婚約者なのだという事実も。
その言葉にはまだ完全には慣れない。皇帝から正式な書類を見せられたのは、つい数日前なのだ。七年間ずっと自分を騎士として位置づけてきた人間が、いきなり第三皇女の婚約者だと言われて、すべてを自然に受け入れられるはずもない。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ。
「……今日も会えるかな」
何気なく漏れた自分の言葉に気づき、カイはしばらくその場で固まった。
以前なら、すぐに護衛任務だの婚姻準備だのと理由をつけて誤魔化していたはずだ。実際、今日も何らかの予定が組まれているだろうから、ソフィアと顔を合わせる可能性は高い。
「いや、会うだろ。婚姻準備あるんだから」
誰も聞いていない室内で、わざわざ言い訳してみる。
けれど数秒もしないうちに、それがおかしくなった。
昨日、ソフィアに言ったばかりなのだ。
寂しい時は言ってほしい。
会いたい時も言ってほしい。
自分も、できるだけ同じようにするから、と。
それなのに一人でいる時から本心を誤魔化していたのでは、何も変わらない。
「……会いたいからでいいだろ」
今度は、自分へ言い聞かせるようにゆっくり口にした。
右手首の空雫石へ軽く触れ、小さく頷く。
「うん。会いたい」
認めてしまえば、驚くほど胸が軽くなった。
◇◇◇
朝の合同訓練を終えた頃、第四近衛騎士団の詰所には高い窓から温かな陽射しが差し込んでいた。
訓練帰りの騎士たちが装備を外しながら行き交い、壁際では剣の手入れをする者、巡回記録を書き込む者、次の勤務担当について相談する者がそれぞれ動いている。普段通りの慌ただしい時間帯で、汗と革製品、それに武具へ使う油の匂いが混ざっていた。
カイも簡単に汗を流し、訓練用の軽装から濃紺の近衛騎士服へ着替えたところだった。
「カイ」
聞き慣れた声に振り返ると、詰所の入口にマリアが立っていた。片手には今日の勤務表らしき書類が握られている。
「団長」
「支度は終わったか?」
「今終わりました」
「なら行け」
「……どこへ?」
あまりにも当然のように言われ、カイは思わず聞き返した。
マリアが少しだけ眉を上げる。
「聞いていないのか?」
「何をです?」
「今日の予定だ」
「午前は訓練、午後から礼法教育だったはずですけど」
「その礼法教育が午前へ繰り上がった」
「……また?」
「ああ」
カイはゆっくりと天井を見上げた。
「俺の予定、ここ数日ずっと変わってません?」
「婚約発表まで五日しかない」
「昨日も同じようなことを言ってましたよね」
「昨日は六日だった」
「そういう意味じゃありません」
近くの机で書類を束ねていたリナが吹き出し、何人かの騎士もつられて笑う。
「カイ、もう諦めた方がいいよ」
「何を」
「婚約発表までは予定通りに一日過ごせると思うこと」
「普通に訓練したいんだけど」
「婚約者教育も訓練だと思えば?」
「剣でどうにかなるならそう思う」
「昨日は舞踏だったんでしょ?」
リナが楽しそうに話題を変える。
「ああ」
「どうだった?」
「……足踏んだ」
「姫様の?」
「一回だけな」
「踏んだんだ」
「一回だけって言ってるだろ!」
少し声が大きくなり、周囲で装備を整えていた騎士たちが一斉にこちらを見る。
婚約相手の正体がカイだと騎士団内でも共有されて以降、この種の話題になると皆の反応が露骨になった。以前からソフィアとの距離を面白がられてはいたが、今ではそこへ「正式な婚約者」という要素まで加わっている。
「でも最後は普通に踊れたからな」
何となく悔しくなり、カイは補足した。
「へえ」
「何だよ、その顔」
「嬉しそうだなと思って」
「普通だろ。できなかったことができるようになったんだから」
「姫様と踊れたことは?」
カイは一瞬だけ言葉を止めたが、昨日までのように誤魔化そうとはしなかった。
「……それもある」
リナが目を丸くする。
近くにいた若い騎士まで手を止め、驚いたようにこちらを見た。
