第20話 第三皇女様、舞踏の練習なのに近すぎませんか?
婚約発表まで、あと六日。
その日の朝、第四近衛騎士団の訓練場には、いつもと変わらない剣戟の音が響いていた。
春の朝日はまだ柔らかく、東側の高い城壁を越えて差し込んだ光が、夜の冷気を残す訓練場へ騎士たちの長い影を落としている。木剣同士がぶつかる乾いた音、地面を蹴る靴底の響き、指導役の鋭い声。それらが幾重にも重なり、今日も第四近衛騎士団の朝が始まっていた。
「カイさん、右!」
「見えてる!」
正面から一人、右側からもう一人。
二人の若い騎士が、ほぼ同時にカイへ踏み込んできた。
真正面から振り下ろされた木剣を、カイは半歩だけ身体をずらしてかわす。相手の剣先が肩口のすぐ横を通り抜けた瞬間、その懐へ踏み込み、手首へ軽く木剣を当てた。
「くっ!」
一人目の握りが崩れる。
だが、それを待っていたように右側から二人目が横薙ぎを放った。
カイは身体を沈めながら木剣を立て、相手の一撃を受け流す。木剣同士が甲高い音を立て、その衝撃で二人目の重心がわずかに浮いた。
そこを。
逃さない。
カイは床を蹴るように半歩踏み込み、相手の胸当ての中央へ木剣の先端をぴたりと止めた。
「そこまで!」
審判役の騎士が声を張る。
張りつめていた空気が一気にほどけ、対戦していた二人の青年騎士は揃って大きく息を吐いた。
「無理ですって!」
「二対一でも駄目じゃないですか!」
「昨日よりは良かったぞ」
カイは息を整えながら木剣を下ろす。
「最初の挟み方も悪くなかった。右から入った方も、あと半歩だけ遅らせれば俺の退路をもっと潰せた」
「勝った後に普通に反省点出してくるの、腹立ちますね」
「じゃあ次は三人で来い」
「絶対嫌です!」
周囲で見ていた騎士たちから笑い声が起こった。
カイもつられて笑い、木剣を肩へ軽く乗せる。
こうして身体を動かしている間だけは、少し気持ちが楽だった。
平民出身。
孤児。
姓もない。
そして、第三皇女ソフィア・フォン・ガルアの婚約者。
それらの言葉は、昨日までのカイなら絶対に一つの人物へ結びつかなかったものだ。
だが今は。
全部。
自分のことだった。
あと六日もすれば。
帝国中が知る。
自分が。
第三皇女の隣に立つ男だと。
そう考え始めれば、どうしても胸の奥がざわつく。
だからこそ、剣を握っている時間はありがたかった。
身体を動かすことだけへ集中できる。
次にどこへ踏み込むか。
誰がどの方向から来るか。
どう受けるか。
どう返すか。
それだけを考えている間は。
まだ。
いつものカイでいられる。
「カイ」
訓練場の端から聞き慣れた声が飛んできた。
振り返れば、第四近衛騎士団長のマリアが腕を組みながらこちらを見ていた。
「団長」
「今日はもういい」
カイは一瞬、聞き間違えたかと思った。
「……まだ朝ですよ?」
「知っている」
「昨日も午前だけでしたよね?」
「ああ」
「その前も途中で呼び出されましたよね?」
「ああ」
「俺、最近まともに一日訓練できてないんですけど」
「婚約者教育が始まったのだから仕方あるまい」
あまりにも当然のように言われ、カイは少しだけ顔をしかめた。
「その単語、騎士団でも普通に使うようになりましたね」
「もう秘密ではないからな」
「まだ帝国には公表してないでしょう」
「少なくとも、ここでは秘密ではない」
その言葉に周囲の騎士たちがまた少し笑う。
昨日までは、皆が何かを知っていて自分だけが知らない。
そんな妙な状態だった。
今はもう。
誰も隠さない。
それはそれで。
少し恥ずかしい。
「それで」
カイは木剣を脇へ下ろした。
「今日はどこです?」
「今日は白銀宮ではない」
「珍しい」
「舞踏練習場だ」
カイの動きが止まった。
「……今日?」
「今日だ」
「聞いてない」
「昨日、婚姻準備の日程説明で聞いたはずだ」
「舞踏は明日って聞いた気がしますけど」
「予定が前倒しになった」
「また?」
「婚約発表まで時間がない」
「六日あります」
「六日しかない」
「その言い方、昨日も聞きました」
「昨日も事実だったからな」
マリアは平然としている。
カイは少し天井を仰ぎたいような顔をした。
