第19話 第三皇女様、そんなに堂々と婚約者扱いされたら心の準備が追いつきません
翌朝、第四近衛騎士団の訓練場には、いつもより少しだけ冷たい風が吹いていた。
空はよく晴れているものの、昨夜から続く北風が石壁の間を抜けるたび、まだ春になりきれない空気が頬を撫でていく。訓練場の中央では騎士たちが二人一組になって木剣を交え、乾いた打撃音と掛け声が一定の間隔で響いていた。
カイもその中にいた。
正面から振り下ろされた木剣を半歩ずらしてかわし、そのまま相手の脇へ踏み込む。すぐに剣を返し、相手が守りを固めるより早く胸当ての中央へ木剣の先を止めた。
「そこまで!」
審判役の声が飛ぶ。
対戦していた若い騎士は、その場で悔しそうに息を吐いた。
「また負けた……」
「最後の受けは良かったぞ」
「そこから普通に崩されたんですけど」
「じゃあ次は崩されないように考えろ」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないから訓練してるんだろ」
カイは笑いながら手を差し出した。
青年騎士も苦笑しながらその手を取り、勢いをつけて立ち上がる。ただ、立ち上がった直後、彼の視線がほんの一瞬だけカイの右手首へ落ちた。
空雫石の腕輪。
以前から身につけているものだ。
けれど昨日までと違って、今のカイはその意味を知っている。
「……何?」
カイが眉を寄せる。
「いえ」
「今、見ただろ」
「見てません」
「完全に見た」
「気のせいです」
「その言葉、本当に便利だな」
周囲で見ていた騎士たちから小さな笑い声が起きた。
ただ。
今日は少し違う。
いつもなら、単純にカイをからかって面白がっているだけの視線だった。ところが今日は、どこか事情を知っていながら、それでもまだ堂々と口にしてはいけない何かを抱えているような、妙な空気がある。
カイはゆっくり周囲を見回した。
すると、何人かが明らかに視線を逸らした。
「お前たち」
少し低い声を出す。
「何か知ってるだろ」
「何のことでしょう」
「婚約のこと」
一瞬。
本当に分かりやすく。
空気が止まった。
「やっぱり!」
カイの声が訓練場へ響く。
「何で俺より先に皆知ってるんだよ!」
「いや、正式な相手までは昨日聞きました!」
「昨日!?」
「団長から口止め付きで!」
「団長!」
少し離れた場所で書類へ目を通していたマリアが、面倒そうに顔を上げた。
「何だ」
「またですか!?」
「何がだ」
「何で皆に俺の婚約のこと話してるんです!」
「必要な者には情報共有が必要だからだ」
「必要な者って騎士団全員!?」
「婚約発表後の警備配置にも影響する。お前を含め、姫様周辺の警護体制も変わる」
「それはそうですけど!」
理屈としては正しい。
正しいからこそ反論しづらい。
それでも、自分の知らないところで着々と周囲だけが事情通になっていることには、やはり納得しきれないものがある。
「カイ」
そんなところへ、リナが横から近づいてきた。
「何」
「昨日知ったんだよね?」
「そうだけど」
「今どんな気分?」
「聞く?」
「聞きたい」
カイは一度深く息を吐いた。
「嬉しい」
「素直」
「でも、恥ずかしい」
「何で?」
「俺、自分に嫉妬してたんだぞ」
リナがすぐに口元を押さえた。
「笑うなよ」
「まだ笑ってない」
「顔が笑ってる」
「無理」
「おい」
「だって……婚約者に負けたくないとか、婚約者にソフィア様を渡したくないとか、ずっと言ってたじゃん」
「言うな!」
「その婚約者、全部カイ本人」
「分かってる!」
とうとう周囲から笑いが広がる。
カイは額を押さえた。
「本当に最悪だ……」
「でも」
リナの声が少しだけ柔らかくなる。
「良かったじゃん」
カイが顔を上げた。
「何が」
「姫様。ずっとカイだったんでしょ」
「……うん」
「それでカイも、姫様を選んだ」
