第18話 第三皇女様、婚約者になった途端に距離が近すぎませんか?
白銀宮の私室には、先ほどまでの騒がしさが嘘のような静けさが戻っていた。
窓の外では午後の陽射しが庭園を柔らかく照らし、淡い色の花々が春風に揺れている。卓上の白花茶からは細い湯気が立ち上り、つい先ほどエマが淹れ直していったのだろう、甘い花の香りが室内へ薄く広がっていた。
穏やかな午後だった。
少なくとも。
部屋の空気だけなら。
けれどカイは、先ほどからまったく落ち着かなかった。
「……」
ソファーへ座りながら、何度目か分からないほど右手首を見る。
空雫石の腕輪。
銀色の金具の裏側には、ソフィーという名前が刻まれている。
昨日までと何も変わっていない。
腕輪の形も。
石の色も。
手首へ触れる感覚も。
それなのに。
意味だけが。
完全に変わった。
婚約者から贈られた腕輪。
そう考えた瞬間、胸の奥がまた妙に落ち着かなくなる。
「カイ」
「何?」
「また腕輪を見ています」
隣から楽しそうな声がする。
振り向けば、ソフィアがこちらを見ていた。
「……そう?」
「先ほどから十回以上」
「数えてたの?」
「はい」
「暇だな」
「婚約者を見ていますので」
「言い方」
カイが苦笑すると、ソフィアは当然のように少しだけ身体を寄せた。
肩が触れる。
「……近くない?」
「婚約者ですから」
「それ、便利な言葉にする気?」
「はい」
「即答かよ」
今までだって、何度もこのくらいの距離にはなった。
手も繋いだ。
肩を寄せた。
抱きしめたことだってある。
けれど。
今日。
意味が違う。
その違いを意識した瞬間、カイの身体が少しだけ硬くなった。
ソフィアはすぐに気づく。
「緊張しています?」
「少し」
「私に?」
「今さらって思うだろ」
「少しは」
「ほら」
「でも」
ソフィアは少しだけ嬉しそうに笑った。
「婚約者になったから緊張しているのなら、私は嬉しいです」
「何で」
「女性として意識しているということでしょう?」
カイは返事に詰まる。
以前なら。
ここで誤魔化した。
でも今は。
「……まあ」
「まあ?」
「意識してる」
素直に言った。
すると。
今度はソフィアの頬が赤くなる。
「カイ」
「何」
「今日は本当に素直ですね」
「昨日まで散々、分かりやすくしろって言われたから」
「良い傾向です」
「誰目線?」
「婚約者目線です」
「それも使うの?」
「はい」
カイは笑った。
けれど。
自分でも分かる。
口元は自然に緩んでいる。
「……婚約者、か」
小さく呟く。
ソフィアはすぐに反応した。
「はい」
「本当に俺なんだな」
「何回確認するのです?」
「まだ慣れない」
「では」
ソフィアは身体を少しカイの方へ向けた。
「慣れるまで何度でも言います」
「何を?」
「カイは私の婚約者です」
真っ直ぐ言われる。
胸がまた鳴った。
「……恥ずかしいな」
「私は嬉しいです」
「俺も」
ソフィアの目が少し大きくなる。
カイは照れたように笑いながら言い直した。
「俺も嬉しい」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「はい」
◇◇◇
「それで」
少しして、カイは姿勢を正した。
「聞きたいことがある」
「何です?」
「婚約者って」
「はい」
「何するの?」
ソフィアが止まった。
「……」
「何その顔」
「いえ」
「笑うな」
「笑っていません」
「絶対笑ってる」
「だって」
ソフィアは口元を押さえた。
「カイがあまりにも真剣なので」
「真剣だよ」
「何をすればいいのか、本当に分からない?」
「分からない」
即答だった。
「騎士としてなら分かる。護衛する。守る。命令を聞く」
「最後は少し違います」
「え?」
「婚約者になったのですから、そこは変えていただきます」
「勝手に?」
「はい」
「強いな」
「カイにも、ちゃんと自分の意見を言ってもらいます」
「それは前から言ってたな」
「それから」
「何?」
「私が我が儘を言った時は、嫌なら嫌と言ってください」
「……成長したな」
「誰のせいだと思っているのです?」
「俺?」