「俺、正式な舞踏なんてほとんど経験ありませんよ」
「知っている」
「騎士学校で型をやったくらいで、あとは宴会で適当に」
「それも知っている」
「何でそんなに何でも知ってるんです?」
「団長だからだ」
「便利ですね、その立場」
マリアの口元が少しだけ上がる。
「安心しろ。今日は姫様が直々に教えるそうだ」
「……」
カイが黙る。
マリアが眉を上げる。
「何だ、その顔」
「嫌な予感しかしない」
「なぜだ」
「絶対距離近いでしょう」
「舞踏だからな」
「そういう意味じゃなくて」
「ではどういう意味だ?」
「団長」
カイは少し恨めしそうな目を向けた。
「分かってて聞いてますよね」
「気のせいだ」
「本当にその言葉禁止にしません?」
マリアは堪えきれず小さく笑った。
「ともかく行け。姫様はもう待っている」
「また?」
「ああ」
「今日は何回時間を確認されたんです?」
「六回」
「まだ朝ですよね?」
「ああ」
「六回?」
「婚約発表まであと六日だから六回だそうだ」
「意味分からない!」
訓練場にまた笑い声が広がった。
カイは額へ片手を当てる。
「……分かりました」
「素直だな」
「行かなかったら七回目来そうだからです」
「正解だ」
「やっぱり来る予定だったんですね?」
マリアは答えない。
でも。
笑っている。
カイは諦めて木剣を片づけ始めた。
その口元は。
困っているようで。
少しだけ。
嬉しそうでもあった。
◇◇◇
舞踏練習場は、白銀宮から少し離れた皇城中央棟の一角に設けられていた。
正式な舞踏会を開く大広間ほどの広さではないが、それでも騎士団の訓練場とは比べものにならないほど華やかだった。白い石床は鏡のように磨き込まれ、壁の一面には大きな姿見がいくつも並んでいる。高い窓から入る昼前の陽射しが床へ落ち、室内全体へ淡い光を広げていた。
部屋の端では、小さな楽団まで準備をしていた。
弦楽器が数名。
笛が一人。
小型の鍵盤楽器まで置かれている。
カイは入口で足を止めた。
「……練習ですよね?」
「はい」
隣に立つエマが当然のように答える。
「何で楽団までいるんです?」
「実際の音に合わせて慣れていただく必要がございます」
「こんなに本格的なの?」
「婚約発表後の祝賀会まで時間がございませんので」
「俺、急に不安になってきました」
「今さらでございます」
「エマさんまで最近強くなってません?」
「姫様の婚約者でございますので」
「皆それ使うなあ……」
カイが小さく肩を落とした、その時。
「カイ!」
奥から声が飛んでくる。
聞き慣れた声。
でも。
今は少しだけ違って聞こえる。
カイが顔を上げる。
そして。
言葉を失った。
ソフィアがいた。
今日は普段のドレスではない。
淡い水色を基調とした舞踏練習用の衣装を身につけている。華美な宝石や重い刺繍はほとんどなく、裾も通常のドレスよりわずかに短い。足運びの邪魔にならないよう軽く作られており、銀髪も高い位置でまとめられていた。
普段より飾り気は少ない。
それなのに。
その分。
ソフィア自身の美しさが。
いつも以上に。
目に入る。
「……」
「カイ?」
ソフィアが少し不安そうに首を傾げる。
「どうしました?」
「いや」
「また見ています」
「うん」
「どうしてです?」
前なら。
何でもない。
そう言ったかもしれない。
あるいは。
衣装を確認していただけ。
そう誤魔化したかもしれない。
でも。
もう。
カイは自分の気持ちを知っている。
「似合ってる」
素直に答える。
ソフィアの頬が少し赤くなる。
「すごく」
その一言で。
さらに。
赤くなった。
「カイ」
「何?」
「今日は舞踏練習なのですよ」
「知ってる」
「まだ始まってもいません」
「うん」
「なのに」
ソフィアは胸元へ片手を当てた。
「もう心臓が疲れています」
「そこまで?」
「カイが悪いです」
「また俺?」
「はい」
即答だった。
壁際にいたエマが静かに笑っている。
カイも困ったように笑った。
「褒めない方がよかった?」
「それは絶対に嫌です」
「難しいな」
「カイが慣れてください」
「俺が?」
「はい」
