第16話 第三皇女様、俺はあなたが好きです
白銀宮の私室には、春の柔らかな風が流れ込んでいた。
開いた窓から入り込んだ風が薄いカーテンをゆっくりと膨らませ、窓辺に置かれた花瓶の白い花をわずかに揺らしている。遠くの庭園からは庭師たちの話し声や鳥の鳴き声が小さく届いているのに、今のカイにはそれらが妙に遠く感じられた。
ソフィアが皇帝の執務室へ向かってから、それほど長い時間が経ったわけではない。それでも、待っている時間はひどく長く感じる。
カイは先ほどまでソフィアと並んで座っていたソファーから立ち上がり、窓辺まで歩いたかと思えば、また戻る。それを何度か繰り返したところで、さすがに自分でも落ち着きがなさすぎると気づいた。
「……何してるんだ、俺」
誰もいない部屋で、小さく笑う。
訓練前の緊張とは全然違った。
強敵と向かい合う時でも、ここまで落ち着かなくなることはない。剣なら振ればいいし、敵なら守るべきものを背にして前へ出ればいい。危険なら、自分が傷つけば済む。
けれど。
これから口にしようとしている言葉は、剣ではどうにもならない。
『俺、ソフィーが好きだ』
さっき、一人で言えた。
一度だけではない。二度、三度と声に出してみた。
不思議なことに、言えば言うほど違和感は消えた。むしろ今まで曖昧だった感情が、好きという一つの言葉へ全部収まっていく。
手を繋ぎたい。
抱きしめたい。
笑っていてほしい。
自分を見てほしい。
他の男へ同じ笑顔を向けてほしくない。
誰かの妻になるところを見たくない。
自分ではない誰かと幸せになる未来を、心から祝えない。
全部。
好きだから。
「……簡単じゃん」
そこまで分かってしまえば、逆に笑えてくる。
何日も悩んで、何度も理由を探した。
主君だから。
七年一緒だから。
守るべき人だから。
そうやって言い訳を積み上げた。
でも、それだけでは足りなかった。
ソフィアだから。
好き。
答えは、それだけだった。
ただ。
問題は、その後だ。
カイは腕を組み、窓の外へ視線を向ける。
「好きって言って、それからどうする」
自分へ問いかける。
昨日までなら、そこを考えた瞬間に逃げていた。
身分が違う。
婚約者がいる。
皇女と平民。
孤児。
姓もない。
自分では駄目。
そう勝手に決めていた。
けれど、今日リナに言われた。
『姫様の未来を勝手に決めるのは違う』
その通りだった。
自分がソフィアのためだと言いながら、肝心のソフィア本人の気持ちを無視している。
彼女が何度も、自分を選ぶような言葉をくれたのに。
それを身分を理由に、最初から不可能だと決めつけていた。
「……失礼、か」
カイは少し苦笑した。
ソフィアが聞けば、多分ものすごく怒る。
『私が選ぶと言っているのに、どうしてカイが勝手に決めるのですか!』
言いそう。
いや。
絶対に言う。
「……じゃあ」
カイは右手首の空雫石へ触れた。
「ちゃんと聞くか」
自分は好き。
ソフィアが好き。
婚姻を祝えない。
誰かへ渡したくない。
できるなら、自分を選んでほしい。
そこまで言う。
そのうえで。
ソフィアが何を望むのか、ちゃんと聞く。
怖い。
ものすごく怖い。
でも。
もう逃げない。
その時、扉の外から足音が聞こえた。
カイの背筋が自然と伸びる。
複数の足音が近づき、やがて扉の前で止まる。そして控えめに三回、扉が叩かれた。
「姫様がお戻りです」
エマの声。
その瞬間、カイの心臓が一気に速くなった。
「……どうぞ」
自分の部屋でもないのに、思わず答える。
扉が開いた。
◇◇◇
「戻りました」
ソフィアが入ってきた。
その瞬間、カイは言葉を失った。
別にさっきと服装は変わっていない。
淡い青紫のドレス。
ゆるく編み込まれた銀髪。
左手首には夜空石。
同じ。
なのに。
今。
自分が好きだとはっきり自覚したあとで見ると、全部が違って見える。
「カイ?」
「……」
「どうしました?」
「いや」
カイは少しだけ顔を逸らした。
「何でもない」
ソフィアの眉がわずかに動く。
「今、その言葉を使います?」
