第17話 第三皇女様、俺が婚約者なら最初からそう言ってください!
「……カイ?」
自分の名前だった。
第三皇女ソフィア・フォン・ガルア。その正式な婚姻相手として、皇帝の印が押された書類に記されていたのは、近衛騎士カイ――姓も爵位もなく、十歳の頃までは皇城とは何の縁もなかった、ただの平民出身の孤児である自分の名だった。
カイは書類を持ったまま、しばらくまったく動けなかった。
執務室にいる誰もが、そんな彼を見ている。皇帝は疲れ切ったような顔で椅子へ深く腰掛け、マリアは先ほどから明らかに笑いを堪えていた。側近たちはさすがに皇帝の御前ということもあって表情を崩してはいないものの、口元へかなり力が入っている。
そしてソフィアだけは、両手で顔を覆っていた。
耳まで真っ赤だった。
カイはもう一度、書類へ視線を落とす。
当然だが、文字は変わらない。
一行目から読み直してみても同じだった。念のため少し紙を傾けてみたが、そんなことで婚姻相手の名前が別人へ変わるわけもない。
「陛下」
「何だ」
皇帝が静かに答える。
「これ……俺の名前ですよね?」
「ああ」
「同姓同名の誰かとか」
「お前に姓はないだろう」
「……そうでした」
自分で言ってから、カイは少し遠い目をした。
いや。
待て。
落ち着け。
まず状況を整理しなければならない。
ソフィアには婚約者がいる。それは最初から聞かされていた事実だ。
ただし、その婚姻相手が誰なのかは、自分へ知らされていなかった。だからカイは、当然ながら自分の知らない貴族か王族の誰かだと思い込んでいた。
その見知らぬ婚約者へ嫉妬した。
会ってもいない相手を嫌いになりかけた。
ソフィアと結婚するという理由だけで、顔も知らない相手を面白くないと思った。
婚姻式を心から祝えないとまで言った。
婚約者ではなく、自分を選んでほしいとも言った。
そして今。
その婚約者が。
自分だった。
「……」
カイはゆっくり顔を上げた。
まず皇帝を見る。
次にマリアを見る。
そして最後に、ソフィアを見る。
「……姫様」
「は、はい」
ソフィアはまだ顔を半分ほど両手で隠していた。
「俺が婚約者?」
「……はい」
「最初から?」
「最初から、という表現がどこからを指すのかにもよりますが……」
「婚姻が決まったって俺に言った時から」
「……はい」
「知ってた?」
「……はい」
カイの眉間へ深い皺が寄った。
「団長」
「何だ」
「知ってました?」
「知っていた」
「最初から?」
「ああ」
「陛下は?」
「当然知っている」
「エマさんは?」
「知っている」
「リナは?」
「知っている」
「騎士団の皆は?」
「主要な者はな」
「仕立て職人は?」
「当然、事情は伝えてある」
「腕輪の店員さんは?」
「それは知らん」
「そこだけ!?」
とうとうカイの声が執務室へ響いた。
「いや待ってください! 何で俺だけ知らなかったんですか!?」
皇帝が眉間を揉む。
マリアはとうとう横を向いた。肩が小刻みに震えている。
「団長!」
「すまん」
「笑ってますよね!?」
「笑っていない」
「絶対笑ってる!」
「いや……」
マリアは一度だけ深く息を吸った。
けれど、次の瞬間。
「……ふっ」
「団長!」
「すまない、無理だ!」
完全に笑った。
「お前が散々、自分自身に嫉妬していたと思うとな!」
「言わないでください!」
カイの顔が一気に赤くなる。
皇帝の側近の一人が、ちょうどその時大きく咳払いした。どう考えても、笑いを隠すためだった。
「そもそも!」
カイは書類を握ったまま、勢いよくソフィアへ向き直る。
「ソフィー!」
「は、はい!」
「知ってたなら最初から言えよ!」
「言えるわけないでしょう!」
「何で!」
「だって!」
ソフィアもとうとう立ち上がった。