「それ、ソフィーの方が慣れるべきじゃない?」
「七年待っていた人にそれを言います?」
「また七年」
「便利ですから」
ソフィアは少しだけ笑い、それから深く息を吐いて表情を整えた。
「では始めましょう」
「よろしくお願いします、先生」
「……先生?」
「教えてくれるんだろ?」
「そうですけど」
「じゃあ先生」
ソフィアは少し考えるように視線を揺らした。
「何だか嫌です」
「じゃあ姫様?」
「もっと嫌です」
「即答」
「二人でいる時はソフィーです」
「今は人いるけど」
「婚約者なので許します」
「出た」
カイが笑う。
でも。
そのまま。
少しだけ声を柔らかくした。
「じゃあ、よろしく。ソフィー」
人前。
完全な二人きりではない。
それでも。
自然に。
愛称を呼べるようになってきた。
ソフィアは一瞬目を丸くしたあと。
とても嬉しそうに。
「はい」
答えた。
◇◇◇
「まずは基本から確認します」
ソフィアは舞踏場の中央へ移動すると、カイへ向き直った。
「正式な舞踏会で女性を誘う場合の礼は覚えていますか?」
「騎士学校で一応」
「では、私を誘ってください」
「今?」
「はい」
「いきなり?」
「実践が一番です」
「怖い先生だな」
「先生は禁止です」
「はいはい」
カイは一度だけ肩を回した。
そして。
少し。
姿勢を正す。
騎士礼とは違う。
舞踏会で女性を誘うための礼。
男性側がどの距離から立つか。
どの角度で頭を下げるか。
右手をどこまで差し出すか。
知識として。
習ったことはある。
けれど。
実際に。
好きな人を。
しかも婚約者を。
誘うとなれば。
話は別だった。
カイはソフィアの前へ一歩進み。
右手を胸へ。
軽く頭を下げる。
「ソフィア・フォン・ガルア殿下」
「はい」
「一曲、お相手いただけますか」
ソフィアが動かない。
カイが少し顔を上げた。
「何?」
「もう一度」
「また?」
「お願いします」
「練習だぞ」
「大切です」
「何が?」
「全部です」
「はいはい」
カイは少し笑い。
今度は。
もう少し自分らしく。
呼びかけた。
「ソフィア殿下」
「はい」
「俺と一曲、踊っていただけますか」
先ほどより。
少しだけ。
騎士としての堅さを落とす。
すると。
ソフィアの表情も。
すぐに柔らかくなった。
「喜んで」
左手が差し出される。
カイが取る。
指先が触れる。
手なら。
もう。
何度も繋いでいる。
でも。
これは。
少し違う。
「次に」
ソフィアが少しだけ近づく。
「右手を、私の腰へ置いてください」
カイの動きが止まった。
「……そこ?」
「はい」
「腰?」
「舞踏ですから」
「知ってるけど」
「どうしました?」
ソフィアは平静を装っている。
でも。
頬は。
すでに少し赤い。
カイも。
同じくらい。
赤い。
「婚約者って知ったあとにやると」
「はい」
「妙に恥ずかしいな」
「……私もです」
「ソフィーも?」
「当たり前です」
「七年待ったのに?」
「それとこれは別です!」
「はいはい」
カイは笑った。
けれど。
いざ。
手を伸ばす瞬間になると。
少しだけ。
躊躇する。
「じゃあ」
「はい」
「触るよ」
「……はい」
右手を。
ソフィアの腰へ。
そっと。
添える。
薄い布越し。
それでも。
細い腰の形も。
微かな体温も。
手のひらへ伝わった。
「……」
カイの肩が固くなる。
ソフィアも。
少しだけ。
息を止めた。
壁際で見ていたエマが。
「お二人とも」
静かに。
咳払いをする。
「はい」
「舞踏でございます」
「分かってます!」
「分かっています!」
ほぼ同時。
楽団員たちの何人かが、慌てて口元を隠した。
「もう……」
ソフィアが恥ずかしそうに呟く。
でも。
腰へ置かれたカイの手を。
退けることはしない。
「続けます」
「うん」
ソフィアの右手と。
カイの左手。
軽く重ねる。
距離。
近い。
思ったより。
かなり。
近い。
カイは思わず。
「……近くない?」
小声で聞いた。
「舞踏です」
「知ってる」
「婚約者です」
「それは関係ある?」
「あります」
「絶対使ってるだろ」
「はい」
今度は。
二人とも。
少し笑った。