「……うん」
今度は。
否定しなかった。
それだけで、リナの表情が少し嬉しそうに緩む。
「じゃあ良かった」
「簡単に言うなよ」
「何で」
「一週間後」
「婚約発表?」
「ああ」
カイは少しだけ空を見上げた。
「帝国中に知られる」
「そうだね」
「俺が、第三皇女の婚約者だって」
「そうなるね」
平民。
孤児。
姓もない。
それでも第三皇女に選ばれた男。
昨日、ソフィアには逃げないと言った。
隣に立つとも言った。
ただ。
だからといって、怖くないわけではない。
「……やっぱり」
リナが言う。
「顔、少し硬い」
「分かる?」
「七年も一緒に働いてるから」
「そこ、ソフィーと同じこと言うんだな」
「姫様ほどじゃないけどね」
リナは小さく笑った。
「でもさ」
「何」
「婚約発表って、カイ一人で立つわけじゃないでしょ」
カイは少し黙る。
「姫様も隣にいる」
昨日。
自分から言った。
『隣にいて』
そして。
ソフィアは即座に答えた。
『もちろんです』
「……そうだな」
「でしょ」
カイは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがと」
「珍しい」
「何が」
「素直にお礼言った」
「お前、俺を何だと思ってるの」
「面倒な鈍感」
「殴るぞ」
「婚約者になってもそこは変わらないんだ」
「変える必要ある?」
二人で少し笑った。
その時、マリアが訓練場の中央へ歩いてくる。
「カイ」
「はい」
「今日は午前訓練だけだ」
「また?」
「午後から白銀宮へ行け」
「何するんです?」
「肖像画用の衣装合わせだ」
「ああ……」
明後日。
そう聞いていたはずだった。
「今日じゃなかったですよね?」
「予定が前倒しになった」
「何で」
「婚約発表準備を早めたいそうだ」
「陛下?」
「半分」
「残り半分」
「姫様」
「……やっぱり」
カイは少しだけ苦笑した。
「楽しみにしてるんですか?」
「朝から三回確認が来た」
「まだ午前ですよね?」
「ああ」
「三回?」
「お前が訓練中か。怪我していないか。予定通り来られるか。その三つだ」
「全部俺?」
「全部お前」
「婚約者になった途端、心配増えてないですか?」
「昔からだ」
「……そうなの?」
マリアは少しだけ笑った。
「お前が知らなかっただけだ」
その言葉が。
少しだけ。
胸へ残った。
◇◇◇
訓練を終えたカイは、詰所で汗を流し、いつもの濃紺の近衛騎士服へ着替えた。
鏡の前で襟元を整え、剣帯を締める。
最後に。
右手首へ目を落とした。
空雫石の腕輪。
「……婚約者」
昨日から、何度その言葉を口にしたか分からない。
けれど。
まだ慣れない。
「俺が、ソフィーの婚約者か」
自分で言って。
少し笑う。
「……すごいな」
まだ。
少しだけ。
信じられない。
そんなところへ。
「おい」
後ろから声をかけられた。
振り返る。
さっき模擬戦をした若い騎士だった。
「何」
「おめでとうございます」
カイが止まる。
「……何が」
「まだ正式発表前だから、ここだけで」
青年は少しだけ笑った。
「婚約です」
「……ありがとう」
今度は。
素直に言えた。
「いいんですか?」
「何が」
「姫様のこと」
青年は少し言いづらそうに言葉を選んだ。
「俺たち平民組からすると、なんというか……すごいですよ」
カイは黙って続きを待った。
「平民出身でも、カイさんみたいに認められる人がいるって」
その言葉に、胸が少しだけ止まる。
「俺、別に目指してたわけじゃないけど」
「分かってます」
「むしろ昨日まで知らなかった」
「それ聞きました」
「誰から」
「団長」
「本当に何でも話すなあの人」
青年は笑った。
「でも、俺は嬉しいです」
「うん」
「カイさんだから」
その言葉には。
からかいも。
遠慮もなかった。
真っ直ぐな祝福だけだった。
カイはしばらく何も言えず。