「何だよ」
「いや……」
リナは数秒遅れて、からかうというより感心したように笑った。
「本当に素直になったなと思って」
「悪い?」
「全然」
そこに含まれているのが面白がる気持ちだけではないことくらい、カイにも分かった。
七年間、近くで自分とソフィアの関係を見てきた仲間だ。ようやくここまで来たことへの安堵もあるのだろう。
少し居心地が悪くなり、カイはマリアへ視線を戻した。
「それで団長。今日の礼法って、具体的には何をするんです?」
「立ち居振る舞い全般だ」
「騎士礼ならできます」
「騎士礼ではない」
「食事の作法も一応習ってますけど」
「それも確認はするが、今日の中心は公の場での立ち位置と応対だ」
その答えを聞いた瞬間、カイは露骨に嫌そうな顔をした。
「一番苦手そうなやつ」
「自覚があるなら話は早い」
「俺、そんなに何か失礼しました?」
「昨日、白銀宮へ戻る途中で姫様の一歩後ろへ戻ったそうだな」
「……誰から聞いたんです?」
「エマ」
「早い」
「それを直す」
マリアは簡潔に言い切った。
「婚約発表後、お前は単なる第三皇女付きの護衛ではない。公式の場では殿下の隣に立つ。相手や状況によっては、姫様より先に挨拶を受け、お前自身の判断で返答しなければならないこともある」
「俺が?」
「当然だ」
その言葉を聞いて、カイは少しだけ黙った。
最近、よく聞く言葉だ。
婚約者だから当然。
皇女の配偶者になるのだから当然。
正式な席で隣に立つのも当然。
けれどカイにとっては、その「当然」の一つ一つが、それまでの人生には存在していなかったものだった。
「……まだ、変な感じがします」
「五日で完全に慣れろとは言わん」
マリアは少しだけ声を柔らかくする。
「だが五日後には、皆の前で立つ必要がある」
「……はい」
「姫様の後ろではなくな」
昨日も、同じようなことをソフィアから言われた。
後ろではなく。
隣。
その言葉を思い出し、カイは小さく息を吐いた。
「分かりました。行ってきます」
「場所は白銀宮東側の礼法室だ」
「ソフィーは?」
自然に尋ねたあとで、自分が何と言ったのか気づいた。
詰所にいた数人も当然聞いている。
リナの口元がゆっくり上がった。
「何だよ」
「今、普通にソフィーって」
「……最近呼んでるだろ」
「皆の前で?」
「城内ではいいって言われてるし」
「誰も悪いなんて言ってないよ」
そう言いながら、完全に面白がっている。
「その顔やめろ」
「どんな顔?」
「面白がってる顔」
マリアまで小さく笑ってから答えた。
「姫様は先に向かっている」
「待ってる?」
「おそらくな」
「今日は何回確認が?」
「まだ二回だ」
「少ないな」
「婚約発表まで五日だからな」
「その数字、何の関係があるんですか!」
詰所へ笑い声が広がり、カイは顔を赤くしながら上着の襟を整えた。
そのまま逃げるように詰所を出たものの、足取りは決して重くなかった。
◇◇◇
皇城東側にある礼法室は、カイが普段使っている訓練場とはまったく違う空気を持つ場所だった。
床一面には柔らかな深紅の敷物が敷かれ、壁際には金の装飾を施した椅子や小卓が整然と並んでいる。中央にはあえて広い空間が取られており、その先には玉座の間や大広間で使われる壇上を模した段差まで設置されていた。
純粋に礼法を学ぶためだけの部屋。
それだけで、カイには自分がかなり場違いなところへ来たように思えた。
「……帰りたい」
「入って早々、それを言うのですか?」
聞き慣れた声に振り向く。
窓際にソフィアが立っていた。
今日は淡い白を基調に、水色の細い刺繍を施したドレスを着ている。昨日の舞踏練習用衣装ほど軽くはないが、公務時の正式礼装よりは控えめで、銀髪も肩の後ろへ柔らかくまとめられていた。
その姿を見た瞬間、朝に自室で口にした言葉を思い出す。
「ソフィー」
「はい」
「いた」
「待っていました」
何度も聞いてきた言葉なのに、今では少し意味が違う。
