第14話 第三皇女様、他の男にそんな顔で笑わないでください
翌朝、カイは目を覚ました瞬間から、自分がどうしようもなく落ち着かないことを自覚していた。
窓の外はまだ薄明るくなり始めたばかりで、騎士団宿舎の廊下にもほとんど人の気配はない。いつもなら起床と同時に身体を起こし、軽く身体を伸ばしてから訓練の準備を始めるのだが、今日は寝台へ横になったまま、しばらく天井を見つめていた。
原因は、考えるまでもない。
昨日、ソフィアの私室で二人きりになり、自分から尋ねたのだ。
『もし俺がソフィーのことを好きだったら、困る?』
思い返しただけで顔が熱くなる。
「……よく言えたな、俺」
声にすると余計に恥ずかしかった。
しかも、それだけではない。
ソフィアから抱きついてもいいかと聞かれ、自分はそれを受け入れた。それどころか途中からは自分も抱き返し、最後には「離したくない」とまで口にしている。
カイは両手で顔を覆った。
「もう答え出てるんじゃないか?」
そんな言葉が、思わず口から漏れる。
普通の主君に、あんなことをするだろうか。
普通の友人に、離したくないと言うだろうか。
その人の婚約者へ嫉妬し、他の誰かに触れられることを嫌がり、本人から自分を選ぶと言われたら嬉しいと感じる。それが何を意味しているのか、もうかなり分かりやすいところまで来ている気がした。
むしろ、答えは目の前にある。
それなのに最後の一歩だけ、どうしても踏み出すことが怖かった。
好き。
その言葉を自分の感情へつけてしまった瞬間、もう騎士と主君という場所には戻れない。
もちろん昨日、前の距離へ戻りたいとは思わないと自分で言った。
だが、好きだと認めることは、それとは少し違う。
相手は第三皇女。
しかも婚約者がいる。
皇族。
対する自分は、平民で孤児。姓すら持っていない。
「……考えても仕方ないな」
カイはようやく身体を起こした。
右手首へ視線を落とす。
淡い空色の空雫石。その裏側には、ソフィーという名が刻まれている。
カイは指先で石へ軽く触れた。
「逃げないって言ったし」
昨日、約束した。
だから今日も考える。
怖くても、自分の気持ちからは逃げない。
◇◇◇
その日の午前、第四近衛騎士団の訓練場では、いつも以上に激しい木剣の音が響いていた。
「はっ!」
リナが鋭く踏み込み、横薙ぎの一撃を放つ。
カイはそれを正面から受けるのではなく、木剣を斜めに合わせて受け流した。そのまま相手の剣を滑らせるように外へ弾き、空いた胴へ踏み込む。
「速っ!」
「右足が先に出てる!」
「言われなくても分かってる!」
「分かってるなら直せ!」
リナは一歩引くと、すぐに体勢を立て直した。
再び何度か木剣が打ち合わされる。
最後は、カイの木剣がリナの肩へ軽く触れた。
「そこまで!」
審判役の声が響く。
リナは肩で息をしながら木剣を下ろし、少し不満そうにカイを見た。
「……今日、妙に強くない?」
「いつも通り」
「嘘。昨日より速い」
「そう?」
「そう。何かあった?」
「何でそうなる」
「昨日、姫様と二人きりだったんでしょ?」
カイの動きがほんの少しだけ止まった。
リナはすぐに気づいた。
「何かあったんだ」
「何もない」
「今の間で分かった」
「最近みんな観察力上がってない?」
「カイが分かりやすくなったんだよ」
リナは木剣を肩へ担ぎ、にやりと笑う。
「で?」
「何が」
「どこまで行った?」
「言わない」
「手?」
「いつも繋いでる」
さらりと答えたカイに、今度はリナが止まった。
「……それを普通に認めるようになったこと自体、かなりすごいんだけど」
「うるさい」
「肩寄せ?」
「……」
「お」
「何」
「その反応」
「何もない」
「抱きしめた?」
今度こそ、カイの動きが完全に止まった。
リナの目が大きくなる。
「え」
「……」
「え?」
「……」
「ちょっと待って」
リナが数歩近づいてくる。
「抱きしめたの?」
「声大きい!」
「本当に!?」
「だから声!」
周囲にいた騎士たちが何人か振り向いた。