その笑いで。
ようやく。
緊張が少しだけほぐれた。
◇◇◇
楽団がゆっくり演奏を始めた。
柔らかな三拍子。
社交界で最も基本的に使われる舞曲。
「最初は私が合わせます」
ソフィアが小さな声で言う。
「カイは左足から」
「左」
「はい。一、二、三」
一歩。
「一、二、三」
続く。
「一、二――」
「痛っ」
小さな声。
カイの顔が一気に青ざめた。
「踏んだ!?」
「少しだけです」
「ごめん!」
「大丈夫です」
「だから言っただろ!」
「何をです?」
「俺、正式な舞踏ほとんどできないって!」
「だから練習しているのです!」
「皇女の足踏んだんだけど!」
「婚約者なので許します」
「万能すぎる!」
楽団の演奏が。
ほんの少し。
揺れた。
何人か。
笑いを堪えている。
エマは目を閉じ、何も見なかったことにするような顔をしていた。
「もう一度です」
「本当に?」
「はい」
「痛くない?」
「少しだけ」
「やっぱり痛いんじゃん!」
「でも踊れます」
「俺が場所代わった方が」
「逃げないでください」
「逃げてない!」
「では」
ソフィアは。
カイの左手を。
少しだけ。
強く握った。
「もう一度」
「……分かった」
曲が最初から続く。
一。
二。
三。
最初は。
やはり。
ぎこちない。
足を踏まないことへ意識が集中しすぎて、上半身へ余計な力が入る。
「カイ」
「何?」
「肩の力を抜いてください」
「足踏まないように集中してる」
「だから余計に硬くなっています」
「じゃあどこ見ればいい?」
「私を見てください」
「え?」
ソフィアが。
カイの目を。
まっすぐ。
見上げる。
「足元ではなく」
空色の瞳。
カイ。
好きな色。
でも。
今は。
色よりも。
そこにいる。
ソフィア自身を見る。
「私を見てください」
「……でも」
「私を信じて」
静かな声。
「最初は私が合わせます」
その言葉が。
胸へ。
少し深く入る。
七年前。
森の中。
今とは逆だった。
あの時。
手を引いたのは。
カイだった。
逃げ道も。
方向も。
何も分からない少女へ。
『俺についてこい』
そんなことを。
言った気がする。
今は。
ソフィアが。
自分の手を。
引いている。
「……分かった」
カイは足元を見るのをやめた。
ソフィアを見る。
「一、二、三」
二人。
動く。
「一、二、三」
さっきより。
自然。
「そうです」
「合ってる?」
「はい」
「踏んでない?」
「今は」
「今はって」
「集中してください」
「はい、先生」
「先生は禁止です」
「はい、ソフィー」
ソフィアが笑った。
その顔を見て。
カイの身体から。
少しずつ。
余計な力が抜けていく。
一。
二。
三。
回る。
淡い水色の裾が柔らかく広がる。
銀髪が軽く揺れる。
近い。
腕。
肩。
顔。
全部。
近い。
カイは。
少し。
見惚れた。
「カイ?」
「……綺麗だなって」
ソフィアの足が。
今度は。
逆に。
乱れた。
「きゃっ」
「危ない!」
カイが咄嗟に腰を抱くように支える。
ソフィアの身体が。
そのまま。
カイの胸元へ寄った。
楽団の演奏。
止まる。
「……」
「……」
二人。
固まる。
かなり。
近い。
ソフィアの両手は。
カイの胸元。
カイの右手は。
ソフィアの腰。
左腕も。
背中へ回りかけている。
「ソフィー」
「はい」
「大丈夫?」
「はい」
「転んでない?」
「はい」
「足?」
「大丈夫です」
「なら」
「はい」
でも。
離れない。
数秒。
いや。
多分。
もっと。
エマが。
再び。
咳払いをした。
「お二人とも」
「はい」
「舞踏練習でございます」
「分かってます!」
「分かっています!」
また。
同時だった。
とうとう。
楽団員たちから。
小さな笑い声が漏れた。
◇◇◇
少し休憩を挟むことになった。
二人は窓辺へ移動し、用意された水へ口をつける。カイは思った以上に身体へ力が入っていたらしく、喉がかなり渇いていた。
「カイ」
「何?」
「先ほど」
「うん」
「綺麗だと言いましたね」
「言った」
「舞踏中に」
「うん」
「危険です」
「何で」
「私が動けなくなります」
「そこまで?」