「俺も」
「何です?」
「会いたかった」
ソフィアの動きが止まった。
言った本人であるカイも、少し遅れて頬が熱くなるのを感じる。
「……何」
「いえ」
「言ってくれって言ったのはソフィーだろ」
「そうですが、朝から心の準備をさせてください」
「もう昼近いぞ」
「時間帯の問題ではありません」
胸元へ手を当てるソフィアを見て、カイは小さく笑った。
「昨日言っただろ。会いたい時は俺も言うって」
「……覚えていたのですか?」
「忘れるわけない」
その一言で、空色の瞳が目に見えて柔らかくなる。
「私も会いたかったです」
「そっか」
「はい」
二人はそれだけで少し笑った。
甘い空気が落ちたところで、横から低く落ち着いた声が入る。
「ご歓談中のところ大変申し訳ございませんが、本日の講習を始めてもよろしいでしょうか」
カイはゆっくり横を見る。
そういえば。
最初から。
いた。
六十歳前後に見える細身の男性で、灰色混じりの髪を一分の乱れもなく後ろへ撫でつけ、濃紺の礼服も恐ろしいほど綺麗に着こなしている。背筋は定規でも当てたように真っ直ぐで、ただ立っているだけなのに妙な威圧感があった。
「あの」
カイはソフィアへ少しだけ身体を寄せ、声を落とした。
「この人は?」
「宮廷礼法師のオルフェン先生です」
「先生」
「はい」
「逃げても?」
「駄目です」
「ですよね」
オルフェンの表情は一切変わらない。
「カイ殿」
「はい」
「私からも一つ、よろしいでしょうか」
「何でしょう」
「先ほどこの部屋へ入られ、殿下のお姿を確認した直後」
「はい」
「右足を半歩後ろへ引かれました」
「……見てたんですか?」
「それが仕事です」
カイは思わず肩を落とした。
「さらに殿下を『ソフィー』とお呼びになった」
「そっちは駄目でした?」
「いいえ」
意外な答えに、カイは瞬きをする。
「皇族の婚約者同士が、私的空間や事情を承知した者のみがいる場で愛称を使用すること自体には問題ございません。ただし――」
オルフェンの目がわずかに細くなる。
「愛称で呼びながら、立ち位置だけ騎士へ戻るのは不自然です」
「……」
「心は婚約者」
「はい」
「身体は護衛」
「……はい」
「どちらです?」
真正面から聞かれ、カイは少しだけ視線を逸らした。
「……婚約者です」
「声が小さい」
「婚約者です」
「では殿下の隣へ」
言われるまま一歩ソフィアへ近づいたが、七年間の癖は簡単には消えない。自分では横へ並んだつもりでも、肩半分ほど後ろへ下がっていた。
「違います」
「え?」
「並んでください」
「これで並んでるつもりなんですけど」
「肩が半分後ろです」
「細かいですね」
「礼法とは、そういうものです」
「怖い」
ソフィアが横で小さく笑う。
「ソフィー」
「何です?」
「助けて」
「頑張ってください」
「冷たい」
「昨日、隣に立つと言いましたよね?」
「言った」
「では練習です」
笑うソフィアを横目で見ながら、カイは諦めたように息を吐いた。
そして、ほんの半歩。
前へ出る。
今度こそ肩の位置が揃った。
「これで?」
「はい」
オルフェンが初めて頷いた。
「まずはそこからです」
◇◇◇
礼法講習は、カイが想像していた以上に細かかった。
歩き方一つ取っても、ただ真っ直ぐ歩けばいいわけではない。扉を通る時の順番、誰かが挨拶してきた際の視線の向け方、相手の身分によって変わる礼の深さ、ソフィアとどちらが先に返答するかなど、騎士として習った作法とは似ているようでかなり違っていた。
「カイ殿」
「はい」
「また下がりました」
「……無意識です」
「承知しております」
「分かってるなら少しくらい」
「無意識だからこそ直します」
「正論ですね」
オルフェンは一切容赦しなかった。
ソフィアと並んで礼法室の端から端まで歩くだけで、最初の十分ほどに三度止められた。一度目は角を曲がった時、二度目は使用人役の侍女とすれ違った時、三度目はオルフェンが意図的にソフィアへ声をかけた時だった。