「婚姻相手が自分だと分かった状態でカイが私へ優しくしても、それがカイ自身の気持ちなのか、婚約者だからそうしているだけなのか、分からなくなるではありませんか!」
カイの動きが止まった。
ソフィアはそのまま、今まで溜め込んできたものを吐き出すように続ける。
「私はずっと待っていたのです!」
「何を」
「カイが、私を皇女でも主君でもなく、一人の女性として見てくれるのをです!」
執務室の空気が、少しだけ変わった。
さっきまでの恥ずかしさやコメディめいた空気とは違う。
ソフィアの声には、七年間ずっと胸の奥へ抱えてきた想いが滲んでいた。
「婚姻が決まったから好きになってほしいわけではありません。父に命令されたから傍にいてほしいわけでもありませんし、私が第三皇女だから大切にしてほしいわけでもないのです」
そこで一度言葉を止める。
そしてソフィアは、まっすぐカイを見た。
「私は、カイ自身に私を選んでほしかったのです」
カイは何も言えなかった。
ついさっき。
自分も同じことを言った。
『俺を選んでほしい』
あの言葉を。
ソフィアも。
ずっと。
自分から聞きたかったのだ。
「だから」
ソフィアの声が少し柔らかくなる。
「秘密にしました」
「……七年?」
「はい」
「十歳の時から?」
「はい」
カイは少しだけ目を伏せた。
「本当に、あの日から?」
今度は。
ソフィアも逃げなかった。
「はい」
小さい。
けれど。
はっきりとした声。
「好きでした」
カイの胸が強く鳴る。
すでに告白もして。
互いに好きだと伝え合った。
それなのに。
何度聞いても。
まだ慣れない。
「最初は」
ソフィアは少しだけ照れながら続ける。
「好きというものが何なのか、私自身にもよく分かっていなかったと思います」
「……十歳だもんな」
「はい」
「俺も十歳」
「はい」
「俺なんて、その頃は食べる物と寝る場所くらいしか考えてなかった気がする」
「知っています」
「知ってるんだ」
「カイですから」
「その言い方、万能だな」
ほんの少し。
空気が柔らかくなる。
ソフィアも小さく笑った。
「でも、王宮へ連れてこられてからも、カイが訓練を始めてからも、私付きの騎士になってからも」
ソフィアの左手が、夜空石の腕輪へそっと触れる。
「ずっと、私の中ではカイだけでした」
カイは。
何も言えなかった。
七年。
自分はずっと、ソフィアの我が儘に振り回されていると思っていた。
半ば強引に王宮へ連れてこられ、気づけば騎士になるための厳しい訓練へ放り込まれ、その後はソフィア付きの近衛騎士になった。
女の子と少し仲良くなれば、なぜか翌日から避けられた。
面倒な主君だと思ったことだって、一度や二度ではない。
でも。
その裏で。
ソフィアは。
ずっと。
自分だけを見ていた。
「……ちょっと待って」
カイの中で。
一つ。
記憶が繋がった。
「どうしました?」
「俺が昔、女の子と仲良くなった次の日」
ソフィアの表情が固まった。
その反応だけで。
カイも気づく。
「……避けられてたよな」
「……」
「何回か」
「……」
「ソフィー?」
「……何のことでしょう」
「今の間」
「何でもありません」
「その言葉禁止!」
カイが思わず叫ぶ。
マリアがまた横を向いた。
「団長!」
「私は何も言っていない」
「顔が言ってる!」
「カイ!」
ソフィアが慌てて声を上げる。
「あの件には、多少の誤解があります!」
「多少?」
「はい」
「じゃあ何したの?」
「……」
「ソフィー」
「直接何かしたわけではありません」
「直接?」
「……はい」
「間接的には?」
ソフィアが視線を逸らした。
カイは額を押さえる。
「やっぱり!」
「違うのです!」
「何が!」
「少し話をしただけです!」