「カイが言うからです」
「じゃあ言わない方がいい?」
「それは嫌です」
「本当に難しいな」
「はい」
ソフィアは笑った。
恥ずかしそう。
でも。
とても嬉しそう。
「でも、かなり上達しましたよ」
「本当?」
「最初に足を踏まれた時はどうしようかと思いました」
「本当にごめん」
「もう大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「あとで薬塗る?」
「そこまでではありません」
「俺が塗ろうか?」
ソフィアが。
ぴたりと。
止まった。
「……」
「何?」
「カイ」
「何」
「今」
「うん」
「どこへ薬を塗るつもりです?」
「足」
「……」
「あ」
カイも。
遅れて。
気づいた。
舞踏靴。
足。
ドレス。
いろいろ。
「……ごめん」
「婚姻式までは手を出すなと、お父様から言われましたよね」
「そういう意味じゃない!」
「分かっています!」
「じゃあ何でそんなに赤くなる!」
「恥ずかしいからです!」
「俺も恥ずかしいよ!」
少し離れた場所にいたエマが。
完全に。
顔を逸らしていた。
「エマさん!」
「何でしょう」
「笑ってますよね!」
「気のせいでございます」
「禁止!」
◇◇◇
休憩後。
再び練習が始まった。
今度は。
少しだけ。
本番を意識する。
カイの足運びはまだ完璧とは言えないが、少なくともソフィアの足だけを見て慌てることはなくなっていた。視線を上げ、相手を見て、音を聞きながら身体を動かす余裕が少しずつ生まれている。
「婚約発表後」
踊りながら。
ソフィアが言う。
「小さな祝賀夜会が予定されています」
「聞いてない」
「今言いました」
「エマさんと同じこと言うようになったな」
「便利です」
「皆強いな」
「その夜会では」
ソフィアは少しだけ笑う。
「私と最初に踊っていただきます」
「最初?」
「はい」
「俺が?」
「婚約者ですから」
「……」
「嫌ですか?」
「違う」
カイの声が。
少しだけ。
真面目になる。
「人前だろ」
「はい」
「かなり見られる」
「はい」
「俺が足踏んだら」
「その時は笑います」
「余計目立つ!」
ソフィアは楽しそうに笑った。
でも。
その後。
少しだけ。
声を柔らかくした。
「カイ」
「何?」
「今日も、私の隣へ来てくれました」
「舞踏だから」
「それだけ?」
問われて。
カイは少し考える。
昨日。
婚約者として。
隣へ立つ。
そう。
決めた。
「……それだけじゃない」
「では?」
「婚約者として」
ソフィアの目が。
柔らかくなる。
「隣に立つ練習」
「はい」
「それなら」
カイは。
少し。
笑う。
「今」
「何です?」
「結構楽しい」
ソフィアの足が。
また少し。
乱れた。
「また!」
「何が?」
「そういう大事なことを急に言わないでください!」
「本当だから」
「カイ」
「何?」
「私、本番まで心臓が持ちません」
「六日あるぞ」
「六日しかありません!」
「団長と同じ言い方」
二人で笑う。
そして。
また。
一。
二。
三。
踊る。
今度は。
もう。
ソフィアが全部を合わせているわけではない。
カイ自身が。
音を聞き。
動きを考え。
右手で腰を支え。
左手でソフィアの手を導く。
「……」
ソフィアは。
それに気づいた。
カイの歩幅。
自分の歩幅。
少し違う。
でも。
今。
互いに。
合わせている。
「カイ」
「何?」
「今」
「うん」
「私に合わせてもらっているだけではありません」
「え?」
「カイが」
ソフィアが。
少し笑う。
「ちゃんと踊っています」
「本当?」
「はい」
その一言で。
カイの表情が少し明るくなる。
「じゃあ」
「はい」
「もう一回」
「喜んで」
次の曲へ。
そのまま。
二人は続けた。
◇◇◇
昼を過ぎる頃には、カイの舞踏は最初とは比べものにならないほど自然になっていた。
細かな姿勢。
視線。
歩幅。
回転時の手の位置。
直すところはいくらでもある。
それでも。
少なくとも。
祝賀夜会の場で何もできず固まるような状態ではない。
「今日はここまでにいたしましょう」
エマが声をかける。
「もう?」