すべて同じ。
カイは無意識に一歩後ろへ下がっていた。
「……身体に染みついてるな」
四度目に指摘されたところで、カイは額へ手を当てた。
「七年ですからね」
ソフィアが隣で柔らかく言う。
「そうなんだよ」
七年間。
守ること。
それが自分の役目だった。
危険があればソフィアより前へ出る。何もなければ一歩後ろから周囲を見る。横へ並ぶのは、お忍びで身分を隠している時くらいだった。
ソフィアの隣は。
自分の場所ではない。
それをずっと身体へ叩き込んできた。
「カイ殿」
オルフェンの声が少しだけ穏やかになった。
「はい」
「一つ、誤解があります」
「何でしょう」
「婚約者として殿下の隣へ立つことは、護衛として殿下を守らなくなることではありません」
カイは顔を上げた。
「あなたは今後も騎士であり続けるでしょう。婚姻したからといって、完全に剣を置かれるとは私も考えておりません」
「はい」
「ならば、隣から守ればよいのです」
その言葉は、礼法の説明としてはひどく単純だった。
けれどカイの胸へは、思っていた以上に深く入ってきた。
「後ろに立たなければ守れないわけではありません。危険があれば前へ出る。公の場で伴侶として振る舞うなら横へ立つ。その時々で場所を変えればよいのであって、殿下から一歩離れることだけが忠誠ではありません」
「……」
カイは何も言えなかった。
ずっと。
一歩後ろ。
そこが自分の場所だと思っていた。
そこから出れば、自分のような平民出身の騎士が皇女の立場を汚してしまうのではないかという思いも、確かにどこかにあったのだと思う。
「カイ」
隣からソフィアに呼ばれる。
「……うん」
「私は、騎士としてカイに後ろへいてほしくないわけではありません」
空色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。
「必要なら前へ出てください。後ろから守ってください。それは今までと同じです」
「うん」
「でも」
ソフィアはゆっくり右手を差し出した。
「私の婚約者として隣にいる時は」
小さな手。
何度も繋いだ。
今では、自分から取ることにも少しずつ慣れてきた。
「隣にいてほしいです」
オルフェンも侍女もいる。
けれど、カイはもう以前ほど迷わなかった。
「……分かった」
その手を取る。
「じゃあ覚える」
「はい」
「身体が勝手に下がるなら、下がらなくなるまで練習する」
指先へ少し力を入れると、ソフィアの表情が柔らかくなった。
「私も付き合います」
「毎日?」
「必要なら」
「大変だぞ」
「七年に比べれば短いです」
「またそれ」
二人が小さく笑うと、オルフェンの口元もほんのわずかに緩んだ。
「では、もう一度入口から」
「まだやるんですか?」
「当然です」
「……はい」
◇◇◇
五度目。
六度目。
七度目。
同じ動作を繰り返していくうちに、少しずつ変化が出始めた。
角を曲がる時、カイは下がらなかった。侍女役の女性とすれ違った時には一瞬だけ身体が反応しかけたものの、隣にいるソフィアの存在を意識し、そのまま同じ歩幅で進むことができた。
「今のは良い」
オルフェンが初めて明確に褒める。
「本当ですか?」
「はい」
「先生が褒めた」
「私は必要なら褒めます」
「今日初めてですよ」
「それまでは褒める箇所がありませんでしたので」
「厳しい……」
隣でソフィアが吹き出す。
カイも苦笑したが、最初より肩の力は抜けていた。
「次は挨拶です」
「まだあるんですね」
「本日の講習は始まったばかりです」
「帰りたい」
「カイ」
「冗談だよ」
半分ほどは本気だったが、もう逃げる気はなかった。
今度は来客役として、侍女だけでなく若い文官まで数人入室してきた。実際の公式面会を想定し、身分や役職の違う相手へそれぞれ返礼する訓練らしい。
一人目の文官が深く頭を下げる。
「第三皇女殿下、ならびにカイ殿。本日はお目通りを賜り、恐悦至極に存じます」
