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『第三皇女様のお忍び婚約準備』  作者: 伊佐波瑞樹


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18/32

第18話 第三皇女様、婚約者になった途端に距離が近すぎませんか?


 白銀宮の私室には、先ほどまでの騒がしさが嘘のような静けさが戻っていた。


 窓の外では午後の陽射しが庭園を柔らかく照らし、淡い色の花々が春風に揺れている。卓上の白花茶からは細い湯気が立ち上り、つい先ほどエマが淹れ直していったのだろう、甘い花の香りが室内へ薄く広がっていた。


 穏やかな午後だった。


 少なくとも。


 部屋の空気だけなら。


 けれどカイは、先ほどからまったく落ち着かなかった。


「……」


 ソファーへ座りながら、何度目か分からないほど右手首を見る。


 空雫石の腕輪。


 銀色の金具の裏側には、ソフィーという名前が刻まれている。


 昨日までと何も変わっていない。


 腕輪の形も。


 石の色も。


 手首へ触れる感覚も。


 それなのに。


 意味だけが。


 完全に変わった。


 婚約者から贈られた腕輪。


 そう考えた瞬間、胸の奥がまた妙に落ち着かなくなる。


「カイ」


「何?」


「また腕輪を見ています」


 隣から楽しそうな声がする。


 振り向けば、ソフィアがこちらを見ていた。


「……そう?」


「先ほどから十回以上」


「数えてたの?」


「はい」


「暇だな」


「婚約者を見ていますので」


「言い方」


 カイが苦笑すると、ソフィアは当然のように少しだけ身体を寄せた。


 肩が触れる。


「……近くない?」


「婚約者ですから」


「それ、便利な言葉にする気?」


「はい」


「即答かよ」


 今までだって、何度もこのくらいの距離にはなった。


 手も繋いだ。


 肩を寄せた。


 抱きしめたことだってある。


 けれど。


 今日。


 意味が違う。


 その違いを意識した瞬間、カイの身体が少しだけ硬くなった。


 ソフィアはすぐに気づく。


「緊張しています?」


「少し」


「私に?」


「今さらって思うだろ」


「少しは」


「ほら」


「でも」


 ソフィアは少しだけ嬉しそうに笑った。


「婚約者になったから緊張しているのなら、私は嬉しいです」


「何で」


「女性として意識しているということでしょう?」


 カイは返事に詰まる。


 以前なら。


 ここで誤魔化した。


 でも今は。


「……まあ」


「まあ?」


「意識してる」


 素直に言った。


 すると。


 今度はソフィアの頬が赤くなる。


「カイ」


「何」


「今日は本当に素直ですね」


「昨日まで散々、分かりやすくしろって言われたから」


「良い傾向です」


「誰目線?」


「婚約者目線です」


「それも使うの?」


「はい」


 カイは笑った。


 けれど。


 自分でも分かる。


 口元は自然に緩んでいる。


「……婚約者、か」


 小さく呟く。


 ソフィアはすぐに反応した。


「はい」


「本当に俺なんだな」


「何回確認するのです?」


「まだ慣れない」


「では」


 ソフィアは身体を少しカイの方へ向けた。


「慣れるまで何度でも言います」


「何を?」


「カイは私の婚約者です」


 真っ直ぐ言われる。


 胸がまた鳴った。


「……恥ずかしいな」


「私は嬉しいです」


「俺も」


 ソフィアの目が少し大きくなる。


 カイは照れたように笑いながら言い直した。


「俺も嬉しい」


 ソフィアの表情が柔らかくなる。


「はい」


          ◇◇◇


「それで」


 少しして、カイは姿勢を正した。


「聞きたいことがある」


「何です?」


「婚約者って」


「はい」


「何するの?」


 ソフィアが止まった。


「……」


「何その顔」


「いえ」


「笑うな」


「笑っていません」


「絶対笑ってる」


「だって」


 ソフィアは口元を押さえた。


「カイがあまりにも真剣なので」


「真剣だよ」


「何をすればいいのか、本当に分からない?」


「分からない」


 即答だった。


「騎士としてなら分かる。護衛する。守る。命令を聞く」


「最後は少し違います」


「え?」


「婚約者になったのですから、そこは変えていただきます」


「勝手に?」


「はい」


「強いな」


「カイにも、ちゃんと自分の意見を言ってもらいます」


「それは前から言ってたな」


「それから」


「何?」


「私が我が儘を言った時は、嫌なら嫌と言ってください」


「……成長したな」


「誰のせいだと思っているのです?」