それから。
少しだけ笑った。
「……ありがとな」
「はい」
「でも訓練は甘くしないぞ」
「そこは甘くしてくださいよ」
「嫌」
「婚約者になっても鬼」
「誰が鬼だ」
笑う。
胸の奥は。
さっきより。
少しだけ。
軽かった。
◇◇◇
白銀宮へ到着すると、今日は入口からすでに慌ただしかった。
侍女たちが何着もの衣装を運び、仕立て職人が大きな箱を抱えて回廊を行き来している。さらに奥では、絵師らしき年配の男まで額縁や布地の見本を確認していた。
「……本当に今日やるんだ」
「カイ」
エマが近づいてくる。
「お待ちしておりました」
「姫様は?」
「もちろんお待ちです」
「何回時間確認しました?」
「五回ほど」
「増えた」
「婚約者になられましたので」
「それ関係あります?」
「大いに」
「やっぱり便利な言葉になってる」
エマは少しだけ笑った。
「姫様は奥にいらっしゃいます」
「衣装合わせ?」
「はい」
「俺も?」
「当然です」
その当然にも。
まだ。
慣れない。
「カイ」
「何です?」
エマが少しだけ声を落とす。
「緊張しておられますか?」
「……分かります?」
「はい」
「やっぱり?」
「かなり」
カイは小さく息を吐いた。
「肖像画って、婚約発表用ですよね」
「はい」
「帝国中に出る?」
「主要都市、貴族家、各国大使館へ正式な複製が送られます」
「聞かなきゃ良かった」
「さらに帝都では公開掲示も予定されております」
「追加しないでください」
「事実ですので」
「強いな」
カイは少し顔を引きつらせた。
「俺、大丈夫ですかね」
「何がでしょう」
「見た目とか」
「……」
「そこ黙らないで」
「いえ」
エマはすぐに柔らかく笑った。
「十分でございます」
「本当に?」
「むしろ、姫様の方が心配です」
「何で」
「肖像画の最中、カイばかり見そうですので。正面を向いていただかないと困ります」
「それ俺の責任?」
「半分ほど」
「何で!」
その時。
扉の向こうから。
「聞こえていますよ!」
ソフィアの声が飛んできた。
「姫様」
エマが少し笑う。
「では、どうぞ」
扉が開いた。
◇◇◇
部屋へ入ったカイは。
まず。
足を止めた。
いつもの私室。
けれど今日は中央にいくつもの衣装台が並び、その周囲へ白や銀、深い青を基調とした礼装が掛けられている。皇族の婚約発表という言葉を形にしたような華やかさだった。
そして。
その奥に。
ソフィアが立っていた。
淡い水色を基調にしたドレス。
いつもより少しだけ格式の高い仕立てで、銀髪は上品にまとめられている。髪には細い宝石飾りが添えられ、空色の瞳が窓から入る光を受けて澄んでいた。
「……」
カイは。
普通に。
見惚れた。
ソフィアもすぐに気づく。
「カイ」
「うん」
「何か言ってください」
「……綺麗」
考えるより先に出た。
ソフィアの頬が赤くなる。
「それだけですか?」
「え」
「それだけ?」
「かなり綺麗」
「……」
「何」
「もう少し」
「何を」
「婚約者らしく」
「難しいな」
カイは少し困った。
けれど。
今は。
逃げない。
「じゃあ」
一度だけ考えて。
ソフィアを見る。
「多分、今日ここにいる男の中で、一番幸せ」
ソフィアが完全に止まった。
「……」
「どう?」
「カイ」
「何」
「それは」
胸元へ手を当てる。
「婚約者らしすぎます」
「どっちだよ」
周囲の侍女から小さな笑い声が起きる。
ソフィアの顔は真っ赤だ。
でも。
嬉しさも。
隠せていなかった。
「こちらへ来てください」
「はいはい」
「はいはい?」
「行くよ、ソフィー」
人がいる。
それなのに。
自然に。
愛称が出た。
侍女たちが何人か視線を合わせる。
ソフィア自身も、少し驚いたように目を瞬いた。
「今」
「何?」
「皆がいます」
「あ」
カイもようやく気づく。
でも。
もう。
遅い。
「……駄目だった?」