先にソフィアへ視線が向く。
その瞬間。
カイの身体が反射的に後ろへ下がりそうになる。
けれど。
止めた。
自分の名も同じ挨拶の中で呼ばれている。
まだ変な感覚はある。
それでも、その場へ残る。
ソフィアが先に穏やかに応じ、その後、文官の視線がカイへ向いた。
「カイ殿におかれましては、このたびのご婚約、まことにおめでとうございます」
胸が一瞬だけ強く鳴る。
これから先。
何度も。
こんな言葉を聞くことになるのだろう。
「……ありがとうございます」
少し固かった。
けれど。
言えた。
「もう一度」
後方からオルフェンの声。
「え?」
「今の返礼は騎士礼です」
「あ」
無意識に胸元へ拳を当てていた。
完全にいつもの癖だ。
「婚約者としての正式礼を」
「はい」
やり直し。
文官役の青年も嫌な顔一つせず、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「ご婚約、まことにおめでとうございます」
カイは一度息を吸った。
昨日。
騎士団の若者にも。
同じように言われた。
あの時。
嬉しかった。
だから。
今度は。
その気持ちを、そのまま受け取ってみる。
「ありがとうございます」
教えられた通りに正式礼を返す。
そして一瞬迷ったあと。
「今後とも、殿下ともどもよろしくお願いいたします」
自分の言葉を付け足した。
隣にいるソフィアが少し驚いたようにこちらを見る。
すぐに。
嬉しそうに。
笑った。
「良いでしょう」
オルフェンが頷く。
カイは小さく息を吐いた。
「できた」
「はい」
ソフィアが周囲には届かないほどの声で答える。
「ちゃんと」
カイが横を見る。
「隣にいます」
「……うん」
その一言が。
今は。
何より嬉しかった。
◇◇◇
昼を回ったところで、一度休憩が入った。
礼法室の窓際へ置かれた小卓には、軽食と白花茶が用意されている。朝から姿勢や視線まで細かく注意され続けたカイは、椅子へ腰を下ろした途端、剣術訓練の後とはまた違う疲労感に深く息を吐いた。
「疲れた……」
「舞踏より疲れていませんか?」
ソフィアは向かいではなく、当然のように隣の椅子へ座った。
「剣より疲れる」
「それは言いすぎです」
「剣は身体で分かるんだよ」
「礼法も、そのうち身体で分かるようになります」
「身体に染み込むまで何年かかる?」
「七年?」
「それだけは嫌だ」
ソフィアが楽しそうに笑う。
カイもつられて笑った。
「でも」
「何です?」
「さっきさ」
白花茶を一口飲み、カップを卓へ戻す。
「おめでとうって言われた時」
「はい」
「ちゃんと返せただろ」
「はい」
「ちょっとだけ」
言葉を探しながら、カイは自分の右手首へ目を向けた。
「嬉しかった」
ソフィアの表情が静かに変わる。
「何がです?」
「婚約を祝われるの」
カイはゆっくり続けた。
「前は、俺とソフィーの婚約だって皆が知ったら、絶対に嫌な顔されると思ってた」
平民。
孤児。
無爵位。
姓もない。
そういうものを理由に拒まれる未来ばかり想像していた。
今だって、それが完全になくなったわけではない。
それでも昨日、同じ平民出身の若い騎士から祝福された。
今日も。
訓練とはいえ。
「おめでとうって言われるの」
カイは少しだけ笑った。
「悪くないな」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「カイ」
「何?」
「私は」
少しだけ声を小さくする。
「その言葉を、ずっとカイと一緒に聞きたかったです」
カイはカップへ伸ばしかけた手を止めた。
「一人で聞いてた?」
「今までは」
「婚姻が決まった時から?」
「はい。婚約相手がカイだと知っている方からは、何度も祝っていただきました」
「……」
「でも」
ソフィアは少し困ったように笑う。
「隣に本人がいませんでした」
その光景を想像した。
自分は何も知らない。