カイの顔が一気に赤くなる。
「違う」
「何が?」
「最初はソフィーから」
「今、ソフィーって普通に言った!」
「あ」
「もうそこじゃない!」
リナは頭を抱えた。
「姫様から抱きついてきて」
「うん」
「カイは?」
カイは気まずそうに視線を逸らした。
「……抱き返した」
リナの手から木剣が落ちた。
乾いた音が地面へ響く。
「何してるんだよ」
「いや、今それどころじゃない」
「木剣拾えよ」
「カイ」
「何」
「もう好きでしょ」
あまりにも直球だった。
カイは黙る。
「好きでしょ」
「……」
「そこまでして、まだ分からないとか言う?」
カイは少し眉を寄せた。
以前なら否定した。
護衛だから。
七年一緒にいるから。
大切な主君だから。
そう言って。
でも今は。
「……かなり」
「うん」
「そうかもしれないとは思ってる」
リナが目を丸くした。
「認めた」
「まだ完全には」
「何がまだなの?」
「ちゃんと自分で納得したい」
カイは胸元へ軽く手を置く。
「周りに言われて、そうなんだって決めたくないんだ。俺自身が、これは好きなんだって思えるところまで考えたい」
リナの表情から、からかうような色が少し消えた。
「そっか」
「ああ」
「じゃあ、あんまり急かさない方がいいね」
「珍しい」
「私だって空気くらい読む」
「昨日まで散々聞いてきたくせに」
「昨日までは昨日」
「便利だな」
リナは少しだけ笑った。
「でも、姫様は嬉しかっただろうね」
「……泣いてた」
「やっぱり」
「俺のせいって言われた」
「間違ってないと思う」
「何で俺が悪い」
「七年分だからじゃない?」
「七年?」
また、その数字だった。
昨日もソフィアは『七年待っています』と口にした。
すぐに誤魔化されたが、明らかに何か意味がある。
カイが考え込むと、リナが「あ」と小さく声を漏らした。
「何?」
「何でもない」
「今の絶対何か知ってる顔だろ」
「知らない」
「リナ」
「団長が呼んでるんじゃない?」
「逃げるな」
「本当に呼んでる」
訓練場の端を見ると、マリアが腕を組んでこちらを睨んでいた。
「カイ!」
「本当だ」
「ほら」
「後で聞くからな」
「嫌」
「聞く」
「逃げようかな」
「追う」
「怖い」
二人が言い合っていると、マリアの声がもう一度飛んできた。
「いつまで遊んでいる!」
「今行きます!」
◇◇◇
「今日の午後、白銀宮へ来客がある」
訓練後。
詰所の奥にある机へ向かいながらマリアが告げると、カイは表情を少し引き締めた。
「誰です?」
「ヴァルター侯爵家の嫡男、レイフォード・フォン・ヴァルター」
「侯爵家?」
「ああ」
「何の用で姫様に?」
「婚姻式関係だ」
その一言に、胸の奥がほんの少し動く。
「婚姻式?」
「ヴァルター侯爵家は帝国西部の大領主だ。婚姻式には侯爵夫妻も出席する。その事前挨拶と、祝いの品についての相談らしい」
「本人が来るんですか?」
「ちょうど帝都へ来ているそうだ」
「なるほど」
仕事。
普通の来客。
そう理解した。
それなのに。
「何歳です?」
カイが尋ねると、マリアの眉が少し上がった。
「二十だったか」
「若いですね」
「ああ」
「婚約者は?」
マリアが止まった。
「いないはずだ」
「そうですか」
「カイ」
「何です?」
「なぜそこを聞いた?」
「警備上」
「婚約者の有無がどう警備に関係する?」
「……」
「答えろ」
「……何となく」
マリアの口元が少し上がった。
「嫉妬か?」
「団長まで!」
「昨日、自分で言ったそうだな」
「誰から聞いたんです?」
「リナ」
「早い!」
「今朝聞いた」
「絶対さっきですよね!」
マリアは声を抑えて笑った。
「安心しろ。レイフォードは評判の悪い男ではない」
「別に心配してません」
「容姿も整っている」
「聞いてません」
「剣も使える」
「だから?」
「女性人気も高い」
「……」
「黙るな」
「どうでもいいです」
声が少し低くなった。
マリアは完全に楽しんでいる。
「午後はお前が私室警護へ入れ」
「分かりました」
「来客中も室内だ」
