第15話 第三皇女様、その婚姻を喜べない騎士でも傍にいていいですか?
翌朝、第四近衛騎士団の訓練場には、雲一つない青空が広がっていた。
春の陽射しはまだ柔らかく、夜の間に冷えた石壁をゆっくりと温め始めている。訓練場ではすでに数十人の騎士が木剣や槍を手に身体を動かしており、乾いた打撃音や掛け声が、早朝の澄んだ空気へ何度も重なっていた。
そんな中、カイは一人で木剣を振っていた。
足運びを確かめながら踏み込み、斬り下ろしから横薙ぎへ繋ぎ、返す。身体へ染み込んだ型を繰り返せば、普段なら余計なことなど考えずに済むはずだった。
だが今日は、何度木剣を振っても頭の中が静かにならない。
「……好き、か」
昨夜、白銀宮から詰所へ戻る途中。
誰もいない回廊で。
自分の口から出た言葉。
ソフィアの顔を思い浮かべながら、自分の中にあった感情へ初めて名前をつけた。
好き。
言ってみれば、驚くほどしっくりきた。
それまで胸の中に散らばっていたものが、一つの答えへ綺麗に収まっていくような感覚だった。
ソフィアと手を繋ぎたい。
もっと一緒にいたい。
抱きしめると落ち着く。
他の男へ笑いかけてほしくない。
誰かへ嫁ぐのが嫌だ。
自分ではない男と幸せになるところなど、見たくない。
これまで別々の感情だと思っていたものが、好きだからという一言で全部説明できてしまう。
「……だったら」
カイは振り上げていた木剣をゆっくり下ろした。
額には薄く汗が浮かび、呼吸も少しだけ上がっている。けれど、今苦しいのは訓練のせいではなかった。
「どうするんだよ、俺」
自分の気持ちは分かった。
それで終わりではない。
むしろ、ここからの方が問題だった。
好きなら。
言うのか。
言わないのか。
ソフィアは昨日、自分が彼女を好きでも困らないと言った。
それどころか、むしろそうであってほしいとまで言った。
なら、告げてもいいのかもしれない。
けれど。
『好きです』
その一言を口にしたあと。
どうする。
婚約者がいる女性へ。
皇族である女性へ。
自分の主君へ。
好きだと告げて、それだけで終われるのか。
「……無理だろ」
カイは小さく呟いた。
好きだと認めた瞬間、もう婚姻式を黙って見送ることなどできそうになかった。
昨日の時点ですでに、自分は言っている。
『俺じゃない誰かと幸せになるのは嫌だ』
あの言葉に嘘はない。
もし本当に、ソフィアが知らない男と婚姻式を挙げる日が来たら。
自分は騎士として、そのすぐ傍に立つ。
婚姻式のための礼装まで用意されている。
笑って。
祝福して。
守って。
そして。
婚姻式が終われば、今までのようには会えなくなるかもしれない。
もし婚約相手が他国の王族なら、ソフィアが帝国を離れる可能性だってある。
そこまで想像した瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……嫌だな」
今度は迷わなかった。
ソフィアがいなくなる。
嫌だ。
誰かの妻になる。
それも嫌だ。
もう、騎士としての理屈だけで誤魔化すことはできなかった。
「お前、朝から怖い顔して何やってるんだ?」
突然後ろから声をかけられ、カイは振り返った。
そこにはリナが立っていた。
木剣を片手に持ち、少し呆れたような顔でこちらを見ている。
「訓練」
「それは見れば分かる」
「じゃあ何」
「昨日の続き考えてた?」
カイの返事が止まった。
リナの口元が少し上がる。
「正解か」
「何で分かるんだよ」
「今のカイ、姫様のこと以外でそんな顔しないから」
「そんなに?」
「かなり」
リナは苦笑しながら近づいてきた。
「それで?」
「何が」
「答え」
昨日。
『もう好きでしょ』