「ごめん」
「怪しいです」
「本当に」
「では、こちらを見てください」
「……」
「カイ」
逃げるな。
自分でそう決めた。
カイはゆっくりソフィアを見る。
目が合う。
空色。
以前、自分が好きな色だと答えた瞳。
でも。
今なら分かる。
色だけじゃない。
この目を見ていることそのものが好きだった。
「……やっぱり」
「何です?」
「綺麗だなって」
その一言で、ソフィアが止まった。
「……」
「ソフィー?」
「また」
「何が?」
「戻ってきて最初から、心臓を攻撃しないでください」
ソフィアは胸元へ手を置いた。
「攻撃してない」
「しています」
「褒めただけ」
「カイの場合、それが危険なのです」
「難しいな」
カイは少し笑う。
ソフィアも頬を赤くしながら笑った。
その笑顔を見た瞬間。
胸がまた鳴る。
好き。
今度は、迷わない。
「エマ」
ソフィアが振り返る。
「少し二人にしてください」
「かしこまりました」
エマは一礼した。
ただ、部屋を出る直前。
ほんの一瞬だけ。
カイへ柔らかな視線を向けた。
全部察しているような目だった。
「では、失礼いたします」
扉が閉じる。
また。
二人きりになった。
◇◇◇
「お父様のお話は?」
カイが尋ねる。
「婚姻式に関する確認と、来週の予定です」
「急ぎだったの?」
「……お父様基準では」
「ソフィー基準では?」
「今ではありませんでした」
「やっぱり」
「カイ」
「何?」
「私、本当に急いで戻ってきたのですよ」
「見れば分かる」
「分かります?」
「少し息上がってる」
「エマにも注意されました」
「走った?」
「最後だけ」
「皇女が廊下走るなよ」
「カイが待っていたので」
その言葉が。
今までより。
ずっと重く胸へ入ってくる。
嬉しい。
温かい。
「……そっか」
「はい」
「ありがとう」
「何がです?」
「戻ってきてくれて」
ソフィアがまた止まる。
「カイ」
「何?」
「今日は、本当に覚悟しています?」
「多分」
「私はできていません」
「何で」
「カイがさっきから、いつもより優しいです」
ソフィアの頬が赤い。
カイは少し笑った。
「そう?」
「はい」
「多分、分かったから」
そこで空気が変わった。
ソフィアの呼吸が止まる。
「……何が?」
カイはすぐには答えなかった。
「座ろう」
「カイ」
「ちゃんと話すから」
「……はい」
二人はソファーへ向かった。
いつものように隣へ座る。
ただ。
今日はいつも以上に緊張していた。
ソフィアは両手を膝の上へ置いている。
カイはそれを見て、何も言わずに右手を伸ばした。
ソフィアの左手を取る。
夜空石と空雫石が並ぶ。
そして。
指を絡めた。
「……」
「……」
「カイ」
「何?」
「先に手を繋ぐのですか?」
「繋ぎたかったから」
ソフィアの目が揺れる。
「嫌?」
「その質問、私に聞く必要がありますか?」
少し笑いながら言われる。
「ないか」
「はい」
「じゃあ、このまま」
「はい」
カイは繋いだ手を少しだけ強く握った。
◇◇◇
しばらく。
二人とも何も言わなかった。
窓から入る風が薄いカーテンを揺らしている。
卓上には白花茶と焼き菓子が用意されていたが、今日はどちらも手をつける気になれなかった。
カイは言葉を探していた。
さっき。
一人では。
言えた。
好き。
でも。
本人を目の前にすると全然違う。
怖い。
心臓が痛いほど鳴っている。
それでも。
逃げない。
「ソフィー」
「はい」
ソフィアも繋いだ手へ少し力を入れた。
「さっき俺、『もう、かもしれないじゃない』って言っただろ」
「はい」
「その続き」
「……はい」
ソフィアの目がすでに潤み始める。
まだ何も言っていないのに。
多分。
もう分かっている。
「一人になって、ちゃんと考えた」
「はい」
「本当に何回も考えた」
「はい」
カイは少し照れたように笑った。
「声にも出してみた」
ソフィアが驚く。
「何を?」
もう。
ここまで来た。
カイは真正面からソフィアを見る。
「ソフィー」
「はい」