少しだけ照れながら聞く。
ソフィアはすぐに首を横へ振った。
「いいえ」
声が。
柔らかい。
「嬉しいです」
「じゃあ、いいか」
「はい」
その様子を後ろから見ていたエマの口元が。
少しだけ。
緩んでいた。
◇◇◇
「では、カイ様はこちらへ」
仕立て職人の代表が、白銀の礼装を示した。
前に仮縫いで着たもの。
ただ。
今回は。
ほぼ完成に近い。
胸元を流れる銀糸の刺繍。
帝国紋章。
肩へ配された深青。
儀礼剣を吊るす腰帯。
今は。
もう。
それが何なのか。
知っている。
「……花婿」
カイがぼそりと呟いた。
「はい」
仕立て職人が普通に答える。
「花婿衣装でございます」
「正式に言われると恥ずかしいな」
「カイ」
ソフィアが笑う。
「似合います」
「まだ着てない」
「前にも言いました」
「そうだった」
別室で着替える。
数分後。
鏡の前に立ったカイは。
少しだけ。
言葉を失った。
白銀の礼装。
前にも着た。
でも。
意味を知っている今は。
まったく違って見える。
「……俺、本当にこれで出るんだ」
後ろで職人が裾を整えながら答える。
「はい」
「帝国中に」
「はい」
「顔も出る」
「はい」
「逃げられない」
「逃がしません」
別の声。
振り返る。
ソフィアが入口に立っていた。
「ソフィー」
「はい」
「いつからいたの」
「今です」
「聞いてた?」
「最後だけ」
「良かった」
「何がです?」
「最初から聞かれてたら恥ずかしい」
「今も十分恥ずかしそうです」
「うるさい」
カイは少し苦笑する。
するとソフィアがゆっくり近づき。
隣へ立った。
鏡の中。
二人が並ぶ。
白銀の礼装を着たカイ。
淡い水色の婚約者用ドレスを纏ったソフィア。
互いの手首には。
夜空石。
空雫石。
二つの腕輪。
前にも。
似た光景を見た。
その時は。
花嫁と花婿みたいだと。
他人事のように思った。
今は。
違う。
「ソフィー」
「はい」
「似合ってる?」
「とても」
「俺、隣にいても変じゃない?」
少し。
息を吐いてから聞いた。
ソフィアは鏡越しではなく。
直接。
カイを見た。
「変ではありません」
「本当に?」
「はい」
少しだけ近づく。
「むしろ、私がずっと見たかった姿です」
カイの胸が鳴る。
「七年?」
「七年です」
「長い」
「カイが待たせました」
「ごめん」
「許しました」
「早い」
「好きと言ってくれましたから」
いつものやり取り。
でも。
今日は。
周囲に仕立て職人も侍女もいる。
皆。
静かに。
見ている。
カイも遅れて気づいた。
「……見られてる」
「当然です」
「恥ずかしい」
「これからもっと見られます」
「言わないで」
ソフィアは少し笑った。
「慣れてください」
「無理」
「婚約者ですから」
「またそれ」
◇◇◇
衣装の最終調整が進む間に、婚約発表用の肖像画を担当する絵師も部屋へ入ってきた。
年配の男だった。
落ち着いた顔立ちで、カイへ丁寧に一礼する。
「初めまして、カイ様」
「様は……」
「今回は必要でございます」
「……そうですか」
また。
一つ。
立場が変わった。
呼ばれ方が変わる。
衣装も。
立ち位置も。
少しずつ。
自分の知らなかった場所へ移っていく。
「婚約発表用の肖像では、お二人の関係が硬く見えすぎないよう、少し自然な構図を考えております」
「自然?」
「はい」
絵師が下絵を見せる。
ソフィアが中央。
その隣にカイ。
しかも。
距離が。
近い。
「近くない?」
「婚約者ですので」
今度は。
ほぼ全員が。
同じような顔をした。
カイは頭を押さえた。
「帝国では婚約者って万能な言葉なんですか?」
「今さらでございますね」
横からエマ。
「エマさんまで」
絵師が構図を確認しながら続ける。
「殿下はこちら。カイ様は半歩後ろではなく、同じ位置へお願いいたします」
その言葉で。
カイの動きが止まった。