「どんな話!」
「カイは私付きの騎士なので、あまり余計な噂が立つような距離感で接するのはよろしくないのでは、と」
カイは数秒固まった。
「……それ脅したよね?」
「脅していません!」
「皇女に言われたら脅しなんだよ!」
「優しく言いました!」
「余計怖いわ!」
とうとう皇帝まで片手で顔を覆った。
「ソフィア」
「何です、お父様」
「そこは父も初耳だ」
「……」
「お前」
「昔の話です!」
「開き直るな」
「でも!」
ソフィアはカイを見る。
「嫌だったのです!」
「何が」
「カイが他の女の子と楽しそうに話しているのが!」
カイは黙った。
昨日。
自分も。
レイフォードと楽しそうに話すソフィアを見て。
まったく同じ感情を抱いた。
「……分かる」
「ほら!」
「でも俺は脅してない」
「私は脅していません!」
「皇女の立場!」
「もう!」
二人は少し睨み合った。
そのまま数秒。
そして。
どちらからともなく。
「……ぷっ」
同時に吹き出した。
「何やってんだよ、俺たち」
「本当に」
「七年も」
「はい」
「ソフィーは知ってて」
「はい」
「俺だけ知らなくて」
「はい」
「俺、自分に嫉妬して」
「……はい」
「笑うな」
「まだ笑っていません」
「顔」
「カイも少し笑っています」
「もう笑うしかないだろ」
二人の笑い声が、先ほどまで緊張に包まれていた執務室へ静かに広がった。
◇◇◇
「それで」
ひとしきり笑ったあと、カイは改めて皇帝へ向き直った。
「陛下」
「何だ」
「これは本当に正式な婚姻なんですよね?」
「そうだ」
「冗談とか」
「皇帝印まで押して冗談をするほど暇ではない」
「ですよね」
カイはもう一度書類へ目を落とした。
けれど。
やはり一つ。
引っかかる。
「俺、平民ですよ?」
「ああ」
「孤児です」
「ああ」
「姓もありません」
「ああ」
「陛下」
「何だ」
「何で俺なんです?」
今度は。
笑いではない。
本当の疑問だった。
ソフィアが自分を好きだということは分かった。
自分もソフィアが好きだ。
でも。
帝国皇女の婚姻は。
恋愛感情だけで決められる話ではない。
国。
貴族。
外交。
政治。
血筋。
帝国全体へ影響する。
皇帝がそれを理解していないはずがない。
皇帝は少しだけ表情を改めた。
「まずは、娘が望んだからだ」
「……それだけで許可するんですか?」
「それだけではない」
「ですよね」
「当たり前だ」
皇帝は椅子の背へ身体を預けた。
「お前が十歳の時、ソフィアを救った」
「はい」
「あの一件で、お前が自分の命を顧みず娘を守ったことは知っている」
「……あの時は必死だっただけです」
「それでもだ」
皇帝の声には。
一国の皇帝ではなく。
娘を持つ父親としての重さがあった。
「その後、お前は王宮へ入り、騎士になるための訓練を受けた。平民だというだけで馬鹿にされても逃げず、孤児だと侮られても耐え、娘付きの騎士だからと因縁をつけられても、その立場を利用して仕返しすることもしなかった」
カイの表情が少し変わる。
「むしろ」
皇帝は苦い顔をした。
「利用するどころか、自分から距離を取りすぎていた」
「それは……」
「知っている。お前が、ソフィアを皇女としてしか見ないようにしていたこともな」
カイは何も言えなかった。
「だからこそ信用した」
「俺を?」
「ああ」
「でも、婚姻相手としては」
「不足か?」
「……正直」
カイは少し迷った。
「自分では、そう思います」
皇帝は。
ほんの少しだけ。
笑った。
「なら、これから埋めろ」
「え?」
「平民なら必要な教育を受けろ。姓がないなら、必要な形を整える。爵位が必要なら、これまでの功績と今後の役割を見たうえで相応の形を用意する」
カイの目が大きくなる。