心臓が痛いほど鳴っている。
けれど。
声は逃げなかった。
「俺、ソフィーが好きだ」
一瞬。
本当に何も聞こえなくなった。
ソフィアは動かない。
瞬きすらしない。
「……」
「……」
「ソフィー?」
返事がない。
「おい」
カイは少し不安になる。
「聞こえた?」
「……」
「ソフィー?」
次の瞬間。
ソフィアの顔がくしゃりと歪んだ。
そして。
涙が一気に溢れた。
「え!?」
「……っ」
「泣くとは思ったけど!」
「カイ!」
「はい!」
「もう一度!」
「何で!?」
「お願いします!」
「今言った!」
「もう一度!」
涙は止まらない。
でも。
ソフィアの目は。
まっすぐカイを見ていた。
それが。
嬉しくて。
カイの胸も熱くなる。
「分かった」
もう。
怖くない。
カイは繋いだ手を強く握る。
「ソフィーが好きだ」
今度は、もっとはっきり言った。
「主君だからじゃない。七年一緒だからだけでもないし、守りたいからだけでもない」
ソフィアの涙がまた一粒落ちる。
「一人の女の子として」
カイは逃げずに。
真正面から。
「ソフィーが好き」
完全に言った。
もう戻れない。
でも。
戻りたいとは思わない。
ソフィアの口元が震えた。
「カイ」
「うん」
「私は……今、夢を見ていますか?」
「俺が頬つねろうか?」
「やめてください」
「じゃあ夢じゃない」
「もう」
ソフィアが泣きながら笑った。
「ずっと」
小さな声。
「ずっと、聞きたかったです」
カイの胸が強く鳴る。
「七年?」
聞くと。
ソフィアが一瞬止まった。
「あ」
「今度こそ教えて」
「……」
「昨日も言っただろ。七年待ってるって」
「……はい」
「何を?」
ソフィアは少しだけ視線を迷わせた。
今なら。
かなりのところまで。
言ってしまってもいい。
でも。
婚約者の正体。
そこだけは。
まだ秘密。
皇帝が決めた婚姻。
カイ自身。
まだ知らない。
全部を今明かすのは。
少し違う。
ソフィアは涙を拭いながら、柔らかく笑った。
「カイが、私を一人の女性として見てくれる日です」
カイの目が大きくなる。
「七年?」
「はい」
「ずっと?」
「はい」
「……そんな前から?」
「はい」
ソフィアは少しだけ頬を赤くした。
「十歳の、あの日から」
カイの呼吸が止まる。
誘拐。
森。
小さかったソフィア。
泥だらけで。
傷だらけで。
それでも。
自分の手を握って。
一緒に逃げた。
あの日。
「まさか」
カイは呆然とした。
「その頃から?」
ソフィアの顔がさらに赤くなる。
「……秘密です」
「そこまで言って!?」
「全部はまだです」
「何で!」
「順番があります」
「何の!」
「あります!」
ソフィアは泣きながら笑う。
カイは頭を抱えた。
「本当にずるいな」
「カイにだけは言われたくありません」
「俺?」
「七年待たせました」
「……それは」
何も言い返せない。
「ごめん」
「許します」
「早い」
「今日、好きと言ってくれたので」
「それで全部?」
「全部ではありません」
「やっぱり?」
「ですが」
ソフィアは繋いだ手を強く握った。
「かなり許しました」
その笑顔に。
カイも。
つられて笑った。
◇◇◇
カイは一度だけ深く息を吐いた。
告白はできた。
好き。
伝えた。
ソフィアは喜んでくれた。
でも。
ここで終わりではない。
本当に言わなければいけないことは、まだ残っている。
「ソフィー」
「はい」
「ここから、多分かなり格好悪いこと言う」
「何でも聞きます」
「身勝手かも」
「昨日、もっと言ってくださいと言いました」
「言ってたな」
「はい」
「後悔しない?」
「しません」
即答だった。
カイは少し笑う。
「じゃあ」
繋いだ手を離さないまま。
ソフィアを見る。
「俺、ソフィーの婚姻……やっぱり嫌だ」
ソフィアの目が揺れる。
「婚約者がどんな人でも。良い人でも。ソフィーを大切にしてくれる人でも」
カイは少し眉を寄せた。
「嫌だ」
好きだと分かったことで。
むしろ。
以前より。
はっきりした。