ソフィアが少し残念そうに振り返る。
「もう二刻以上でございます」
「そんなに?」
カイも驚いた。
時間。
全然。
感じなかった。
「カイ様もお疲れでしょう」
「いや」
カイは少しだけ身体を伸ばす。
「思ったより楽しかった」
ソフィアが。
すぐに。
こちらを見る。
「本当ですか?」
「ああ」
「私と?」
「他に誰がいるんだよ」
ソフィアの頬が。
また赤くなる。
「また急に」
「本当なんだから仕方ないだろ」
「……はい」
嬉しい。
その顔。
隠せない。
◇◇◇
楽団と侍女たちが順番に退出していった。
最後にエマが残り、少しだけ二人を見たあと。
「姫様」
「何です?」
「私も外へおります」
「ありがとう」
「何かございましたらお呼びください」
「はい」
カイが少し眉を上げる。
「本当に皆、空気読むようになったな」
「前からです」
「俺が気づいてなかっただけ?」
「はい」
「それ最近よく聞く」
エマは少しだけ笑い。
扉を閉じた。
広い舞踏練習場へ。
静けさが戻る。
壁一面の鏡には。
二人だけ。
映っている。
濃紺の騎士服を着たカイ。
淡い水色の舞踏衣装を着たソフィア。
昨日。
礼装で並んだ時とは。
違う。
でも。
隣。
という位置だけは。
同じ。
「カイ」
「何?」
「もう一曲」
「え?」
「二人だけで」
ソフィアが。
少しだけ。
恥ずかしそうに言う。
「楽団帰ったぞ」
「音楽がなくても」
「踊れる?」
「ゆっくりなら」
カイは少し考え。
それから。
笑った。
「じゃあ」
右手を差し出す。
「一曲」
ソフィアの目が柔らかくなる。
左手を。
その手の上へ。
「喜んで」
音楽はない。
けれど。
二人は。
ゆっくり。
動き始めた。
「一、二、三」
カイが小さく数える。
ソフィアが笑う。
「声に出すのです?」
「ないと不安」
「では私も」
二人で。
「一、二、三」
少し。
おかしい。
でも。
楽しい。
「ソフィー」
「はい」
「本番」
「はい」
「絶対足踏まないようにする」
「もし踏んでも大丈夫です」
「嫌だ」
「では頑張ってください」
「ああ」
ゆっくり。
回る。
鏡の中で。
二人も。
回る。
「それと」
「何?」
「本番」
カイが。
少しだけ。
ソフィアを見る。
「俺」
「はい」
「なるべく堂々とする」
「なるべく?」
「最初から完璧は無理だろ」
「そうですね」
「でも」
握った手へ。
少し。
力を込める。
「隣には立つ」
「はい」
「逃げない」
「はい」
「それで」
少しだけ。
恥ずかしい。
でも。
言う。
「ソフィーと踊る」
ソフィアが笑った。
「楽しみにしています」
「俺も」
すぐ。
答えた。
ソフィアの目が。
少しだけ。
大きくなる。
「俺も楽しみ」
カイは。
今度は。
はっきり。
言った。
「怖くないわけじゃないけど」
「はい」
「今は」
少しだけ。
息を吐く。
「怖いより、楽しみの方が少し勝ってる」
ソフィアの胸が。
じんわり。
温かくなる。
「それは」
声。
少し震える。
「とても嬉しいです」
「泣く?」
「まだ」
「まだ?」
「本番まで取っておきます」
「泣くの取っておくもの?」
「私には必要です」
「変なの」
二人は。
また。
笑った。
◇◇◇
ゆっくり踊りながら。
ソフィアがふと。
カイの肩越しに。
鏡を見る。
そこに。
自分。
カイ。
二人。
並ぶ。
昔。
何度。
想像しただろう。
でも。
本当に。
この日が来るとは。
どこかで。
信じきれなかった。
「カイ」
「何?」
「私」
「うん」
「夢みたいです」
「何が?」
「こうして」
ソフィアは。
少しだけ。
カイを見上げる。
「カイと、婚姻のための舞踏を練習していることがです」
カイは。
少し。
黙った。
「七年前」
「はい」
「ここまで想像してた?」
ソフィアは。
少しだけ。
考えた。
「結婚したいとは思っていました」
「十歳で?」
「はい」
「早くない?」
「カイが悪いです」
「俺何した?」
「助けました」
「それだけ?」
「十分です」
ソフィアが。
少し。
笑う。
でも。
その笑顔の奥へ。
ほんの少し。
昔の寂しさが混ざった。
「でも」