ソフィアの婚約者が自分だということも知らず、むしろ知らない相手へ嫉妬していた。
その間。
ソフィアは一人で祝われていた。
「……それ」
「何です?」
「寂しかった?」
ソフィアは少しだけ黙った。
けれど、もう以前のように誤魔化さない。
「はい」
真っ直ぐ答える。
「とても」
カイの胸が少し痛くなった。
「ごめん」
「カイが謝ることではありません」
「でも」
「秘密にすると決めたのは私です」
「……うん」
「それでも」
ソフィアが小さく笑った。
「今日からは一緒です」
カイも横を見る。
「おめでとうって?」
「はい」
「一緒に聞く?」
「はい」
「何回も?」
「何百回でも」
カイは少しだけ笑った。
「じゃあ」
卓の下。
まだオルフェンや侍女が少し離れた場所にいる。
それでも。
カイは右手を伸ばし、ソフィアの左手をそっと取った。
「一緒に」
驚いたように目を瞬いたソフィアが、すぐに指を絡める。
「はい」
しばらく二人とも何も言わなかった。
けれど。
今はそれで十分だった。
◇◇◇
午後の講習は、午前よりさらに難しくなった。
侯爵家当主。
伯爵。
子爵。
帝国軍高官。
外国使節。
皇族。
相手の身分や立場だけでなく、公的な場なのか私的な場なのか、誰が同席しているのかによっても礼法が変わる。
次から次へ新しい決まりを聞かされ、とうとうカイは片手を上げた。
「先生」
「何でしょう」
「一回整理させてください」
「どうぞ」
「侯爵家当主にはこれ」
「はい」
「外国大使にはこれ」
「はい」
「皇族には」
「状況によります」
「そこ固定じゃないんですか!?」
「相手との親等、役職、場の性質によって異なります」
「無理」
「覚えてください」
「剣に戻りたい」
隣でソフィアが笑う。
「笑うなよ」
「ごめんなさい」
「ソフィーは全部できるんだろ?」
「幼い頃から習っていますので」
「何歳から?」
「四歳頃です」
「十二年差」
「七年より長いですね」
「何でそこで七年が出てくるんだよ」
二人が笑い、少しだけ場の緊張が解けた。
それでも講習は続く。
失敗する。
オルフェンに直される。
もう一度試す。
また失敗する。
少しできるようになる。
その繰り返し。
剣術と同じだと思えば、カイにも少し理解しやすかった。
「では最後に」
オルフェンが机の上から一枚の書類を取った。
「明日の予行を行います」
「明日?」
カイが眉を寄せる。
「何かあるんですか?」
オルフェンはすぐには答えず、一度カイの様子を確かめるように見た。
「帝国内の主要貴族家から、代表者数名が来城します」
「何のために?」
「正式な婚約発表前の、非公開顔合わせです」
カイの表情が少し固くなった。
「明日?」
「はい」
「聞いてない」
「今、お伝えしました」
「皆それ好きですね……」
横でソフィアも少し苦笑する。
「カイ」
「うん」
「私も今朝、正式に聞きました」
「ソフィーも?」
「はい」
それなら少なくとも、自分だけに隠されていたわけではない。
カイは一度息を吐く。
「誰が来るんです?」
オルフェンがいくつかの名を読み上げた。
侯爵。
伯爵。
帝国内でもかなり大きな影響力を持つ家の名前が並ぶ。
カイにも聞き覚えのある者が何人かいた。
「全員、今回の婚約について少なからず関心を持っています」
「……関心」
カイはその言葉を繰り返した。
祝福。
だけではない。
それくらいは分かる。
「反対してる人も?」
今度は直接聞いた。
礼法室の空気が少しだけ静かになる。
オルフェンは誤魔化さなかった。
「おります」
隣にいたソフィアの表情がわずかに険しくなった。
「オルフェン」
「殿下」
「カイには隠さなくて結構です」
「そのつもりでございます」
カイはソフィアを見た。
自分を心配している。
それが分かった。
「大丈夫」
先に言った。
ソフィアが少し驚く。
「カイ」
「怖いよ」
そこは誤魔化さない。
「今も怖い」
自分を値踏みする貴族。
平民。
孤児。