そう聞かれた。
その時のカイは、かなりそうかもしれないとは思っている、としか答えられなかった。
でも。
今は違う。
「出た」
カイは木剣の柄を握り直しながら答える。
「え?」
「答え」
リナの顔から、からかうような笑みが消えた。
「……本当に?」
「ああ」
「何だった?」
「それ聞く?」
「聞くに決まってるでしょ」
「本人より先に?」
「……」
リナは一瞬黙った。
そして、すぐに肩をすくめる。
「それなら聞かない」
「珍しい」
「それは姫様が最初に聞くべきでしょ」
「そう思う?」
「思う」
カイは少しだけ安心したように笑った。
「でもさ」
リナが続ける。
「顔を見る限り、答えが分かったからって嬉しいだけじゃなさそうだけど」
「……まあ」
「身分?」
「それもある」
「婚約者?」
「それも」
「他には?」
カイは少し迷った。
それから、遠くの石壁へ視線を向ける。
「好きだって言ったあと」
「うん」
「俺、どうすればいいんだろうな」
リナが少しだけ目を細めた。
「どうって?」
「ソフィーには婚約者がいる」
「うん」
「その状態で好きだって言ったら、普通はそれで終われないだろ」
リナは何も言わなかった。
カイは続ける。
「俺、もうあの婚姻を心から祝えないって、自分で分かってる」
一度だけ、自嘲するように笑った。
「好きだって伝えて、それでも姫様には予定通り結婚してくださいって……そんな綺麗なこと、俺には言えそうにない」
リナは黙って聞いている。
「むしろ多分、言いたくなる」
「何を?」
少しだけ沈黙が落ちた。
けれど、カイは逃げなかった。
「結婚しないでほしいって」
リナの表情が変わる。
「俺のところにいてほしいって」
声は小さかった。
でも。
昨日までとは違う。
はっきり、自分の欲を認めていた。
「……そっか」
リナが静かに言った。
「ああ」
「それ、姫様に言える?」
「分からない」
「言いたい?」
カイは少しだけ迷った。
けれど。
「……言いたい」
最後ははっきり答えた。
「ただ」
カイは苦笑する。
「言っていい立場なのかって思う」
「そこ?」
「ああ」
「カイ」
「何?」
「姫様が何て言ってた?」
「何が」
「自分で気持ちを見つけろって」
「ああ」
「好きでも困らないって」
「ああ」
「むしろ、そうであってほしいって」
「……言ってた」
「じゃあ」
リナは木剣の先をカイの胸へ軽く当てた。
「そこから先も、自分で決めたら?」
「雑だな」
「私は姫様じゃないからね」
「そうだけど」
「ただ、一つだけ言うなら」
リナの表情が少し真面目になる。
「カイが姫様の未来を勝手に決めるのは違うと思う」
「……」
「身分が違うから駄目。周りに言われるから駄目。姫様が傷つくから駄目」
どれも。
今まで自分が何度も口にしてきた理由だった。
「それ全部、姫様がどう思うか聞いてないでしょ」
カイは黙った。
「姫様が選んだ時に、カイが自分でその選択を否定するの?」
「……」
「それって、かなり失礼じゃない?」
カイは眉を寄せた。
「言い方」
「でも間違ってないでしょ」
「……多分」
「なら」
リナは木剣を下ろす。
「好きって伝えるなら、その先も姫様と話せばいいんじゃない?」
「二人で?」
「そう」
「俺が勝手に決めない」
「うん」
「ソフィーにも決めてもらう」
「それでいいんじゃない?」
カイはしばらく何も言わなかった。
自分が選ぶ。
ソフィアにも選んでもらう。
その考え方は。
今までの自分にはなかった。
守る。
諦める。
身を引く。
そんなことばかり考えていた。
けれど。
本当は。
選びたい。
選ばれたい。
そんな願いを持ってもいいのかもしれない。