「俺じゃない誰かが、ソフィーの夫になるのが嫌だ」
ソフィアの手に力が入る。
「婚姻式も」
カイは一度だけ息を吐いた。
「心から祝えない」
「カイ」
「騎士として最低かもしれない」
「そんなこと」
「でも」
ソフィアの言葉を止める。
「それでも、俺はソフィーを他の男に渡したくない」
ソフィアの目が大きくなった。
「誰かのものになるのが嫌だ」
言えば。
どんどん。
自分の欲が見えてくる。
でも。
もう。
隠さない。
「だから」
次の言葉は。
今までで一番怖かった。
「俺を」
声が少し震える。
「選んでほしい」
言った。
自分で。
驚くほど。
真っ直ぐな言葉だった。
カイはそのまま続ける。
「俺は平民で、孤児で、姓もない。皇族の婚姻相手として、何一つ相応しくないかもしれない」
ソフィアの眉が少し寄る。
でも。
カイは今度こそ逃げない。
「だけど、それを理由に勝手に諦めるのはやめる」
リナに言われた言葉を思い出す。
自分で彼女の選択まで決めるな。
その通りだった。
「ソフィーが俺なんか嫌だって言うなら」
「言いません」
即答だった。
「最後まで聞いて」
「無理です」
「聞いて」
「……はい」
ソフィアは口元を押さえた。
カイは少し笑う。
「ソフィーが俺を選ばないなら、それは受け入れる」
胸が痛い。
そんな未来は。
考えたくない。
でも。
彼女の選択なら。
受け入れる。
「でも、俺が勝手に『ソフィーのためだから』って決めるのは、もうやめる」
ソフィアの目から涙が落ちる。
「だから、ソフィー」
「はい」
カイは真正面から見る。
「俺、身分とか周りとか、全部怖い」
正直に言う。
「今も怖い」
「はい」
「でも」
繋いだ手を強く握る。
「それでも、俺を選んでほしい」
ソフィアの涙がさらに溢れる。
「婚約者じゃなくて」
カイは言った。
「俺を」
ソフィアはとうとう両手で顔を覆った。
肩が震える。
「ソフィー?」
「……」
「ごめん」
「謝らないでください!」
ソフィアが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃなのに。
笑っていた。
「謝ったら怒ります!」
「もう怒ってる」
「嬉しいのです!」
「分かりづらい!」
「カイが言いますか!?」
「それは」
言い返せない。
二人は。
泣きながら。
笑った。
◇◇◇
「カイ」
「何?」
「一つ、確認していいですか?」
「何でも」
ソフィアは涙を拭った。
「私が皇女でも」
「うん」
「婚姻が決まっていても」
「うん」
「周囲から何を言われるか分からなくても」
「……うん」
「私を選びたい?」
少し前のカイなら。
そこで止まった。
でも。
今は。
止まらない。
「うん」
即答した。
「選びたい」
ソフィアの目からまた涙が落ちる。
「私が、カイを選んでも?」
「怖い」
そこも。
誤魔化さない。
「でも、嬉しい」
「迷惑では?」
「絶対ない」
「後悔しません?」
カイは少しだけ考えた。
「今は、しない」
ソフィアは目を閉じて、深く息を吐いた。
「カイ」
「何?」
「ありがとうございます」
「……何で?」
「私を選んでくれて」
その言葉に。
カイの胸も熱くなる。
「まだ」
「はい」
「ソフィーの答え、ちゃんと聞いてない」
カイは少し照れながら続けた。
「聞いていい?」
ソフィアの口元が少しだけ緩む。
「何をです?」
「……分かるだろ」
「聞きたいです」
「やり返す?」
「はい」
「強いな」
「大切ですから」
カイの顔が赤くなる。
「俺、好きって言った」
「はい」
「俺を選んでほしいって言った」
「はい」
「だから」
今度は。
自分が聞く。
「ソフィーは?」
胸が鳴る。
「俺のこと、どう思ってる?」
ソフィアが完全に止まった。
これは。
まだ。
彼女自身の口から。
明確には聞いていない。
七年。
待っていた。
それだけで。
ほとんど答えは分かっている。
でも。
やっぱり。
聞きたい。
「……」
「ソフィー?」
「少し」
「何?」
「待ってください」
「俺は待つよ」