姓なし。
昔から何度も浴びせられた言葉を、また聞くかもしれない。
それでも。
今日。
何度も隣へ立った。
失敗して。
直して。
祝福を受けて。
自分の言葉で返した。
「でも」
カイは少し姿勢を正した。
「明日、隣にいてくれる?」
ソフィアは一瞬も迷わなかった。
「もちろんです」
「じゃあ行く」
「顔合わせへ?」
「ああ」
カイは小さく笑った。
「逃げない」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「はい」
「ただし」
「何です?」
「途中で俺が後ろに下がったら」
少し苦笑する。
「引っ張って」
ソフィアも笑った。
「喜んで」
◇◇◇
講習が終わる頃には、窓から差し込んでいた陽射しがかなり傾いていた。
礼法室の深紅の敷物には長い影が伸び、皇城のどこかでは夕刻を知らせる鐘が静かに鳴っている。一日中、姿勢から視線まで注意され続けたカイには、その鐘の音が訓練終了を告げる鐘よりもありがたく聞こえた。
オルフェンと侍女たちが退出し、広い礼法室にはカイとソフィアだけが少し残った。
「疲れました?」
ソフィアが聞く。
「めちゃくちゃ」
「剣より?」
「今日は剣より疲れた」
「そこまでですか」
楽しそうに笑われ、カイも少し笑った。
それから、今日何度も歩いた礼法室の中央へ視線を向ける。
「でもさ」
「はい」
「朝より」
一度言葉を探す。
「隣に立つの」
ソフィアへ視線を戻す。
「慣れた」
彼女の顔が分かりやすく明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ」
「では帰りも?」
「隣で?」
「はい」
カイは少しだけ笑う。
「もちろん」
言ってから。
その言葉が意外なほど自然に出たことへ、自分でも少し驚いた。
「今日は」
ソフィアが控えめに続ける。
「手も」
「回廊で?」
「人の少ないところだけ」
以前なら、護衛上必要だからなどと理由を探しただろう。
今は。
もういらない。
「いいよ」
ソフィアが嬉しそうに左手を差し出す。
カイはその手を取った。
「ソフィー」
「はい」
「明日」
「はい」
「反対してる人も来るんだよな」
「来ます」
「多分、何か言われる」
「その可能性はあります」
「平民とか」
「はい」
「孤児とか」
「はい」
「姓がないとか」
「はい」
少し前なら。
それらすべてが。
自分はソフィアの隣へ立ってはいけないという理由になっていた。
でも。
今は。
少し違う。
「それでも」
カイはソフィアを見る。
「俺がいい?」
何度聞いたか分からない。
それでも。
まだ。
必要な言葉。
ソフィアは即答した。
「カイがいいです」
胸の奥が、静かに温かくなる。
「何回でも聞くかも」
「何回でも答えます」
「そっか」
カイは少し笑い、繋いだ手へ力を込めた。
「じゃあ明日も」
「はい」
「俺」
一度。
背筋を伸ばす。
「隣に立つ」
ソフィアも嬉しそうに笑った。
「待っています」
「もう隣にいるけど」
「明日も、です」
「分かった」
二人は礼法室を出た。
廊下へ出た瞬間。
身体へ染みついた癖で、カイの足がほんの少しだけ後ろへ下がりかける。
その時。
繋いだ手が。
軽く引かれた。
「カイ」
ソフィアが小さな声で呼ぶ。
「隣」
一瞬止まり。
カイは自分の足元を見る。
それから。
小さく笑った。
「はいはい」
半歩前へ。
ソフィアと並ぶ。
「はいは一回です」
「そこも礼法?」
「私の希望です」
「それなら仕方ないな」
二人で笑いながら歩く。
もう何度目か分からない。
けれど。
一度ごとに。
ほんの少しずつ。
隣が自然になっていった。
◇◇◇
その夜。
第四近衛騎士団の宿舎へ戻ったカイは、机の上に置かれた翌日の予定表を眺めていた。
午前。
最終礼法確認。
昼前。
主要貴族家代表との非公開顔合わせ。
午後。
婚約発表関連文書の確認。
紙に並んでいるだけなら短い。
けれど。