「俺?」


「はい」


「また俺?」


 ソフィアが笑う。


 カイもつられて笑った。


 でも。


 すぐに少し真面目な顔になる。


「本当に、分からないんだよ」


「婚約者として何をすればいいか?」


「ああ」


 カイは視線を落とした。


「今まで、ソフィーの傍にいる理由って全部、騎士だからで説明できた」


「はい」


「守るのも、近くにいるのも、手を取るのも、危ない時に抱き寄せるのも」


 今までなら。


 全部。


 仕事。


 そう言えた。


「でも今は」


 カイは胸元へ手を当てる。


「婚約者でもある」


「はい」


「じゃあ、どこまでしていいのか分からない」


 ソフィアの目が少し柔らかくなった。


「カイ」


「何?」


「まず、私の隣にいてください」


「今いる」


「では次」


「何」


「手を繋いでください」


 カイは少しだけ目を瞬いた。


「今でも?」


「はい」


「必要?」


「婚約者ですから」


「またそれ」


「嫌ですか?」


「嫌じゃない」


「では」


 ソフィアが左手を差し出す。


 カイは少し笑いながら、その手を取った。


 もう。


 指を絡めることにも。


 以前ほどの戸惑いはない。


「次は?」


「私が嬉しそうなら、一緒に喜んでください」


「うん」


「寂しそうなら?」


「傍にいる」


「はい」


「泣いてたら」


「抱きしめる」


 ソフィアが止まる。


「……即答」


「最近多いからな」


「カイが泣かせるからです」


「嬉しい涙だろ?」


「はい」


「ならいい」


「良くありません」


「どっちだよ」


 二人で笑う。


 ソフィアは繋いだ手を見ながら、さらに続けた。


「それから」


「何?」


「私が誰かに傷つけられたら」


「守る」


 その一言だけ。


 声が変わった。


 迷いはなかった。


「それは騎士として?」


「両方」


 ソフィアの呼吸が少し止まる。


「婚約者としても?」


「ああ」


 カイは繋いだ手へ少し力を込めた。


「絶対守る」


 ソフィアの目が潤み始める。


「また泣く?」


「まだ耐えます」


「偉い」


「子供扱いしないでください」


「泣くのソフィーだろ」


「カイが悪いです」


「はいはい」


 口ではそう言いながら。


 カイも。


 少し嬉しかった。


          ◇◇◇


 しばらく二人は、紅茶を飲みながら婚姻準備について話した。


 これまでも婚姻準備そのものには関わってきた。


 けれど今まで。


 カイは。


 自分とは無関係な誰かの婚姻準備だと思っていた。


 それが。


 全部。


 自分のことだった。


「礼法教育、増えるって言われた」


 カイが少し嫌そうに言う。


「必要です」


「知ってる」


「舞踏会での正式な立ち位置も覚えていただきます」


「舞踏会?」


「はい」


「踊る?」


「もちろんです」


「俺、正式な舞踏なんてほとんど経験ないぞ」


「私が教えます」


「ソフィーが?」


「何です、その顔」


「踏みそう」


「誰が?」


「俺が」


「なら踏まれても我慢します」


「皇女の足踏んだら死刑じゃない?」


「婚約者なので許します」


「万能だな」


「はい」


 ソフィアは楽しそうだった。


「それから礼装」


「あれか」


「はい」


「花婿みたいだったやつ」


「花婿です」


 カイが完全に止まった。


「……」


「……」


「今」


「はい」


「普通に言ったよね」


「もう秘密ではありませんから」


「そっか」


 カイの頬が少し赤くなる。


「あれ、本当に俺の婚姻礼装なんだ」


「はい」


「ソフィーの隣に」


「はい」


「花婿として」


「はい」


 全部。


 迷いのない返事。


 カイは思わず額を押さえた。


「すごいな」


「何がです?」


「急に現実が来た」


 さっきまでは。


 好き。


 嬉しい。


 婚約者。


 その言葉だけで精一杯だった。


 でも。


 ここまで具体的になると。


 違う。


「二月後」


「はい」


「本当に結婚するんだ」


「はい」


「俺たち」


「はい」


「夫婦?」


 今度は。


 ソフィアの頬が一気に真っ赤になる。


「……はい」


「ソフィー」


「何です?」


「顔すごいぞ」


「カイもです」


「俺も?」


「はい」


 互いに顔を見て。


 少しだけ笑う。


「夫婦か」


 カイはもう一度言った。


「はい」


「……やばいな」


「嫌ですか?」


「違う」


 すぐに首を横へ振る。


「嬉しいけど、まだ実感がついてこない」


「私もです」


「ソフィーも?」


「もちろん」