「はい」
「また俺?」
ソフィアが笑う。
カイもつられて笑った。
でも。
すぐに少し真面目な顔になる。
「本当に、分からないんだよ」
「婚約者として何をすればいいか?」
「ああ」
カイは視線を落とした。
「今まで、ソフィーの傍にいる理由って全部、騎士だからで説明できた」
「はい」
「守るのも、近くにいるのも、手を取るのも、危ない時に抱き寄せるのも」
今までなら。
全部。
仕事。
そう言えた。
「でも今は」
カイは胸元へ手を当てる。
「婚約者でもある」
「はい」
「じゃあ、どこまでしていいのか分からない」
ソフィアの目が少し柔らかくなった。
「カイ」
「何?」
「まず、私の隣にいてください」
「今いる」
「では次」
「何」
「手を繋いでください」
カイは少しだけ目を瞬いた。
「今でも?」
「はい」
「必要?」
「婚約者ですから」
「またそれ」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
「では」
ソフィアが左手を差し出す。
カイは少し笑いながら、その手を取った。
もう。
指を絡めることにも。
以前ほどの戸惑いはない。
「次は?」
「私が嬉しそうなら、一緒に喜んでください」
「うん」
「寂しそうなら?」
「傍にいる」
「はい」
「泣いてたら」
「抱きしめる」
ソフィアが止まる。
「……即答」
「最近多いからな」
「カイが泣かせるからです」
「嬉しい涙だろ?」
「はい」
「ならいい」
「良くありません」
「どっちだよ」
二人で笑う。
ソフィアは繋いだ手を見ながら、さらに続けた。
「それから」
「何?」
「私が誰かに傷つけられたら」
「守る」
その一言だけ。
声が変わった。
迷いはなかった。
「それは騎士として?」
「両方」
ソフィアの呼吸が少し止まる。
「婚約者としても?」
「ああ」
カイは繋いだ手へ少し力を込めた。
「絶対守る」
ソフィアの目が潤み始める。
「また泣く?」
「まだ耐えます」
「偉い」
「子供扱いしないでください」
「泣くのソフィーだろ」
「カイが悪いです」
「はいはい」
口ではそう言いながら。
カイも。
少し嬉しかった。
◇◇◇
しばらく二人は、紅茶を飲みながら婚姻準備について話した。
これまでも婚姻準備そのものには関わってきた。
けれど今まで。
カイは。
自分とは無関係な誰かの婚姻準備だと思っていた。
それが。
全部。
自分のことだった。
「礼法教育、増えるって言われた」
カイが少し嫌そうに言う。
「必要です」
「知ってる」
「舞踏会での正式な立ち位置も覚えていただきます」
「舞踏会?」
「はい」
「踊る?」
「もちろんです」
「俺、正式な舞踏なんてほとんど経験ないぞ」
「私が教えます」
「ソフィーが?」
「何です、その顔」
「踏みそう」
「誰が?」
「俺が」
「なら踏まれても我慢します」
「皇女の足踏んだら死刑じゃない?」
「婚約者なので許します」
「万能だな」
「はい」
ソフィアは楽しそうだった。
「それから礼装」
「あれか」
「はい」
「花婿みたいだったやつ」
「花婿です」
カイが完全に止まった。
「……」
「……」
「今」
「はい」
「普通に言ったよね」
「もう秘密ではありませんから」
「そっか」
カイの頬が少し赤くなる。
「あれ、本当に俺の婚姻礼装なんだ」
「はい」
「ソフィーの隣に」
「はい」
「花婿として」
「はい」
全部。
迷いのない返事。
カイは思わず額を押さえた。
「すごいな」
「何がです?」
「急に現実が来た」
さっきまでは。
好き。
嬉しい。
婚約者。
その言葉だけで精一杯だった。
でも。
ここまで具体的になると。
違う。
「二月後」
「はい」
「本当に結婚するんだ」
「はい」
「俺たち」
「はい」
「夫婦?」
今度は。
ソフィアの頬が一気に真っ赤になる。
「……はい」
「ソフィー」
「何です?」
「顔すごいぞ」
「カイもです」
「俺も?」
「はい」
互いに顔を見て。
少しだけ笑う。
「夫婦か」
カイはもう一度言った。
「はい」
「……やばいな」
「嫌ですか?」
「違う」