「同じ?」
「はい」
騎士なら。
一歩後ろ。
護衛の位置。
七年間。
それが。
当たり前だった。
「隣」
ソフィアが言った。
カイが見る。
「カイ」
「うん」
「今日は、私の後ろではなく」
ソフィアは少しだけ手を差し出した。
空色の瞳が。
まっすぐ。
カイを見る。
「隣へ来てください」
胸の奥が。
少しだけ。
苦しくなる。
でも。
前までの。
痛い苦しさとは違う。
慣れない。
怖い。
でも。
嬉しい。
「……分かった」
カイはその手を取った。
そして。
一歩。
前へ出る。
ソフィアと。
同じ位置へ。
「これで?」
「はい」
「変じゃない?」
「全然」
「俺はまだ変な感じする」
「そのうち慣れます」
「本当に?」
「何度でも隣に立てば」
ソフィアが笑う。
「慣れます」
カイも少しだけ笑った。
「じゃあ」
「はい」
「何度でも立つ」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「はい」
◇◇◇
肖像用の立ち位置確認が始まった。
まずは二人で正面を向く。
カイの肩には明らかに力が入っていた。
「カイ様」
絵師が声をかける。
「もう少し肩の力を」
「これでも抜いてます」
「訓練場ではもっと柔らかな顔をされると伺いました」
「誰情報?」
「マリア様」
「団長!」
少し離れた場所にいたマリアが平然と答える。
「何だ」
「何でも話しすぎです!」
「必要な情報だ」
「俺の表情が!?」
「肖像画には必要だろう」
「そうだけど!」
そのやり取りを見ていたソフィアが笑う。
すると。
絵師がすぐに反応した。
「殿下、その表情です」
「え?」
「今の自然な笑顔を」
ソフィアが少し困ったようにカイを見る。
「カイ様」
「はい」
「殿下へ何かお話しください」
「何を」
「何でも」
「肖像画なのに?」
「自然な表情を確認するためです」
「……」
カイがソフィアを見る。
「何話す?」
「何でも」
「好き」
即答。
ソフィアが固まった。
部屋の空気まで止まる。
「……」
「……」
「カイ」
「何」
「今」
「何でもいいって言ったから」
「だからって!」
「一番簡単」
「簡単!?」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
それでも。
すぐに。
笑ってしまった。
「はい、そのまま」
絵師が即座に告げる。
「今!?」
「殿下、とても良い表情です」
「無理です!」
侍女たちから笑いが漏れる。
マリアも横で完全に楽しんでいる。
「カイ様も」
「はい」
「殿下をご覧ください」
「こう?」
言われるまま。
ソフィアを見る。
目が合う。
距離も近い。
ソフィアはまだ頬を赤くしている。
でも。
嬉しそう。
その顔を。
カイは。
好きだと思う。
だから。
自然に。
笑った。
「今です」
絵師が満足そうに頷く。
「この表情でお願いいたします」
カイは少し驚いた。
「俺、今どんな顔?」
ソフィアが見る。
「優しい顔です」
「本当?」
「はい」
「ソフィー相手だからかも」
また。
ソフィアの顔が赤くなる。
「カイ!」
「何」
「肖像画が進みません!」
「俺のせい?」
「半分です!」
「また半分!」
部屋中に。
笑いが広がった。
◇◇◇
衣装合わせと構図確認が一段落する頃には、かなり時間が経っていた。
カイは白銀の礼装を脱ぎ、いつもの濃紺の騎士服へ着替え直した。
戻った瞬間。
「落ち着く」
思わず。
深く息を吐く。
「そんなに?」
ソフィアが少し不思議そうに見る。
「こっちの方が俺って感じする」
「先ほどもカイです」
「分かってるけど」
カイは自分の胸元を見る。
「礼装を着ると、別の人になったみたいな感じするんだよ」
ソフィアが静かに近づいた。
「カイ」
「何」
「それは違います」
右手を取られる。
「礼装を着ても」