「うん」
「カイが、私を好きになってくれるところまでは」
「……」
「想像することはありました」
ソフィアの声が。
少しだけ。
静かになる。
「けれど、本当に叶うとは思えない時もありました」
カイの胸が。
少し。
痛む。
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも七年」
「はい」
「待たせた」
「待ちました」
「長かった?」
ソフィアは。
迷わなかった。
「とても」
でも。
次の瞬間。
笑った。
「でも」
「うん」
「待ってよかったです」
カイの動きが。
少しだけ。
止まりそうになる。
「何で?」
「今」
ソフィアは。
繋いでいる手へ。
視線を落とした。
「カイが、自分で私を選んでくれたからです」
その言葉は。
何度聞いても。
胸へ。
深く。
入る。
「……そっか」
「はい」
カイは。
少しだけ。
笑った。
「じゃあ」
「はい」
「これからは、あんまり待たせないようにする」
ソフィアの目が。
少し。
大きくなる。
「……何を?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「あんまり一人で待たせない」
カイは。
今度。
真っ直ぐ。
言う。
「寂しい時」
「はい」
「会いたい時」
「はい」
「ちゃんと言って」
ソフィアの目が。
少し。
潤む。
「俺も」
少し。
照れながら。
「できるだけ言うから」
「……本当に?」
「ああ」
「カイから?」
「努力する」
「そこは即答ではないのですね」
「まだ恥ずかしい」
「ふふっ」
ソフィアは笑った。
「十分です」
◇◇◇
やがて。
二人の足が。
自然に止まった。
踊りは。
終わった。
でも。
カイは。
ソフィアの手を。
離さない。
腰に置いた右手も。
そのまま。
「……」
「……」
音楽も。
声も。
ない。
ただ。
近い。
距離だけが。
残る。
「カイ」
「何?」
「終わりました」
「うん」
「離れませんね」
「……」
言われて。
カイも。
ようやく。
気づく。
「嫌?」
「まさか」
ソフィアは。
少しだけ。
近づいた。
「むしろ」
「何?」
「もう少し」
カイは。
困ったように。
笑う。
「婚約者になった途端、距離近すぎない?」
「カイも離していません」
「それ言われると弱いな」
「では」
ソフィアの声が。
少しだけ。
期待を含む。
「このままでも?」
カイは。
もう。
迷わなかった。
「いいよ」
ソフィアが。
嬉しそうに笑う。
「少しだけ」
「はい」
カイの右手が。
腰から。
少し上へ移る。
背中。
そして。
腕。
回す。
舞踏の構えから。
自然に。
抱きしめる形へ。
ソフィアも。
両腕を。
カイの身体へ回す。
「……」
近い。
でも。
もう。
怖くない。
「舞踏より」
カイが小さく言う。
「こっちの方が落ち着く」
「私もです」
「じゃあ舞踏の練習いらない?」
「必要です」
「駄目か」
「はい」
「即答」
二人で。
笑った。
◇◇◇
夕方。
白銀宮へ戻る途中。
二人は皇城の回廊を歩いていた。
人がいる。
だから。
カイは。
自然に。
半歩。
一歩。
ソフィアの後ろへ下がる。
七年。
ずっと。
そうしてきた。
護衛として。
主君の背後へ。
少しだけ。
距離を置く。
その方が。
身体に。
染みついている。
途中。
ソフィアが。
足を止めた。
「カイ」
「はい?」
「こちらへ」
「何です?」
「隣です」
カイは。
周囲を見た。
侍女。
使用人。
何人か。
通っている。
「今?」
「はい」
「でも」
「婚約者です」
「まだ公表前ですよ」
「城内の主要な者は知っています」
「それはそうだけど」
ソフィアは。
手こそ。
差し出さなかった。
でも。
自分の隣。
一人分。
しっかり。
空けた。
「カイ」
「何?」
「練習です」
「舞踏は終わったぞ」
「隣に立つ練習です」
昨日。
言われた。
何度でも。
隣へ。
来てほしい。
だから。
カイは。
小さく。
息を吐いた。
「……分かった」
一歩。
前へ。
出る。
ソフィアと。
並ぶ。
人の目。
少し。
気になる。