すぐに首を横へ振る。
「嬉しいけど、まだ実感がついてこない」
「私もです」
「ソフィーも?」
「もちろん」
「七年待ってたのに?」
「待っていても」
ソフィアは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「本当に叶うとなると、別です」
カイが笑う。
「同じだな」
「はい」
そんな答えを聞けたことが。
少しだけ。
嬉しかった。
◇◇◇
「そういえば」
カイがふと思い出す。
「婚姻式まで手を出すなって」
その瞬間。
ソフィアの顔が一気に赤くなった。
「その話を今します!?」
「いや」
「お父様!」
「今ここにいないから」
「そういう問題ではありません!」
カイは少し笑った。
「でも、一応確認」
「何を?」
ここから先。
少しだけ声を落とす。
「俺たち、どこまでがいい?」
ソフィアが完全に止まった。
「……」
「ソフィー?」
「少し待ってください」
「また?」
「重要です!」
「だから聞いてるんだけど」
「心の準備が」
「別に今何かするって話じゃない」
「それでもです!」
ソフィアは両手で頬を押さえた。
カイも少し困る。
「嫌なら」
「嫌ではありません!」
「早い」
「違います!」
「何が」
「カイと触れ合うことが嫌ではないという意味です!」
「分かってる」
「笑わないでください!」
「笑ってない」
「笑っています!」
しばらく。
二人で小さく言い合う。
けれど。
こういうところを。
きちんと話すことも。
婚約者になったからこそ必要なのかもしれない。
カイは少し真面目な顔へ戻った。
「じゃあ、手を繋ぐ」
「はい」
「抱きしめる」
「はい」
「そこまでは?」
ソフィアも少しだけ落ち着く。
「……大丈夫です」
「それ以上は?」
少し間があった。
「婚姻式まで、待ちます」
小さな声。
カイはすぐに頷いた。
「分かった」
ソフィアが少し不安そうに見る。
「本当に?」
「ああ」
「我慢できます?」
「何だその聞き方」
「だって……男性は大変だと」
「誰から聞いた」
「エマです」
「エマさん!」
扉の外から返事はない。
でも。
多分。
聞いている。
カイは一度息を吐いたあと、改めてソフィアを見る。
「大丈夫だよ」
「……はい」
「ソフィーが嫌がることは絶対しない」
それだけは。
迷いなく言えた。
ソフィアの目が柔らかくなる。
「カイ」
「何?」
「好きです」
「急だな」
「言いたくなりました」
「そっか」
カイは少し笑った。
「俺も好き」
ソフィアはまた頬を赤くした。
「何で俺が言うと毎回照れるの」
「七年分です」
「便利な言葉」
「はい」
◇◇◇
その日の午後。
エマが再び部屋へ入ってきた。
手には。
かなり厚い。
書類の束。
それを見た瞬間。
カイの中に。
嫌な予感が生まれた。
「……何です、それ」
「婚姻準備予定表でございます」
「こんなに?」
「一部です」
「一部!?」
隣でソフィアが少しだけ視線を逸らす。
「カイ」
「知ってた?」
「はい」
「何で言わなかった」
「婚約者を明かしてからでないと説明できませんでしたので」
「そりゃそうだけど」
エマが卓上へ書類を置く。
どさり。
という。
明らかに軽くない音。
「主な予定だけご説明いたします」
「主なだけでその厚さ?」
「詳細は別紙です」
「増えた!」
ソフィアが小さく笑う。
「まず、婚姻礼装の最終採寸」
「はい」
「礼法教育」
「はい」
「舞踏訓練」
「はい」
「帝国史および皇族儀礼の再教育」
「再?」
「騎士教育でも学んでおりますが、婚姻相手として必要な範囲が異なります」
「なるほど」
「貴族家代表との顔合わせ」
「……嫌な予感がする」
「かなりございます」
「やっぱり」
「それから」
エマが少しだけ間を置く。
「姓および身分に関する正式手続き」
カイの表情が少し変わった。
「姓」
「はい」
「本当に必要なんですね」
「必要になります」
ソフィアが隣から静かに声をかける。
「カイ」
「何?」
「嫌ですか?」
カイは少しだけ考えた。
今まで。
ずっと。
ただのカイ。
それで生きてきた。