「七年待ってたのに?」


「待っていても」


 ソフィアは少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。


「本当に叶うとなると、別です」


 カイが笑う。


「同じだな」


「はい」


 そんな答えを聞けたことが。


 少しだけ。


 嬉しかった。


          ◇◇◇


「そういえば」


 カイがふと思い出す。


「婚姻式まで手を出すなって」


 その瞬間。


 ソフィアの顔が一気に赤くなった。


「その話を今します!?」


「いや」


「お父様!」


「今ここにいないから」


「そういう問題ではありません!」


 カイは少し笑った。


「でも、一応確認」


「何を?」


 ここから先。


 少しだけ声を落とす。


「俺たち、どこまでがいい?」


 ソフィアが完全に止まった。


「……」


「ソフィー?」


「少し待ってください」


「また?」


「重要です!」


「だから聞いてるんだけど」


「心の準備が」


「別に今何かするって話じゃない」


「それでもです!」


 ソフィアは両手で頬を押さえた。


 カイも少し困る。


「嫌なら」


「嫌ではありません!」


「早い」


「違います!」


「何が」


「カイと触れ合うことが嫌ではないという意味です!」


「分かってる」


「笑わないでください!」


「笑ってない」


「笑っています!」


 しばらく。


 二人で小さく言い合う。


 けれど。


 こういうところを。


 きちんと話すことも。


 婚約者になったからこそ必要なのかもしれない。


 カイは少し真面目な顔へ戻った。


「じゃあ、手を繋ぐ」


「はい」


「抱きしめる」


「はい」


「そこまでは?」


 ソフィアも少しだけ落ち着く。


「……大丈夫です」


「それ以上は?」


 少し間があった。


「婚姻式まで、待ちます」


 小さな声。


 カイはすぐに頷いた。


「分かった」


 ソフィアが少し不安そうに見る。


「本当に?」


「ああ」


「我慢できます?」


「何だその聞き方」


「だって……男性は大変だと」


「誰から聞いた」


「エマです」


「エマさん!」


 扉の外から返事はない。


 でも。


 多分。


 聞いている。


 カイは一度息を吐いたあと、改めてソフィアを見る。


「大丈夫だよ」


「……はい」


「ソフィーが嫌がることは絶対しない」


 それだけは。


 迷いなく言えた。


 ソフィアの目が柔らかくなる。


「カイ」


「何?」


「好きです」


「急だな」


「言いたくなりました」


「そっか」


 カイは少し笑った。


「俺も好き」


 ソフィアはまた頬を赤くした。


「何で俺が言うと毎回照れるの」


「七年分です」


「便利な言葉」


「はい」


          ◇◇◇


 その日の午後。


 エマが再び部屋へ入ってきた。


 手には。


 かなり厚い。


 書類の束。


 それを見た瞬間。


 カイの中に。


 嫌な予感が生まれた。


「……何です、それ」


「婚姻準備予定表でございます」


「こんなに?」


「一部です」


「一部!?」


 隣でソフィアが少しだけ視線を逸らす。


「カイ」


「知ってた?」


「はい」


「何で言わなかった」


「婚約者を明かしてからでないと説明できませんでしたので」


「そりゃそうだけど」


 エマが卓上へ書類を置く。


 どさり。


 という。


 明らかに軽くない音。


「主な予定だけご説明いたします」


「主なだけでその厚さ?」


「詳細は別紙です」


「増えた!」


 ソフィアが小さく笑う。


「まず、婚姻礼装の最終採寸」


「はい」


「礼法教育」


「はい」


「舞踏訓練」


「はい」


「帝国史および皇族儀礼の再教育」


「再?」


「騎士教育でも学んでおりますが、婚姻相手として必要な範囲が異なります」


「なるほど」


「貴族家代表との顔合わせ」


「……嫌な予感がする」


「かなりございます」


「やっぱり」


「それから」


 エマが少しだけ間を置く。


「姓および身分に関する正式手続き」


 カイの表情が少し変わった。


「姓」


「はい」


「本当に必要なんですね」


「必要になります」


 ソフィアが隣から静かに声をかける。


「カイ」


「何?」


「嫌ですか?」


 カイは少しだけ考えた。


 今まで。


 ずっと。


 ただのカイ。


 それで生きてきた。


 姓がないことを恥じなかったわけではない。


 むしろ。


 何度も。


 それを理由に馬鹿にされてきた。


 でも。


 それでも。


 姓がないということまで含めて。


 自分だった。