その時、訓練場の入口から聞き慣れた声が響いた。
「カイ!」
マリアだった。
「団長」
「姫様から使いだ」
「もう?」
横でリナが笑う。
「昨日、会いたいから行くって言ったんでしょ?」
「……何で知ってる」
「姫様からじゃない?」
「団長!」
「私に怒るな」
マリアが近づいてくる。
「白銀宮へ来てほしいそうだ」
「何かあったんですか?」
「特には」
「じゃあ」
「お前が昨日、来ると言ったからだろう」
「……」
「姫様から一応伝えてほしいと言われた」
「何て?」
マリアは少しだけ口元を上げた。
「『待っています』」
それだけで。
カイの胸が少し温かくなった。
「……行ってきます」
「訓練は?」
カイが聞くと、マリアは肩をすくめた。
「今日はもういい」
「いいんですか?」
「その顔で剣を振られても周りが迷惑だ」
「どんな顔です?」
「恋に悩む男」
「団長!」
横でリナが吹き出した。
カイは顔を赤くしたまま木剣を片づけ始めた。
◇◇◇
白銀宮へ向かう途中、カイは何度も告白の言葉を考えた。
『好きです』
違う。
妙に固い。
『ソフィーが好きだ』
直接すぎる。
『多分じゃなくて、好きだって分かった』
悪くはない。
けれど。
やっぱり。
問題は、その後だった。
「……格好悪いな」
告白の言葉より、その後の方が怖い。
けれど、リナの言葉が頭から離れなかった。
ソフィアの未来を、自分だけで決めない。
相手本人へ聞く。
怖いなら。
話せばいい。
今までソフィアは、何度も自分へ言葉をくれた。
嬉しい。
寂しい。
嫌。
全部。
以前よりずっと素直に。
なら。
自分も。
同じように話さなければいけない。
白銀宮が近づくにつれ、胸の鼓動は速くなった。
それでも。
カイは足を止めなかった。
◇◇◇
私室の前には、今日はエマの姿がなかった。
代わりに若い侍女が一人だけ立っている。
「カイ様」
「様はいいよ」
「失礼いたしました」
「姫様は?」
「お待ちです」
「一人?」
「はい」
「最初から?」
侍女が少しだけ笑った。
「はい」
「やっぱり」
「それと、姫様から伝言がございます」
「何?」
「入室後は『姫様』と呼ばなくてよいとのことです」
「そこまで伝言にする?」
「はい」
侍女が笑いを堪えている。
カイは少しだけ目を細めた。
「……皆、楽しんでない?」
「そのようなことは」
「絶対楽しんでる」
そう言いつつ。
カイ自身も。
少し笑っていた。
「入ります」
「どうぞ」
扉を叩く。
「ソフィー、入るよ」
言ってから。
自分で少し驚いた。
もう。
入る前から。
愛称で呼んでいる。
けれど。
中からはすぐに。
「はい!」
明るい返事が返ってきた。
カイは扉を開いた。
◇◇◇
ソフィアは窓辺のソファーへ座っていた。
今日は淡い青紫色のドレスを纏い、銀髪はゆるく編み込んで肩の後ろへ流している。
カイが入ってきた瞬間。
空色の瞳が。
はっきり。
明るくなった。
「カイ」
「おはよう」
「もう昼前です」
「じゃあ、こんにちは」
「ふふっ」
ソフィアが笑う。
その顔を見た瞬間。
昨日。
自分が思ったこと。
また。
胸へ戻る。
他の男には。
見せてほしくない。
自分だけが。
見たい。
そして。
今は。
その理由も。
分かっている。
好きだから。
「どうしました?」
「何が?」
「見ています」
「ああ」
カイは少しだけ視線を逸らした。
「見てた」
「どうして?」
「……綺麗だなと思って」
ソフィアが完全に固まった。
「……」
「ソフィー?」
「少し待ってください」
「何で」
「まだ開始して一分も経っていません」
「何が?」
「カイとの時間です」
「うん」