「そんな簡単に」
「簡単ではない」
皇帝は即座に否定した。
「だから婚姻式まで二月ある」
「……」
「いや」
横からマリアが口を挟む。
「二月しかない、が正しいと思いますが」
「言うな」
「失礼しました」
皇帝が少し不機嫌そうになる。
「お前にはこれから相当忙しくなってもらう」
「どれくらいです?」
「今まで以上だ」
「……死罪の辞令が可愛く見えてきた」
「死罪にはせん」
「本当ですか?」
「ソフィアが泣く」
「そこ!?」
「重要だ」
「お父様」
「何だ」
「カイをあまり追い詰めないでください」
「お前は黙っていろ」
「でも」
「そもそも、お前がこの男がいいと七年も言い続けた結果だ!」
「言い続けてはいません!」
「同じようなものだ!」
「違います!」
皇帝とソフィアが言い合い始める。
カイはそんな二人を、しばらく呆然と眺めていた。
そして。
ふと。
笑った。
「……そっか」
誰にも聞こえないほどの小さな声。
右手首の空雫石へ目を落とす。
「俺、本当に婚約者なんだ」
その言葉が。
ようやく少しずつ。
現実味を帯び始めていた。
◇◇◇
「陛下」
カイがもう一度呼ぶと、皇帝とソフィアの言い合いが止まった。
「何だ」
「一つだけ」
「言え」
カイは少しだけ言葉を選んだ。
「俺、本当にソフィア殿下と婚姻していいんですか?」
ソフィアの瞳が少し揺れる。
「さっき書類を見せただろう」
「そうですけど」
「何が気になる」
「陛下ご自身は」
カイはまっすぐ皇帝を見る。
「俺でいいんですか?」
皇帝が今度は黙った。
娘が望んだ。
制度上許可した。
それだけではない。
カイが聞きたいのは。
一人の父親として。
本当はどう思っているのかだった。
皇帝はしばらくカイを見つめたあと、深く息を吐いた。
「嫌だ」
「お父様!?」
「父親としては嫌に決まっている!」
即答だった。
「可愛い娘をどこの馬の骨とも知れん男へ渡したい父親がどこにいる!」
「俺、馬の骨ですか」
「元孤児だろう!」
「事実だけど言い方!」
「だが」
皇帝の声が。
少しだけ落ち着く。
「ソフィアを任せるなら、お前以上に信用できる男を私は知らん」
カイが止まった。
ソフィアも、驚いたように父を見る。
皇帝は少しだけ視線を逸らした。
「だから許した」
「陛下」
「勘違いするな」
「はい?」
「好きではない」
「そこは別に」
「娘を取る男など好きになるものか」
「お父様!」
「だが信用はしている」
皇帝はもう一度、カイをまっすぐ見た。
「ソフィアを泣かせるな」
「……はい」
「危険な目に遭わせるな」
「はい」
「一人で抱え込ませるな」
「はい」
「それと」
皇帝の目が。
少しだけ。
怖くなった。
「婚姻式までは手を出すな」
執務室が止まった。
「……」
「……」
「……はい?」
カイが数秒遅れて反応した。
ソフィアの顔は一瞬で真っ赤になった。
「お父様!」
「重要だ!」
「今ここで言う必要がありますか!?」
「カイ」
「はい!」
「手を繋ぐ」
「はい」
「抱きしめる」
「……はい」
「そこまでは」
皇帝が。
本当に。
心底不本意そうに。
「許す」
「許すんだ」
「黙れ」
「はい」
「それ以上は駄目だ」
「分かってます!」
「本当だな?」
「何で俺こんな尋問受けてるんですか!?」
「婚約者だからだ!」
「さっきまで知らなかったんですけど!」
「今知った!」
「そういう問題!?」
とうとうマリアが壁へ片手をついて笑い始めた。
「団長!」
「すまん、無理だ」
「助けてくださいよ!」
「これは無理だ!」
「団長!」
皇帝の執務室へ。
久しぶりに。
騒がしい声が響いた。
◇◇◇
長かった説明がようやく終わる頃には、昼をかなり過ぎていた。
正式な婚姻関係。