「うん」
「婚約者になっても」
「うん」
「爵位や姓を得ても」
カイが見る。
「カイはカイです」
昨日も。
言われた。
でも。
今日も。
必要だった。
「私が好きなのは」
ソフィアが少し笑う。
「その人です」
カイの目が少し細くなる。
「……ありがとう」
「はい」
「でも」
「何です?」
「俺も」
今度は。
カイがソフィアを見る。
「皇女だから好きなわけじゃない」
「……」
「ソフィーだから好き」
ソフィアの目が。
すぐに。
潤む。
「また泣く?」
「カイが悪いです」
「今日まだ少ないだろ」
「回数の問題ではありません」
「そっか」
カイは笑った。
それから。
少しだけ周囲を見る。
エマ。
職人。
まだ。
いる。
「二人きりになったら」
「はい」
「抱きしめる」
ソフィアの顔が一気に赤くなる。
「今言うのですか!?」
「予告」
「必要ありません!」
「嫌?」
「嫌ではありません!」
周囲からまた笑いが漏れる。
「また聞かれましたね」
エマが小さく言う。
「エマ!」
ソフィアが怒る。
カイは。
楽しそうに。
笑っていた。
◇◇◇
夕方近く。
ようやく全ての確認が終わり、職人や絵師たちが部屋を退出していった。
エマも茶器だけ整えると、空気を読んだように一礼する。
「では、私は外におります」
「ありがとう」
ソフィアも素直に答える。
扉が閉じる。
室内へ。
静けさが戻る。
二人きり。
「……」
「……」
カイがソフィアを見る。
ソフィアも見る。
「何です?」
「約束」
「何の?」
「さっきの」
カイは少しだけ照れながら。
両腕を広げた。
「抱きしめるって」
ソフィアの頬が赤くなる。
「覚えていたのですか?」
「忘れるわけない」
その言葉は。
ソフィアが。
昔から。
何度も好きだった言葉。
カイは。
自分との約束を。
ちゃんと覚えている。
「……行っても?」
「おいで」
ソフィアはゆっくり近づき。
その胸へ入った。
カイが腕を回す。
背中を包む。
昼の間。
ずっと人がいた。
触れられなかったわけではない。
でも。
婚約者として人前へ立つ。
その緊張は。
思っていた以上に大きかった。
だから。
二人になった瞬間。
ようやく。
息が抜けた。
「……はあ」
カイが小さく息を吐く。
「どうしました?」
「落ち着いた」
「抱きしめて?」
「うん」
ソフィアも腕へ少し力を込める。
「私もです」
しばらく。
何も話さなかった。
カイはゆっくり。
ソフィアの背中を撫でる。
「ソフィー」
「はい」
「今日」
「はい」
「隣に立ってって言っただろ」
「はい」
「俺」
少し。
言葉を探す。
「ずっと後ろにいたから」
「はい」
「護衛として」
「はい」
「一歩後ろ」
「はい」
「それが普通だった」
ソフィアは静かに聞く。
「だから」
カイは少し笑った。
「隣って、思ったより怖かった」
ソフィアが顔を上げる。
「怖い?」
「ああ」
「私の隣が?」
「違う」
すぐに首を横へ振る。
「そこにいる自分が」
ソフィアは黙った。
「俺でいいのかなって」
「……」
「今日も何回も思った」
カイは少しだけ苦く笑った。
「礼装を着て。鏡を見て。ソフィーと並んで。絵師に同じ位置へ立てって言われて」
一つずつ。
自分の中にあった不安を出していく。
「俺、本当にそこにいていいのかなって」
ソフィアの腕が。
少しだけ。
強くなる。
「でも」
はっきり。
「私は、その場所にカイがいてほしいです」
「うん」
「後ろではなく」
「うん」
「隣に」
カイは目を閉じた。
「何度でも言います」
「何を」
「カイがいいです」
胸が温かくなる。
「私の婚約者はカイがいい。隣に立つのも、婚姻式で手を取るのも、その先ずっと一緒にいるのも」
ソフィアが顔を上げる。
空色の瞳が。
まっすぐ。
カイを見た。
「全部、カイがいいです」
カイは何も言えなかった。
少しだけ。