「もう心臓が危険です」
「また?」
「昨日より早いです」
カイは思わず笑った。
「褒めない方がいい?」
「絶対に褒めてください」
「強いな」
「はい」
顔は赤い。
でも。
すごく嬉しそうだった。
「今日は」
「はい」
「髪もいい」
「髪?」
「ああ。よく似合ってる」
ソフィアはまた黙った。
「何?」
「今日は本当にどうしたのです?」
「分かりやすくしようと思って」
その瞬間。
ソフィアの呼吸が止まる。
「……昨日の続き?」
「うん」
「考えました?」
「かなり」
「答えは?」
早い。
いきなり。
そこへ来た。
心の準備がまだできていない。
でも。
逃げない。
「その前に」
カイはソファーへ近づいた。
「座っていい?」
「もちろんです」
いつもの隣へ腰掛ける。
肩が近い。
ソフィアは両手を膝の上へ置いている。
自分からは差し出さない。
けれど。
期待していることは。
今のカイには。
もう分かる。
カイは少し笑うと、自分からソフィアの左手を取った。
「これも」
「はい?」
「したかった」
指を絡める。
「会って」
「はい」
「顔見て」
「はい」
「手繋ぎたかった」
ソフィアの目がもう潤み始めている。
「まだ泣くなよ」
「無理かもしれません」
「今日は早い」
「カイが悪いです」
「まだ何もしてない」
「もう十分しています」
二人で少し笑った。
それでも。
カイは繋いだ手へ少しだけ力を込める。
「ソフィー」
「はい」
声が変わる。
ソフィアもすぐに真剣な顔になった。
「昨日、帰ってからちゃんと考えた」
「はい」
「昨日までは、好きかもしれないって言ってた」
「はい」
「でも」
そこで。
カイは一度だけ息を吸った。
答えは。
もう。
胸の中にある。
「もう、かもしれないじゃない」
ソフィアの指が震えた。
「カイ」
「うん」
「それは……」
言える。
今なら。
言える。
そう思った。
その瞬間。
扉が強めに三回叩かれた。
「姫様!」
外からエマの声が響く。
普段より少しだけ緊張した声だった。
二人とも止まる。
ソフィアはすぐに第三皇女としての表情へ戻った。
「何です?」
「陛下より、至急お越しいただきたいとのご命令でございます」
カイとソフィアは同時に顔を見合わせた。
このタイミング。
ソフィアの顔には、隠しきれないほどの不満が浮かんでいる。
それでも。
皇帝の命令を無視するわけにはいかない。
「……分かりました。すぐ向かいます」
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
部屋へ静けさが戻った。
「……」
「……」
「カイ」
「うん」
「今、何を言おうとしました?」
「……」
「教えてください」
ソフィアは本気だった。
カイは少しだけ笑う。
「駄目」
「どうして!?」
「ちゃんと最後まで言える時に言う」
「今言えます!」
「陛下待ってる」
「待たせます!」
「駄目だろ!」
「少しくらい!」
「皇帝陛下だぞ!」
「私の父です!」
「もっと駄目だよ!」
二人の言い合いが部屋へ響く。
ソフィアは頬を膨らませた。
「もう!」
「ごめん」
「絶対です」
「何が?」
「戻ったら続きを言ってください」
カイは少し考えた。
今日の勤務も残っている。
皇帝の用件がどれくらいかかるかも分からない。
「戻れたら」
「戻ります」
「ソフィー」
「絶対です」
強い。
でも。
その必死さが。
今は。
愛しい。
カイは笑った。
「分かった」
「約束です」
「ああ」
繋いだ手を一度握る。
それから。
少しだけ迷った。
「でも、その前に」
「何です?」
「抱きしめていい?」
ソフィアが完全に固まった。
「……」