「……」
「何年?」
「今度は俺が待つ」
カイが笑う。
ソフィアの目にまた涙が浮かんだ。
「泣くなって」
「無理です」
「本当に今日すごいな」
「全部カイのせいです」
「はいはい」
カイは左手を伸ばし、頬を流れた涙を拭った。
すると。
ソフィアはその指をそっと掴み。
自分の頬へ押し当てた。
カイが止まる。
「ソフィー?」
「カイ」
「うん」
「私」
今。
言う。
七年間。
ずっと。
言いたかったこと。
「カイが、大好きです」
カイの目が大きくなる。
「……」
「十歳の時から」
ソフィアは涙を流しながら。
でも。
幸せそうに笑った。
「ずっと」
カイの胸が強く鳴る。
「七年?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「ずっと俺?」
「はい」
カイはしばらく何も言えなかった。
それほど。
胸の中が。
いっぱいだった。
ソフィアが少しだけ不安そうに尋ねる。
「困ります?」
「いや」
カイはすぐに首を横へ振った。
「嬉しい」
ソフィアの目元が柔らかくなる。
「すごく嬉しい」
カイが続ける。
すると。
また。
ソフィアが泣いた。
「また!」
「無理です!」
「今日何回目!?」
「知りません!」
二人は。
泣いて。
笑って。
それでも。
ずっと。
手を繋いでいた。
◇◇◇
少しして。
ソフィアがゆっくりカイへ近づいた。
「カイ」
「何?」
「今日は」
「うん」
「私からではなく」
そこで。
少し恥ずかしそうに。
「カイから、抱きしめてください」
カイは一瞬だけ息を止めた。
でも。
もう。
迷わない。
「うん」
繋いでいた手を離し。
両腕を広げる。
ソフィアがその胸へ入ってくる。
カイはゆっくり。
けれど。
しっかり。
彼女を抱きしめた。
ソフィアも背中へ腕を回す。
近い。
温かい。
柑橘の香り。
胸が落ち着く。
昨日。
離したくないと言った。
今日は。
もっとはっきり。
分かっている。
「ソフィー」
「はい」
耳元へ。
小さく。
「好き」
ソフィアの身体が震える。
「カイ」
「何?」
「もう一度」
カイは笑う。
「好き」
「……もう一度」
「何回言わせる?」
「七年分」
「多いな」
「七年分です」
カイは少し笑って、抱きしめる腕へ力を込めた。
「好き」
もう一度。
「ソフィーが好き」
ソフィアは泣きながら笑った。
「はい」
小さく答える。
「私も」
カイの胸へ顔を埋める。
「カイが大好きです」
カイは目を閉じた。
もう。
理由なんていらない。
恋人設定も。
護衛のためという言い訳も。
何も。
いらない。
ただ。
好きな人を。
抱きしめている。
それだけだった。
◇◇◇
どれくらいそうしていただろう。
二人とも分からなかった。
けれど。
離れようとは。
思わなかった。
「ソフィー」
「はい」
「一個」
「何です?」
「問題がある」
「はい」
「婚約者」
その言葉で、ソフィアの身体が少しだけ強張る。
「……はい」
「俺たち」
自分で言って。
少し照れる。
「両想い、だろ」
ソフィアが嬉しそうに顔を上げる。
「はい」
「なら、このままって訳にはいかない」
「はい」
カイの胸が少し重くなる。
「婚約者に、ちゃんと話さないと悪い」
ソフィアが唇を噛んだ。
笑いを堪えている。
「何?」
「いえ」
「何で笑う」
「何でもありません」
「また!」
カイが少し身体を離そうとする。
でも。
ソフィアはまだ腰へ腕を回したまま。
逃がさない。
「婚約者がどんな人か、もう知る必要あるだろ」
カイは真面目な顔になる。
「会わせて」
ソフィアが目を丸くした。
「会う?」
「ああ」
「本当に?」
「嫌だけど」
「嫌?」
「そりゃ、今の婚約者だろ」
「はい」
「俺、ソフィーを奪うみたいなものだし」
今度こそ。
ソフィアが笑いそうになる。
「何」
「いえ」
「さっきから変だぞ」
「ごめんなさい」
「本当に、ちゃんと謝る」
「カイ」
「何?」
「その必要は」
言いかけて。
ソフィアは止まった。
今。
言う?