鼻の奥が痛い。
泣くほどではない。
けれど。
胸が。
いっぱいになる。
「……ずるいな」
「何がです?」
「俺が弱ってる時、欲しいこと全部言う」
「七年見ていますから」
「またそれ」
カイは少しだけ笑った。
「じゃあ」
「はい」
「俺も言う」
ソフィアが静かに待つ。
「一週間後」
「はい」
「怖い」
「はい」
「多分、いろいろ言われる」
「はい」
「でも」
カイはソフィアを抱く腕へ少し力を込める。
「隣にいて」
「もちろんです」
「俺が後ろに下がろうとしたら?」
「手を引きます」
「逃げたら?」
「追います」
「強いな」
「七年です」
「何でも七年」
「便利です」
「そっか」
カイは笑った。
「じゃあ逃げない」
「はい」
「隣に立つ」
「はい」
「ちゃんと」
一度だけ。
ソフィアを見る。
「婚約者として」
ソフィアも。
嬉しそうに笑った。
「待っています」
「もう婚約者だけど」
「では」
少しだけ照れながら。
「夫になる人として」
カイの動きが止まる。
「それ」
「何です?」
「まだ慣れない」
「二月で慣れてください」
「厳しい」
「必要です」
二人で。
笑った。
◇◇◇
その夜。
第四近衛騎士団宿舎。
カイは机へ座り、婚約発表までの予定を書いた簡易表を眺めていた。
明日は礼法。
明後日は舞踏。
その次は肖像画の最終確認。
そして。
一週間後。
婚約発表。
忙しい。
本当に。
忙しい。
でも。
今日。
一つだけ。
予定表には書かれていないことを知った。
若い騎士が。
『嬉しいです』
そう言ってくれた。
『カイさんだから』
そう。
祝ってくれた。
全部が敵ではない。
全部が批判でもない。
自分は。
怖い未来ばかりを想像していた。
でも。
祝福してくれる人も。
いる。
そして何より。
ソフィアが隣にいる。
「……大丈夫」
小さく言う。
腕輪へ触れる。
「多分」
一度だけ。
笑う。
でも。
すぐに。
言い直した。
「いや」
もう。
逃げない。
「大丈夫にする」
自分一人で。
ではない。
二人で。
「おやすみ、ソフィー」
いつもの。
小さな声。
そして。
今日は少しだけ続ける。
「一週間後」
間を置く。
「ちゃんと隣に立つから」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮。
ソフィアもまた、婚約発表用の予定表へ目を通していた。
ただし。
内容は。
ほとんど頭へ入っていない。
今日見た。
カイの礼装姿。
それを。
何度も。
思い返している。
「……」
頬が赤い。
「格好良かったです」
誰もいない。
それでも。
口にする。
鏡の前。
二人で並んだ。
前なら。
花嫁と花婿みたいだと。
そう思っても。
カイは知らなかった。
でも。
今日は。
違う。
知っている。
婚約者として。
自分で。
ソフィアを選んで。
隣へ立った。
「カイ」
夜空石の腕輪へ触れる。
「大丈夫です」
婚約発表。
きっと。
いろいろな反応がある。
嬉しい声。
驚く声。
批判する声だって。
あるかもしれない。
でも。
もう。
一人で婚姻準備をしているわけではない。
「今度は」
ソフィアは少しだけ笑った。
「私が手を引きます」
七年前。
森の中。
手を引いたのは。
カイだった。
今度は。
自分が。
カイを隣へ連れていく。
「おやすみなさい、カイ」
小さく。
そして。
「私の隣へ」
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表まで、あと一週間。
カイはまだ、自分が第三皇女の隣へ立つことに慣れていない。
それでもソフィアは、何度でもその手を取るつもりだった。
騎士として一歩後ろに立つのではなく。
一人の男として。
婚約者として。
そして。
いずれ夫になる人として。
自分の隣に。
立ってもらうために。