「嫌?」
「嫌なわけありません!」
即答だった。
「声大きい」
「カイが悪いです!」
「はいはい」
カイは笑った。
でも。
今度は。
自分から。
両腕を少し広げる。
ソフィアはその仕草を見て、目を大きくした。
そして。
ゆっくり近づき。
カイの胸へ身体を預ける。
カイも両腕を背中へ回し、静かに包み込んだ。
昨日より。
ずっと自然だった。
身体の温もり。
柑橘系の柔らかな香り。
胸元へ触れる銀髪。
全部が。
不思議なくらい落ち着く。
「カイ」
「何?」
「自分から言いました」
「うん」
「抱きしめたいって」
「うん」
「どうして?」
昨日も聞かれた。
昨日は。
『ソフィーだから』
そう答えた。
今日は。
もっとはっきり。
分かっている。
でも。
最後の言葉は。
戻ってきてから。
ちゃんと。
言いたかった。
「言わない」
「今のは?」
「続きと一緒」
「……」
ソフィアはカイの胸へ顔を埋めた。
「ずるいです」
「ごめん」
「本当にずるいです」
「でも」
カイは背中をゆっくり撫でる。
「戻ってきたら、ちゃんと話す」
ソフィアが顔を上げる。
「逃げません?」
「逃げない」
「身分を理由に?」
「それも含めて」
「婚約者を理由に?」
「それも」
「本当に?」
「ああ」
カイはまっすぐソフィアを見る。
「今度は、ソフィーと二人で考える」
ソフィアの目が潤んだ。
「……はい」
「だから、一人で全部決めない」
「はい」
「ソフィーの気持ちも聞く」
「はい」
「それで」
カイは一度言葉を止めた。
「俺の気持ちも、ちゃんと言う」
ソフィアの目から一粒だけ涙が落ちる。
「また泣く」
「これはカイが悪いです」
「知ってる」
カイは笑いながら指先でその涙を拭った。
「行っておいで」
「……はい」
そう答えながらも。
ソフィアは離れない。
「ソフィー」
「あと少し」
「陛下待ってる」
「あと十秒」
「長い」
「五秒」
「仕方ないな」
カイは少しだけ腕に力を込めた。
「一」
ソフィアが数える。
「二」
カイが笑う。
「三」
「自分で数えるんだ」
「四」
「はいはい」
「五」
それでも。
ソフィアは離れなかった。
「ソフィー?」
「……もう一回」
「駄目」
「一から」
「駄目」
「ケチ」
「皇帝陛下待たせてる人に言われたくない」
ソフィアはようやく渋々身体を離した。
それでも。
手はまだ繋がれている。
二人はそのまま扉の前まで歩いた。
「ここまで」
カイが言う。
「……はい」
「戻ってきたら」
「はい」
「続き」
「絶対ですよ」
「ああ」
ようやく手を離す。
ソフィアが扉を開くと、外ではエマが待っていた。
ソフィアはすぐに第三皇女らしい表情へ戻る。
けれど。
頬はまだ少し赤い。
エマがカイを見る。
何かを察したようだった。
「カイ」
ソフィアが振り返る。
今は人がいる。
愛称では呼べない。
カイは騎士として一礼した。
「行ってらっしゃいませ、姫様」
その呼び方に。
ソフィアの表情がほんの少しだけ寂しそうになる。
けれど。
カイは顔を上げた時。
小さく笑い。
声には出さず。
唇だけを動かした。
『待ってる』
ソフィアには。
伝わった。
表情が柔らかくなる。
「行ってまいります」
そして。
エマと共に。
回廊の向こうへ消えていった。
◇◇◇
ソフィアがいなくなった私室で、カイはしばらく一人で立っていた。
腕にはまだ。
さっきまで抱きしめていた温もりが残っている。
少し前。
自分が言いかけた言葉。
『もう、かもしれないじゃない』
その続き。
答えは。
もう。
はっきりしている。
「……好きだ」
静かな部屋で。
今度は。
迷わず。
口にする。
「俺、ソフィーが好きだ」