婚約者は。
カイ本人。
でも。
ここまで来た。
もう。
そろそろ。
伝えてもいい。
ソフィアの胸が大きく鳴る。
「カイ」
「うん」
「婚約者のことで、話したいことがあります」
カイの表情が真剣になる。
「何?」
ソフィアが言葉を選ぶ。
その時。
また。
扉が叩かれた。
「姫様」
エマの声だった。
「失礼いたします」
ソフィアの表情が止まる。
「……何です?」
少し怖い。
エマも一瞬間を置いた。
「陛下より、カイを連れて執務室へ来るようにとのご命令です」
「……」
「……」
カイとソフィアが顔を見合わせる。
「俺も?」
「はい」
扉の向こうからエマが答えた。
「お二人でお越しくださいとのことです」
ソフィアは目を閉じ、深く息を吐いた。
「お父様……」
小さな怒り。
カイは苦笑した。
「また?」
「またです」
「行かないと」
「分かっています」
ソフィアはものすごく不満そうだったが、皇帝の命令を無視することはできない。
「カイ」
「何?」
「婚約者のお話」
「うん」
「戻ってから」
「分かった」
「絶対です」
「ああ」
「逃げません?」
「もう逃げない」
カイは少し笑った。
「好きって言っただろ」
ソフィアの顔がまた赤くなる。
「そういうことを今、急に言うのは反則です」
「知らない」
「カイ」
「はいはい」
二人は立ち上がる。
でも。
その前に。
カイがソフィアの手を取った。
「行こう」
「このまま?」
「扉まで」
「……はい」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
二人は手を繋いだまま扉の前まで歩く。
夜空石と空雫石が隣に並ぶ。
扉の前で。
ゆっくり。
指を離した。
少しだけ寂しい。
でも。
今は。
前と違う。
互いの気持ちを。
もう。
知っている。
「ソフィー」
「はい」
カイが小さな声で。
「好き」
ソフィアの目が大きくなる。
「行く前に、言っとこうと思って」
「……カイ」
「泣くなよ」
「無理です」
「また!?」
扉の外。
エマは小さくため息を吐いた。
でも。
その口元には。
笑みがあった。
◇◇◇
白銀宮から皇帝の執務室へ向かう回廊。
表向き。
二人は主従へ戻っていた。
カイはソフィアの一歩後ろを歩く。
けれど。
何度も。
視線がソフィアの左手首へ向かう。
夜空石。
ソフィアも同じように。
カイの右手首にある空雫石を何度か見る。
何度も目が合う。
そのたびに。
二人とも。
少しだけ。
笑う。
「姫様」
人がいる。
呼び方を戻す。
でも。
声は以前より柔らかい。
「何です?」
「陛下、何の用だと思います?」
「分かりません」
「婚姻?」
「可能性はあります」
「そっか」
カイの胸に少し緊張が戻る。
今。
婚姻の話を聞く。
好きだと。
認めた今。
もう。
前と同じ気持ちでは聞けない。
それでも。
逃げない。
ソフィアは。
その変化へ。
気づいていた。
「カイ」
「はい」
「大丈夫です」
「何が?」
「何があっても」
ソフィアは前を向いたまま。
静かに。
「私はカイを選びます」
カイの足が少し止まりそうになる。
「姫様」
「今は姫様でいいです」
「そうじゃなくて」
「何です?」
周囲には使用人たちがいる。
何も言えない。
「……後で」
「はい」
ソフィアは少し笑った。
二人はそのまま歩き続けた。
◇◇◇
やがて、皇帝の執務室前へ到着した。
衛兵が一礼する。
「第三皇女殿下、近衛騎士カイ。陛下がお待ちです」
大きな扉が開く。
執務室の奥には皇帝。
側近。
そして。
マリアがいた。
「……団長?」
カイが少し驚く。
マリアは目が合うと、ほんのわずかに笑った。
「来たか」
皇帝が言う。
「はい、お父様」
ソフィアが一礼する。
カイもすぐに騎士礼を取った。
「お呼びとのことで参上いたしました」
「うむ」
皇帝はカイを見た。
長い。
「……」
「……」
少しだけ緊張する。
「何でしょうか」
皇帝は深く息を吐いた。
「まず、カイ」
「はい」
「お前に確認したいことがある」
「何でしょう」
「娘を」
ソフィアの目が大きくなる。
マリアの口元が少し緩む。
「どう思っている?」
カイが完全に止まった。
「……」
「……」