「……分からない」


 正直に言う。


「急に自分の名前が変わる感じがする」


「完全に消えるわけではありません」


 エマが穏やかに答える。


「どの形式にするかは陛下と協議したうえで決定されます」


「そっか」


 少し。


 複雑だった。


 その変化へ。


 ソフィアはすぐに気づく。


「無理に今決めなくて大丈夫です」


「うん」


「カイはカイです」


 その一言で。


 胸の奥が少し軽くなる。


「姓がついても?」


「はい」


「身分が変わっても?」


「はい」


「俺は俺?」


「もちろんです」


 ソフィアは柔らかく笑った。


「私が好きなのは、カイです」


 カイは少しだけ視線を逸らした。


「……ありがとう」


 エマはそんな二人の様子を見て。


 静かに。


 微笑んでいた。


          ◇◇◇


「それと」


 エマが書類を一枚めくる。


「明後日、正式な婚約者としてお二人の肖像画用衣装合わせがございます」


「肖像画?」


「はい」


「二人で?」


「当然です」


「何の?」


「婚約発表用でございます」


 カイが完全に止まる。


「発表?」


「はい」


「いつ?」


「一週間後を予定しております」


「一週間!?」


 カイの声が部屋へ大きく響いた。


「聞いてない!」


「今お伝えしました」


「そういう意味じゃない!」


 ソフィアが少し笑う。


「驚きました?」


「そりゃ!」


「帝国中に?」


「はい」


「俺が?」


「はい」


「第三皇女の婚約者だって?」


「はい」


「発表される?」


「はい」


 カイは両手で頭を抱えた。


「待って」


「はい」


「俺」


 胸の奥がざわつく。


 平民。


 孤児。


 姓なし。


 突然。


 第三皇女の婚約者。


 帝国中。


 反応。


 容易に想像できた。


「……大丈夫かな」


 声が少しだけ弱くなる。


 その瞬間。


 ソフィアがすぐにカイの手を取った。


「大丈夫です」


「でも」


「私がいます」


「ソフィー」


「何を言われても」


 空色の瞳が。


 真っ直ぐ。


 カイを見る。


「私は、カイを選んだと何度でも言います」


 胸が鳴る。


「……強いな」


「はい」


「俺より」


「今は」


 ソフィアは少し笑った。


「でも、そのうちカイも強くなります」


「剣なら強いぞ」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


 二人とも。


 少しだけ。


 笑う。


 でも。


 その笑みの裏に。


 これから。


 何か起きることは。


 分かっていた。


「じゃあ」


 カイはゆっくり深く息を吸った。


「逃げない」


「はい」


「発表も」


「はい」


「やる」


「はい」


「でも」


「何です?」


 カイは少しだけ。


 弱いところも。


 隠さずに言った。


「隣にいて」


 ソフィアの表情が柔らかくなる。


「もちろんです」


 即答だった。


「ずっと?」


「はい」


「絶対?」


「絶対です」


 カイは少し笑った。


「それなら大丈夫かも」


          ◇◇◇


 夕方。


 婚姻準備についての説明がひと段落すると、エマは書類をまとめて部屋を出ていった。


 二人だけになる。


 その瞬間。


 カイは深くソファーへ背を預けた。


「疲れた」


「説明だけで?」


「量が多すぎる」


「これからもっと増えます」


「聞きたくなかった」


「ふふっ」


「笑うな」


 ソフィアが少しだけ身体を寄せ、カイの肩へ頭を預ける。


「でも」


「何?」


「楽しみです」


「何が」


「全部」


「全部?」


「礼装も、舞踏も、肖像画も、婚約発表も」


 そこで。


 少しだけ。


 声が柔らかくなる。


「婚姻式も」


 カイは少し黙った。


「夫婦になるのも」


 小さな声。


 なのに。


 胸へ。


 強く。


 入ってきた。


「ソフィー」


「はい」


「本当に俺でいい?」


 まだ。


 聞いてしまう。


 けれど。


 ソフィアは。


 怒らなかった。


「はい」


「何回でも聞くかも」


「何回でも答えます」


「面倒じゃない?」


「七年待ちました」


「またそれ」


「七年に比べれば」


 ソフィアが少し笑う。


「何百回でも」


 カイは少しだけ目を細めた。


「じゃあ」


「はい」


「もう一回」


「どうぞ」


「俺でいい?」


 ソフィアは身体を起こした。


 真正面から。


 カイを見る。


「カイがいいです」


 迷いはない。


「カイ以外は嫌です」