昨日より。
ずっと自然だった。
胸は痛い。
でも。
ただ苦しいだけではない。
嬉しい。
愛しい。
会いたい。
触れたい。
笑っていてほしい。
その全部が。
好きという言葉の中へ。
綺麗に収まっていく。
「……そっか」
カイは小さく笑い、ソファーへ腰を下ろした。
さっきまでソフィアが座っていた場所のすぐ隣。
わずかに。
まだ。
温かい。
「本当に好きなんだな」
改めて。
自分で。
認める。
けれど。
次に。
婚約者。
その存在を考えた瞬間。
胸が少し重くなった。
「それで」
カイは自分へ問いかける。
「どうする」
好き。
分かった。
なら。
言う。
でも。
その先。
婚姻を。
どうする。
今の自分には。
もう。
本音がある。
「……結婚してほしくない」
ソフィアには。
今。
知らない婚約者がいる。
どんな男かも。
まだ。
分からない。
でも。
関係ない。
「俺を選んでほしい」
初めて。
一人きりの部屋で。
そこまで。
口にした。
怖い。
厚かましい。
身分を考えれば。
とても言えることではないと。
少し前の自分なら思っただろう。
でも。
これが。
今の。
本当の願いだった。
「……言えるかな」
少しだけ苦笑する。
「いや」
すぐに。
首を横へ振る。
「言わないと駄目だよな」
ソフィアは待っている。
七年。
何を待っていたのか。
まだ全部は分からない。
でも。
今日。
今。
彼女が。
自分の言葉を待っていることだけは。
分かっている。
「戻ってきたら、ちゃんと言おう」
カイは右手首の空雫石へそっと触れた。
◇◇◇
一方。
皇帝の執務室へ向かう回廊。
ソフィアは、いつもより明らかに速い歩調で進んでいた。
「姫様」
「何です?」
「少し速うございます」
「早く終わらせます」
「まだ用件も分かっておりません」
「何でも構いません」
「姫様」
「カイが待っています」
エマは一瞬黙った。
それから。
少しだけ笑う。
「そうでございますね」
「エマ」
「はい」
「カイが、言いかけました」
足は止めない。
けれど。
声は小さい。
「何を?」
「まだ、好きとは言っていません」
「はい」
「でも」
ソフィアは胸元へそっと手を添えた。
『もう、かもしれないじゃない』
その続き。
ほとんど。
分かる。
「たぶん」
「はい」
「次に二人きりになったら」
頬が赤くなる。
「言ってくれます」
エマの目元が柔らかくなる。
「そうですか」
「はい」
「でしたら」
エマも少し笑った。
「陛下のお話を早く終わらせませんと」
「当然です」
「ですが」
「何です?」
「陛下ご本人へ『早くしてください』とは言わないでくださいませ」
「……」
「姫様?」
「努力します」
「絶対におやめください」
エマが少し慌てる。
ソフィアは楽しそうに笑った。
けれど。
胸は。
ずっと。
高鳴っている。
あと少し。
本当に。
あと少し。
◇◇◇
皇帝の執務室。
大きな扉の前まで来ると、ソフィアは一度だけ深く息を吸った。
皇女としての顔へ戻る。
護衛が扉を開いた。
「第三皇女ソフィア・フォン・ガルア、参りました」
執務室の奥には、皇帝が机へ向かって座っている。
横には側近が二人。
「来たか」
「はい、お父様」
「急に呼び出してすまんな」
「構いません。それでご用件は?」
返事が早い。
皇帝の眉が少し上がる。
「随分急ぐな」
「そんなことは」
「ある」
「……」
「カイか?」
ソフィアが完全に止まった。
「な、何で」
「顔に書いてある」
「お父様!」
皇帝は深くため息を吐いた。
「あの男……」
「カイは何も悪くありません!」
「まだ何も言っていない!」
「でも絶対悪く言おうとしました!」