「お父様!?」
ソフィアが先に声を上げた。
「何ですか突然!」
「黙っていろ」
「でも!」
「本人に聞いている」
皇帝の視線がカイへ向く。
逃げ道はない。
でも。
今日。
カイは。
もう逃げないと決めた。
「陛下」
「何だ」
カイは深く息を吸った。
ソフィアを見る。
目が合う。
彼女の表情には少し不安がある。
でも。
信じてくれている。
カイは皇帝へ視線を戻した。
「好きです」
執務室が静まり返った。
側近たちの目が大きくなる。
マリアの口元がわずかに緩む。
ソフィアの顔が一気に赤くなった。
皇帝の眉が動く。
「もう一度言え」
「え」
「聞こえなかったわけではない」
「では」
「言え」
怖い。
でも。
言う。
「ソフィア殿下が好きです」
皇帝の目が細くなる。
「女としてか」
「……はい」
カイの顔も少し赤くなる。
「一人の女性として」
ソフィアは両手で口元を覆った。
皇帝は天井を見上げる。
「……そうか」
妙に疲れた声だった。
「ついにか」
「ついに?」
カイが眉を寄せる。
皇帝がマリアを見る。
「遅かったな」
「かなり」
マリアが迷いなく答える。
「何の話です?」
カイは怪訝な顔をする。
ソフィアは視線を逸らした。
「姫様?」
「何でもありません」
「絶対何かある」
皇帝がため息を吐いた。
「まあいい」
机の上へ書類を一枚置く。
「次だ」
カイが姿勢を正す。
「娘には婚姻が決まっている」
「……はい」
胸が少しだけ痛む。
「それを知ったうえで」
「はい」
「どうする」
問われる。
今日。
ソフィアへ言った。
自分の気持ち。
今度は。
皇帝の前で。
言えるか。
怖い。
でも。
逃げない。
「……陛下」
「言え」
カイは拳を握った。
「身勝手なのは承知しております」
「うむ」
「臣下として、許されない発言になる可能性も」
「構わん」
「では」
カイはソフィアを見る。
彼女の目は潤んでいた。
「婚姻を、やめてほしいと思っています」
ソフィアの涙が一粒落ちる。
皇帝の目がわずかに大きくなった。
「理由は」
「俺が」
カイは言う。
声は。
もう。
揺れなかった。
「ソフィア殿下を、誰にも渡したくないからです」
執務室が完全に静まり返る。
「俺を選んでほしいと思っています」
皇帝の前で。
言った。
もう。
戻れない。
でも。
後悔はなかった。
ソフィアは泣きながら笑っている。
皇帝はそんな娘を見る。
「ソフィア」
「はい」
「お前は?」
ソフィアは一瞬も迷わなかった。
「カイを選びます」
カイの目が大きくなる。
皇帝の眉が寄る。
「即答か」
「七年前から決まっています」
「……」
カイがソフィアを見る。
「七年前?」
「あ」
ソフィアがまた口を滑らせた。
マリアが笑う。
皇帝は頭を押さえた。
「もういい」
「陛下?」
皇帝は机の上から一枚の書類を持ち上げた。
「では」
深いため息を吐く。
「そろそろ、お前にも説明する必要があるな」
カイの眉が寄る。
「説明?」
「ああ」
皇帝はその書類を、机の上を滑らせるようにしてカイの前へ出した。
「婚姻についてだ」
カイは紙を見る。
まだ。
取らない。
胸が少しざわつく。
隣では。
ソフィアの顔が真っ赤になっている。
マリアは。
明らかに楽しそうだ。
「……何です?」
誰もすぐには答えない。
皇帝がもう一度ため息を吐く。
「読め」
カイは恐る恐る書類を手に取った。
そこに書かれている文字を、上から順に追っていく。
一行。
二行。
そして。
ある部分で。
視線が止まった。
「……」
完全に。
固まる。
「……え?」
ソフィアは両手で顔を隠した。
皇帝は目を閉じる。
マリアはとうとう笑いを堪えられなくなった。
カイはもう一度、書類を見る。
でも。
書いてある文字は。
変わらない。
婚姻予定者。
第三皇女ソフィア・フォン・ガルア。
そして。
その下。
婚姻相手。
そこに記されていたのは。
「……カイ?」
自分の名前。
だった。
婚姻式まで。
あと二月。
ようやく自分の恋心へ、はっきりと名前をつけたその日。
カイは。
ずっと嫉妬し。
嫌いになりかけ。
婚姻をやめてほしいとまで願っていた。
ソフィアの婚約者が。
誰なのか。
初めて。
知った。