姓がないことを恥じなかったわけではない。
むしろ。
何度も。
それを理由に馬鹿にされてきた。
でも。
それでも。
姓がないということまで含めて。
自分だった。
「……分からない」
正直に言う。
「急に自分の名前が変わる感じがする」
「完全に消えるわけではありません」
エマが穏やかに答える。
「どの形式にするかは陛下と協議したうえで決定されます」
「そっか」
少し。
複雑だった。
その変化へ。
ソフィアはすぐに気づく。
「無理に今決めなくて大丈夫です」
「うん」
「カイはカイです」
その一言で。
胸の奥が少し軽くなる。
「姓がついても?」
「はい」
「身分が変わっても?」
「はい」
「俺は俺?」
「もちろんです」
ソフィアは柔らかく笑った。
「私が好きなのは、カイです」
カイは少しだけ視線を逸らした。
「……ありがとう」
エマはそんな二人の様子を見て。
静かに。
微笑んでいた。
◇◇◇
「それと」
エマが書類を一枚めくる。
「明後日、正式な婚約者としてお二人の肖像画用衣装合わせがございます」
「肖像画?」
「はい」
「二人で?」
「当然です」
「何の?」
「婚約発表用でございます」
カイが完全に止まる。
「発表?」
「はい」
「いつ?」
「一週間後を予定しております」
「一週間!?」
カイの声が部屋へ大きく響いた。
「聞いてない!」
「今お伝えしました」
「そういう意味じゃない!」
ソフィアが少し笑う。
「驚きました?」
「そりゃ!」
「帝国中に?」
「はい」
「俺が?」
「はい」
「第三皇女の婚約者だって?」
「はい」
「発表される?」
「はい」
カイは両手で頭を抱えた。
「待って」
「はい」
「俺」
胸の奥がざわつく。
平民。
孤児。
姓なし。
突然。
第三皇女の婚約者。
帝国中。
反応。
容易に想像できた。
「……大丈夫かな」
声が少しだけ弱くなる。
その瞬間。
ソフィアがすぐにカイの手を取った。
「大丈夫です」
「でも」
「私がいます」
「ソフィー」
「何を言われても」
空色の瞳が。
真っ直ぐ。
カイを見る。
「私は、カイを選んだと何度でも言います」
胸が鳴る。
「……強いな」
「はい」
「俺より」
「今は」
ソフィアは少し笑った。
「でも、そのうちカイも強くなります」
「剣なら強いぞ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
二人とも。
少しだけ。
笑う。
でも。
その笑みの裏に。
これから。
何か起きることは。
分かっていた。
「じゃあ」
カイはゆっくり深く息を吸った。
「逃げない」
「はい」
「発表も」
「はい」
「やる」
「はい」
「でも」
「何です?」
カイは少しだけ。
弱いところも。
隠さずに言った。
「隣にいて」
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「もちろんです」
即答だった。
「ずっと?」
「はい」
「絶対?」
「絶対です」
カイは少し笑った。
「それなら大丈夫かも」
◇◇◇
夕方。
婚姻準備についての説明がひと段落すると、エマは書類をまとめて部屋を出ていった。
二人だけになる。
その瞬間。
カイは深くソファーへ背を預けた。
「疲れた」
「説明だけで?」
「量が多すぎる」
「これからもっと増えます」
「聞きたくなかった」
「ふふっ」
「笑うな」
ソフィアが少しだけ身体を寄せ、カイの肩へ頭を預ける。
「でも」
「何?」
「楽しみです」
「何が」
「全部」
「全部?」
「礼装も、舞踏も、肖像画も、婚約発表も」
そこで。
少しだけ。
声が柔らかくなる。
「婚姻式も」
カイは少し黙った。
「夫婦になるのも」
小さな声。
なのに。
胸へ。
強く。
入ってきた。
「ソフィー」
「はい」
「本当に俺でいい?」
まだ。
聞いてしまう。
けれど。
ソフィアは。
怒らなかった。
「はい」
「何回でも聞くかも」
「何回でも答えます」
「面倒じゃない?」
「七年待ちました」
「またそれ」
「七年に比べれば」
ソフィアが少し笑う。
「何百回でも」