「娘よ」
「何です?」
「お前は本当に分かりやすくなったな」
ソフィアの頬が赤くなる。
「それで」
皇帝の表情が少しだけ真面目になった。
「進んだのか?」
「……」
「どうなのだ」
「秘密です」
「父にも?」
「はい」
「婚姻許可を出したのは誰だと思っている」
「お父様です」
「なら少しくらい教えろ」
「嫌です」
「ソフィア」
「でも」
少しだけ迷う。
「かなり」
「かなり?」
「進みました」
皇帝が目を細める。
「そうか」
「はい」
「……」
「何です?」
「いや」
皇帝は少し複雑そうな顔をした。
「嬉しいのだが、嬉しくない」
「なぜです?」
「父親だからだ」
「意味が分かりません」
「分からなくていい」
横にいる側近たちは、顔を逸らしながら必死に笑いを堪えている。
「それで」
ソフィアは少しだけ机へ身を乗り出した。
「ご用件は?」
「本当に急ぐな」
「カイが」
言いかける。
止まる。
皇帝の目が上がる。
「カイが?」
「……待っています」
皇帝が黙った。
「お父様?」
皇帝は天井を見上げ、深いため息を吐いた。
「分かった」
「何が?」
「用件を先に済ませる」
「ありがとうございます!」
「喜ぶな!」
とうとう側近から小さな笑い声が漏れた。
ソフィアは少し恥ずかしかった。
でも。
今は。
それどころではない。
戻りたい。
白銀宮へ。
カイが待っている。
そして。
あの言いかけた言葉の。
続きを。
聞きたい。
◇◇◇
白銀宮の私室。
カイは窓辺に立ち、庭園を眺めていた。
ソフィアが出てから、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに。
長く感じる。
会いたい。
ほんの少し前まで一緒にいたのに。
もう。
会いたい。
「……重症だな」
自分で言って。
少し笑う。
でも。
嫌ではない。
むしろ。
認めた今の方が。
ずっと楽だった。
「ソフィー」
小さく呼ぶ。
誰もいない。
それでも。
自然に。
「好きだ」
もう一度。
口にする。
今度は。
少し笑えた。
「戻ってきたら、ちゃんと言うから」
胸元へ手を置く。
そして。
それだけでは。
終わらせない。
自分が怖がっていたこと。
身分。
婚約者。
婚姻。
全部。
ソフィアと。
話す。
もう。
勝手に身を引かない。
勝手に諦めない。
彼女本人の選択を。
聞く。
「俺も」
右手を握る。
「選びたい」
これまで。
ソフィアを守ることばかり考えていた。
彼女の幸せを。
自分は外から守る。
それが騎士だと思っていた。
でも。
今は。
違う。
自分も。
その幸せの中へ。
入りたい。
「……欲張りだな」
そんな願いを持つことに。
まだ少し。
怖さはある。
けれど。
ソフィアは昨日、自分の身勝手ならもっと聞きたいと言った。
なら。
「じゃあ、言ってみるか」
カイは少しだけ笑った。
窓の外では、青空の下を春の風が抜けていく。
薄いカーテンがゆっくり揺れた。
扉はまだ開かない。
それでも。
カイは待つ。
今まで。
ずっと。
ソフィアを待たせてきた。
なら今度は。
自分が。
少しだけ。
待つ番だった。
婚姻式まで。
あと二月。
カイはようやく、自分の中ではっきりとソフィアへの恋を認めた。
けれど。
告げるだけでは終われない。
彼女が誰かへ嫁ぐことを、もう受け入れられない。
自分を選んでほしい。
傍にいてほしい。
そんな。
騎士としては身勝手で。
一人の男としては。
あまりにも自然な願いまで。
ようやく。
認め始めていた。
あとは。
ソフィアが戻ってきた時。
その全部を。
彼女の前で。
自分の言葉として。
伝えるだけだった。