その中でも。
やはり一つ。
目に止まる。
「……いよいよ来たな」
今日まで自分の婚約を祝ってくれたのは、騎士団の仲間や侍女、皇城の使用人など、カイの人柄をある程度知っている者が多かった。
明日は違う。
第三皇女の婚姻を政治として見る者。
血筋を見る者。
家格を見る者。
帝国にとって利益があるかで判断する者。
そういう人間たちの前へ。
初めて。
婚約者として立つ。
怖い。
その気持ちは。
ちゃんと認める。
「逃げない」
今度は。
声に出して言った。
右手首へ触れる。
空雫石。
「ソフィーがいる」
でも。
彼女に隠れるわけではない。
全部守ってもらうつもりもない。
自分で立つ。
その横に。
ソフィアがいる。
「……隣」
今日、一日中言われた言葉。
後ろではなく。
前でもなく。
隣。
「難しいな」
少し笑う。
「でも」
ソフィアの声が。
頭の中へ戻る。
『カイがいいです』
何度聞いても。
その言葉は。
胸を温める。
「おやすみ、ソフィー」
誰にも聞こえない声で呼ぶ。
少しだけ間を置いて。
「明日も隣に立つから」
今度は。
それを。
自分自身への約束として。
口にした。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では、ソフィアもまた明日の顔合わせ予定者一覧へ目を通していた。
知っている名は多い。
幼い頃から何度も会った者もいる。
皇帝と政策を巡って激しい議論をする侯爵。
皇太子派として長く宮廷へ出入りしている伯爵。
皇族との縁を強く求めている家。
そして。
今回の婚約に。
明確な疑問を持つ者。
紙面を追っていたソフィアの指が、一つの名の上で少し止まる。
その様子を、少し離れた場所で茶器を整えていたエマは見逃さなかった。
「姫様」
「何です?」
「ご心配ですか?」
ソフィアはすぐには答えなかった。
自分が何を言われるか。
それなら。
慣れている。
第三皇女として生きてきた以上、好意だけを向けられてきたわけではない。陰口も、政略的な値踏みも、遠回しな嫌味も知っている。
心配なのは。
「はい」
「カイが?」
「はい」
それだけだった。
カイはこれまで。
平民であることを理由に。
孤児であることを理由に。
何度も傷ついてきた。
本人はあまり口にしない。
それでも。
ソフィアは。
知っている。
「また」
予定者一覧を持つ指へ少し力が入る。
「同じことを言われたら」
想像するだけで。
胸の奥が。
熱くなる。
怒りに。
「姫様」
エマが静かに声をかける。
「はい」
「カイは今日」
少しだけ笑う。
「何度も、殿下の隣へ戻ったそうです」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「はい」
「明日も」
「はい」
「戻ってきますよ」
ソフィアは小さく息を吐いた。
「そうですね」
自分が。
全部。
守るのではない。
カイは。
自分で。
立とうとしている。
だから。
自分は。
その横にいる。
「エマ」
「はい」
「明日」
「はい」
「もしカイが一歩下がったら」
ソフィアの口元に。
少しだけ。
笑みが戻る。
「引っ張ります」
「承知しております」
エマも静かに笑った。
「それから」
「はい」
ソフィアは左手首の夜空石へ目を落とした。
「何を言われても」
もう。
迷わない。
「私が選んだ人だと」
声は。
静か。
でも。
強い。
「堂々と伝えます」
婚約発表まで、あと五日。
翌日。
カイは初めて、騎士団でも侍女でも皇帝でもない者たちの前へ、第三皇女の婚約者として立つ。
祝福だけではないだろう。
疑問も。
反発も。
値踏みする視線も。
きっとある。
それでも。
今度は一人ではない。
ソフィアの後ろでもない。
守られるだけでもない。
彼女の隣で。
カイ自身の名前と。
カイ自身の言葉で。
自分はここに立つのだと示す。
そのための最初の顔合わせが。
もう、翌日に迫っていた。