婚姻までに必要な準備。
カイへ追加される礼法教育。
帝国貴族としての法的な身分整理。
今後の公表時期。
詳細については後日、改めて説明を受けることになった。
婚約自体はすでに皇帝の承認済み。
ただし。
現段階では。
公には婚約相手の名を伏せている。
だからこそ。
カイ自身も知らなかった。
いや。
正確には。
意図的に知らされていなかった。
「……意図的に」
執務室を出たあと、カイは回廊を歩きながら低い声で呟いた。
「完全に意図的に」
「カイ」
「何?」
「まだ怒っています?」
隣を歩くソフィアが、少し不安そうにこちらを見る。
今は白銀宮へ戻る途中だった。人通りは少ないが、少し後ろにはエマや護衛もいる。
「怒ってるというか」
カイは頭を掻いた。
「恥ずかしい」
「……」
「俺、自分に嫉妬してたんだぞ」
ソフィアが少し俯いた。
「笑うなよ」
「笑っていません」
「肩震えてる」
「申し訳ありません」
「やっぱり笑ってる!」
ソフィアがとうとう小さく吹き出した。
「だ、だって」
「何」
「カイ」
笑いながら。
少し涙まで浮かべながら。
「婚約者が嫌いだって」
「言った」
「婚約者にソフィーを渡したくないって」
「言った」
「婚約者じゃなく俺を選んでって」
「言った!」
「全部」
「言うな!」
「自分へ」
「分かったから!」
カイの顔が赤くなる。
ソフィアはもう笑いを止められない。
「もう!」
そんな彼女を見て。
カイも。
少しだけ笑った。
「本当に最初から言えよ」
「ごめんなさい」
「俺、めちゃくちゃ悩んだんだけど」
「知っています」
「知ってて見てたの!?」
「はい」
「酷い!」
「でも」
ソフィアの笑いが。
少しだけ。
柔らかくなる。
「その悩んでいる時間も、私は嬉しかったです」
「何で」
「カイが、私を誰かへ渡したくないと思ってくれているのが分かったからです」
カイの言葉が止まる。
「婚約者が自分だと知らない状態で、私だけを見て、私を選んでほしいと言ってくれた」
空色の瞳が。
柔らかく。
カイを見つめる。
「私は、それが欲しかったのです」
カイは何も言えなかった。
でも。
今なら分かる。
もし婚約者だと最初から知っていたら。
自分の中に生まれた気持ちが。
恋なのか。
責任感なのか。
命令への忠実さなのか。
きっと自分自身でも分からなかった。
ソフィアも。
そこが。
怖かったのだろう。
「……そっか」
「はい」
「じゃあ」
カイは少し笑う。
「許す」
ソフィアの顔が一気に明るくなった。
「本当ですか?」
「ああ」
「全部?」
「女の子の件はまだ」
「カイ!」
「そこは別件」
「もう!」
二人は。
また。
笑った。
◇◇◇
白銀宮へ戻ると、エマは侍女たちへ短く指示を出し、ごく自然な流れで部屋から全員を退室させた。
「それでは、ごゆっくり」
「エマ」
「何でしょう」
「その顔」
「何もございません」
「絶対楽しんでる」
「長年お待ちしておりましたので」
それだけ言い残し。
エマは扉を閉めた。
部屋へ静けさが戻る。
カイとソフィア。
二人だけ。
けれど。
今までとは。
一つ。
大きく違う。
「……婚約者」
カイがぼそりと言った。
ソフィアの頬がすぐに赤くなる。
「何です?」
「いや」
カイはソファーへ座りながら、少し不思議そうにソフィアを見る。
「ソフィー」
「はい」
「俺の婚約者なんだな」
「……はい」
言葉にすると。
急に。
実感が増した。
「本当に?」
「何回確認するのです?」
「だって」
カイは苦笑する。
「昨日まで俺が一番嫌ってた相手だぞ」
「自分です」
「分かってる」
「ふふっ」
「笑うな」
ソフィアも隣へ座る。
いつもの距離。
近い。
でも。
今日は。
意味が違う。
「カイ」
「何?」