使用人が。
一瞬。
見る。
侍女が。
二人へ。
礼をする。
騎士の一人も。
こちらを。
見る。
でも。
誰も。
笑わない。
誰も。
侮らない。
誰も。
おかしい。
そんな顔を。
しない。
何人かは。
むしろ。
穏やかな。
微笑みを。
見せる。
「……」
カイは。
それへ。
気づいた。
「どうしました?」
ソフィアが聞く。
「いや」
「何か?」
カイは。
少しだけ。
笑った。
「思ったより」
隣。
歩く。
少し。
胸。
軽くなる。
「大丈夫かも」
ソフィアも。
笑う。
「言ったでしょう?」
「うん」
「大丈夫です」
「ソフィーがいるから?」
「もちろん」
即答。
カイも。
少し。
笑う。
「じゃあ」
「はい」
「もうちょっと歩こう」
「はい」
それから。
二人は。
白銀宮へ戻るまで。
ほとんど。
同じ歩幅で。
並んで歩いた。
◇◇◇
その夜。
第四近衛騎士団宿舎。
カイは寝台へ入る前に、今日教わった足運びを狭い部屋の中で確認していた。
「一、二、三……」
左。
右。
少し回る。
「……狭い」
机へ腰をぶつけそうになり、慌てて止まる。
思わず。
笑った。
明日も。
また。
舞踏。
練習。
前までなら。
面倒。
それだけ。
思ったかもしれない。
でも。
今は。
「ソフィーと踊るんだもんな」
口にすると。
少し。
胸が温かい。
六日後。
婚約発表。
怖い。
それは。
まだ。
変わらない。
でも。
その後。
夜会。
ソフィアと。
最初に踊る。
その未来を。
楽しみだと。
思える。
「……よし」
カイは。
右手首の空雫石へ。
指先で触れた。
「もうちょっと練習するか」
誰も。
いない。
それでも。
少し。
笑う。
「おやすみ、ソフィー」
いつもの。
言葉。
そして。
今日は。
少しだけ。
続けた。
「本番」
小さく。
「ちゃんと踊るから」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮。
ソフィアも寝台の上で、今日の舞踏を何度も思い返していた。
最初。
足を踏まれた。
少し痛かった。
でも。
嬉しかった。
カイが。
必死に。
謝ってくれた。
途中。
綺麗だと。
言われた。
それで。
足を乱した。
恥ずかしかった。
でも。
もっと。
嬉しかった。
最後。
二人だけ。
音楽もないのに。
一緒に踊った。
「……」
ソフィアは。
枕を。
抱きしめる。
「幸せです」
誰もいない。
でも。
声にする。
「本当に」
七年。
待った。
今。
カイが。
少しずつ。
自分の隣へ。
来る。
まだ。
完全に。
慣れてはいない。
人の目も。
怖い。
自分なんかが。
そう。
思うことも。
まだある。
それでも。
今日は。
回廊で。
隣に並んだ。
「婚約発表まで、あと六日」
ソフィアは。
左手首の夜空石へ。
そっと。
触れる。
「大丈夫です」
カイは。
怖い。
きっと。
これからも。
何度も。
不安になる。
だから。
「私がいます」
ソフィアは。
少し。
笑う。
「何度でも、隣へ呼びます」
七年前。
暗い森の中で。
自分の手を引いてくれた少年。
あの時。
自分は。
ただ。
その背中を。
追いかけた。
今度は。
自分が。
手を取る。
カイが。
自分から。
隣へ来られるようになるまで。
何度でも。
「おやすみなさい、カイ」
小さな声。
そして。
少しだけ。
頬を赤くしながら。
「次は足を踏まないでくださいね」
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表まで、あと六日。
カイはまだ、第三皇女の婚約者として振る舞うことに慣れてはいない。
けれど。
今日。
また一歩。
前へ出た。
舞踏の中で。
回廊の上で。
これまでのように騎士として一歩後ろへ下がるのではなく。
ソフィアと同じ場所へ。
七年前は。
カイが。
ソフィアの手を引いた。
そして。
今は。
ソフィアが。
カイの手を。
隣へ。
引いている。
二人の歩幅は。
まだ完全には揃っていない。
それでも。
一歩ずつ。
少しずつ。
同じ未来へ。
確かに。
揃い始めていた。