 カイの呼吸が一瞬止まる。


「……そこまで?」


「はい」


「重いな」


「嫌ですか?」


「逆」


 カイは手を伸ばし。


 ソフィアの頬へ。


 軽く。


 触れた。


「嬉しい」


 ソフィアの目が柔らかくなる。


「カイ」


「何?」


「私も聞いていいですか?」


「何でも」


「私でいい?」


 今度は。


 自分が聞かれる。


 でも。


 答えは。


 もう。


 迷わない。


「ソフィーがいい」


「……」


「ソフィーじゃないと嫌」


 ソフィアの目が潤み始める。


「泣く?」


「泣きます」


「宣言するんだ」


「無理です」


 カイが笑う。


 それから。


 両腕を広げる。


「じゃあ、おいで」


 ソフィアが止まった。


 昨日。


 初めて。


 その言葉を聞いた。


 今日。


 また。


「……はい」


 ゆっくり。


 カイの胸へ入る。


 その身体を。


 カイは自然に抱きしめた。


 もう。


 迷わない。


「カイ」


「何」


「好きです」


「うん」


「大好きです」


「俺も」


「本当に?」


「ああ」


 少しだけ腕へ力を込める。


「大好き」


 ソフィアは胸元へ顔を埋めた。


 泣いている。


 でも。


 笑っている。


「婚約者」


 カイが小さく言う。


「はい」


「俺の」


 ソフィアが少しだけ顔を上げる。


「はい」


「……やっぱりいいな」


「何がです?」


「この言葉」


「私もです」


 二人は笑った。


          ◇◇◇


 その夜。


 騎士団宿舎へ戻ったカイは、寝台へ横になる前に右手首の腕輪を見た。


 空雫石。


 裏側へ刻まれた。


 ソフィー。


 婚約者。


 昨日まで。


 知らなかった。


 今は。


 全部が違って見える。


「……一週間後」


 婚約発表。


 帝国中が知る。


 自分が。


 第三皇女の婚約者だと。


 怖い。


 正直に言えば。


 かなり怖い。


 平民。


 孤児。


 姓もない。


 何を言われるか。


 想像するだけで。


 胸が少し重い。


 でも。


 逃げない。


 ソフィアがいる。


「夫婦」


 小さく呟く。


 少し照れる。


 でも。


 笑ってしまう。


 自分が。


 礼装を着て。


 ソフィアの隣へ立つ。


 婚姻式。


 数日前まで。


 想像するだけで。


 胸が苦しかった。


 今は。


 違う。


 自分が隣に立つ。


 それを知っただけで。


 景色が。


 全部。


 変わった。


「……楽しみかも」


 小さく言ったあと。


 自分で少し驚いた。


 でも。


 すぐに。


 笑う。


「おやすみ、ソフィー」


 いつもの。


 小さな声。


 今日は。


 さらに。


 続ける。


「俺の婚約者」


 自分で言って。


 顔が赤くなる。


「……寝よう」


          ◇◇◇


 同じ頃。


 白銀宮では。


 ソフィアも寝台の中で。


 左手首の腕輪を見ていた。


 夜空石。


 その裏。


 カイ。


 指先で。


 そっと。


 名前をなぞる。


「婚約者」


 小さく呟く。


 もう。


 秘密ではない。


 カイが。


 自分を。


 選んだ。


 父の命令だからではない。


 婚姻が決まったからでもない。


 身分でも。


 責任でもない。


 一人の女性として。


 自分を。


 選んだ。


 それが。


 何より。


 嬉しかった。


「一週間後」


 婚約発表。


 帝国中が。


 カイの名を知る。


 きっと。


 不安になる。


 傷つくことも。


 あるかもしれない。


 だから。


 自分が。


 隣にいる。


「大丈夫です」


 誰もいない部屋で。


 それでも。


 口にする。


「何を言われても」


 左手を。


 胸へ当てる。


「私が選んだ人です」


 ソフィアは小さく笑った。


「おやすみなさい、カイ」


 少しだけ間を置く。


 それから。


「私の婚約者」


 自分で言って。


 顔が赤くなる。


 思わず枕を抱きしめた。


 でも。


 幸せは。


 止まらない。


 婚姻式まで、あと二月。


 婚約発表まで、あと一週間。


 すれ違い続けた二人は、ようやく互いの気持ちも、互いの立場も知った。


 ここから始まるのは。


 もう。


 誰かのための婚姻準備ではない。


 カイとソフィア。


 二人自身の。


 本当の婚約準備だった。

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