「婚約者だと知って」
「うん」
「嫌ですか?」
少しだけ。
怖そうな声だった。
カイはすぐに首を横へ振る。
「まさか」
「本当に?」
「ああ」
カイは自分からソフィアの左手を取った。
夜空石と空雫石。
二つの腕輪が隣に並ぶ。
「むしろ」
「はい」
カイは少しだけ照れながら笑った。
「めちゃくちゃ嬉しい」
ソフィアの目がすぐに潤んだ。
「泣くなよ」
「無理です」
「今日も?」
「今日こそ無理です」
「そっか」
今度は止めない。
カイは少し笑う。
「じゃあ泣いていいよ」
「カイ」
「何」
「抱きしめてください」
今日。
何度目か。
でも。
意味は。
少し違う。
カイはもう迷わなかった。
「おいで」
その一言で。
ソフィアが完全に止まった。
「……」
「何?」
「今」
「何」
「おいでって」
「あ」
言った本人も少しだけ顔が赤くなる。
「嫌だった?」
「逆です!」
ソフィアが勢いよく胸へ飛び込んできた。
「うわっ」
カイは笑いながら受け止め、背中へ腕を回す。
今までと同じ温もり。
でも。
今日は。
初めて。
「婚約者」
カイが耳元で小さく言った。
ソフィアの身体が震える。
「カイ」
「何?」
「もう一度」
「婚約者」
「もう一度」
「何回?」
「七年分」
「またそれ?」
「はい」
カイは笑った。
「俺の婚約者」
今度は少し違う。
ソフィアの動きが止まる。
「……俺の」
自分で繰り返して。
少しだけ恥ずかしい。
でも。
嫌ではない。
むしろ。
嬉しい。
「ソフィー」
「はい」
「俺の婚約者でいてくれる?」
ソフィアが胸元から顔を上げた。
「今さら聞くのですか?」
「聞きたい」
「では」
ソフィアは涙を残したまま。
幸せそうに笑った。
「はい。喜んで」
カイの胸が温かくなる。
「俺も」
「はい」
「ソフィーの婚約者でいていい?」
「駄目と言っても逃がしません」
「怖いな」
「七年待ちました」
「強い」
「はい」
二人はしばらく見つめ合った。
その距離は近い。
でも。
もう。
どちらも。
目を逸らさない。
「カイ」
「何?」
「好きです」
「うん」
「大好きです」
「うん」
「七年前から」
「それ、今日一生言われそう」
「一生言います」
「長いな」
「嫌ですか?」
カイは少しだけ笑った。
「嫌じゃない」
ソフィアの頬へそっと手を添える。
「俺も好き」
「……」
「大好き」
ソフィアの目から。
また。
涙が落ちる。
「本当に今日泣きすぎ」
「全部カイのせいです」
「今日は俺のせいでいいよ」
「はい」
「でも」
「何です?」
「一個だけ」
カイは少しだけ真面目な顔になる。
「これから秘密にする時、もうちょっと俺に優しくして」
ソフィアが吹き出した。
「努力します」
「そこ即答じゃないんだ」
「だって」
ソフィアは少し悪戯っぽく笑う。
「カイの反応、面白いので」
「……ソフィー」
「はい?」
「やっぱりじゃじゃ馬」
「何ですと?」
「暴姫」
「カイ!」
「事実」
「婚約者になったその日にその言い方をしますか!?」
「婚約者だから言えるんだろ」
「もう!」
ソフィアが頬を膨らませる。
カイはそんな彼女を見て笑った。
そして。
もう一度。
抱きしめる。
「でも」
「……何です?」
「好き」
ソフィアの怒りが一瞬で消えた。
「ずるいです」
「ソフィーに言われたくない」
「それもそうですね」
二人で笑う。
婚姻式まで。
あと二月。
ようやくカイは知った。
ソフィアが選んだ婚約者は、最初から自分だった。
七年前。
森の中で、ただ一人の少女の手を取った少年は。
その手を。
今度は。
婚約者として握ることになった。
ずっとすれ違っていた二人の婚約準備は。
ここからようやく。
本当の意味で。
始まるのだった。