カイは少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
「はい」
「もう一回」
「どうぞ」
「俺でいい?」
ソフィアは身体を起こした。
真正面から。
カイを見る。
「カイがいいです」
迷いはない。
「カイ以外は嫌です」
カイの呼吸が一瞬止まる。
「……そこまで?」
「はい」
「重いな」
「嫌ですか?」
「逆」
カイは手を伸ばし。
ソフィアの頬へ。
軽く。
触れた。
「嬉しい」
ソフィアの目が柔らかくなる。
「カイ」
「何?」
「私も聞いていいですか?」
「何でも」
「私でいい?」
今度は。
自分が聞かれる。
でも。
答えは。
もう。
迷わない。
「ソフィーがいい」
「……」
「ソフィーじゃないと嫌」
ソフィアの目が潤み始める。
「泣く?」
「泣きます」
「宣言するんだ」
「無理です」
カイが笑う。
それから。
両腕を広げる。
「じゃあ、おいで」
ソフィアが止まった。
昨日。
初めて。
その言葉を聞いた。
今日。
また。
「……はい」
ゆっくり。
カイの胸へ入る。
その身体を。
カイは自然に抱きしめた。
もう。
迷わない。
「カイ」
「何」
「好きです」
「うん」
「大好きです」
「俺も」
「本当に?」
「ああ」
少しだけ腕へ力を込める。
「大好き」
ソフィアは胸元へ顔を埋めた。
泣いている。
でも。
笑っている。
「婚約者」
カイが小さく言う。
「はい」
「俺の」
ソフィアが少しだけ顔を上げる。
「はい」
「……やっぱりいいな」
「何がです?」
「この言葉」
「私もです」
二人は笑った。
◇◇◇
その夜。
騎士団宿舎へ戻ったカイは、寝台へ横になる前に右手首の腕輪を見た。
空雫石。
裏側へ刻まれた。
ソフィー。
婚約者。
昨日まで。
知らなかった。
今は。
全部が違って見える。
「……一週間後」
婚約発表。
帝国中が知る。
自分が。
第三皇女の婚約者だと。
怖い。
正直に言えば。
かなり怖い。
平民。
孤児。
姓もない。
何を言われるか。
想像するだけで。
胸が少し重い。
でも。
逃げない。
ソフィアがいる。
「夫婦」
小さく呟く。
少し照れる。
でも。
笑ってしまう。
自分が。
礼装を着て。
ソフィアの隣へ立つ。
婚姻式。
数日前まで。
想像するだけで。
胸が苦しかった。
今は。
違う。
自分が隣に立つ。
それを知っただけで。
景色が。
全部。
変わった。
「……楽しみかも」
小さく言ったあと。
自分で少し驚いた。
でも。
すぐに。
笑う。
「おやすみ、ソフィー」
いつもの。
小さな声。
今日は。
さらに。
続ける。
「俺の婚約者」
自分で言って。
顔が赤くなる。
「……寝よう」
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮では。
ソフィアも寝台の中で。
左手首の腕輪を見ていた。
夜空石。
その裏。
カイ。
指先で。
そっと。
名前をなぞる。
「婚約者」
小さく呟く。
もう。
秘密ではない。
カイが。
自分を。
選んだ。
父の命令だからではない。
婚姻が決まったからでもない。
身分でも。
責任でもない。
一人の女性として。
自分を。
選んだ。
それが。
何より。
嬉しかった。
「一週間後」
婚約発表。
帝国中が。
カイの名を知る。
きっと。
不安になる。
傷つくことも。
あるかもしれない。
だから。
自分が。
隣にいる。
「大丈夫です」
誰もいない部屋で。
それでも。
口にする。
「何を言われても」
左手を。
胸へ当てる。
「私が選んだ人です」
ソフィアは小さく笑った。
「おやすみなさい、カイ」
少しだけ間を置く。
それから。
「私の婚約者」
自分で言って。
顔が赤くなる。
思わず枕を抱きしめた。
でも。
幸せは。
止まらない。
婚姻式まで、あと二月。
婚約発表まで、あと一週間。
すれ違い続けた二人は、ようやく互いの気持ちも、互いの立場も知った。
ここから始まるのは。
もう。
誰かのための婚姻準備ではない。
カイとソフィア。
二人自身の。
本当の婚約準備だった。