「俺が?」
「ああ。姫様の専属騎士だからな」
専属。
今では。
その言葉すら少し違う響きを持つようになっていた。
「了解です」
「それから」
「まだ?」
「顔に出すな」
「何を」
「嫉妬」
「しません」
「そうか」
「絶対しません」
「分かった」
全然信じていない顔だった。
「何です、その顔」
「何でもない」
「またそれ!」
◇◇◇
午後。
白銀宮の私室では、カイがソフィアの斜め後方に立っていた。
今日はあくまで騎士としての護衛だ。
当然、手は繋がない。
愛称でも呼ばない。
ソフィアも第三皇女として完璧な姿勢でソファーに腰掛けていた。
淡い水色のドレス。
美しく整えられた銀髪。
澄んだ空色の瞳。
そして左手首には、昨日二人で受け取った夜空石の腕輪がつけられている。
袖口からほんの少し見えるだけ。
それなのに、カイは妙に嬉しかった。
ただ。
今は。
その向かいへ座っている男の方が気になった。
「本日は突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます、ソフィア殿下」
レイフォード・フォン・ヴァルター。
二十歳。
背はカイより少し高く、薄い金髪に深緑の瞳。整った顔立ちをしており、身なりも上品で、立ち居振る舞いには侯爵家の嫡男らしい洗練がある。
嫌味な雰囲気もない。
笑顔も自然。
なるほど。
女性人気が高いという話にも納得できる。
……納得したくはないが。
「こちらこそ。ヴァルター侯爵には日頃から帝国西部の統治に尽力いただいています。直接お話できる良い機会になりました」
ソフィアが微笑む。
皇女としての、公務用の笑顔。
カイにもそれくらい分かる。
分かっているのに。
胸の奥が少しだけざわついた。
「婚姻がお決まりになったと聞いた時には、帝都中が驚いたのではないでしょうか」
「そうでしょうか」
「殿下へ婚姻を申し込もうとしていた家は少なくありませんから」
レイフォードが穏やかに笑う。
「我が家にも、何件か相談が来ておりました」
「まあ」
ソフィアは少し困ったように微笑んだ。
「私自身は存じませんでした」
「殿下へ直接話を持ち込める者など、そう多くありません」
「そういうものなのでしょうね」
「私も」
レイフォードの笑みが少しだけ深くなる。
「もう少し早ければ、立候補していたかもしれません」
カイの眉がわずかに動いた。
ソフィアも少し驚いた様子を見せる。
「レイフォード様?」
「冗談です。もちろん、今さら他家の婚約へ横槍を入れるつもりなどありません」
「驚きました」
「申し訳ありません」
「もう」
ソフィアが柔らかく笑った。
友好的。
外交上、何の問題もない。
普通の会話。
なのに。
カイの胸は。
さっきより。
少しだけ。
面白くない。
部屋の反対側では、同じく警護に入っているマリアがちらりとカイを見ていた。
そして。
口元が少し上がる。
カイが睨むと。
マリアは何食わぬ顔で視線を逸らした。
「ところで」
レイフォードがソフィアの左手へ視線を向けた。
「その腕輪は、随分珍しい石ですね」
その瞬間。
カイの意識が一気にそちらへ向く。
「これですか?」
ソフィアが左手を少し持ち上げる。
「ええ」
「友人からいただいた、大切なものです」
友人。
カイの胸に少しだけ引っかかるものがあった。
今はお忍びではない。
恋人設定でもない。
自分は騎士。
公務中。
そう呼ぶのが普通だ。
分かっている。
それでも。
少しだけ。
物足りなかった。
「よくお似合いです」
「ありがとうございます」
「特にその夜空石。殿下の髪の色と対照的で、とても美しい」
カイの右手が無意識に握られる。
レイフォードは何も知らないまま続けた。
「贈り主は、よほど殿下をよく理解している方なのでしょう」
その問いに対し、ソフィアの目元がほんの少し柔らかくなった。
「はい」
声も。
少しだけ。
変わる。
「とても大切な人です」
カイの呼吸が一瞬止まった。
大切な人。
それは。
自分のこと。
分かっていても。
胸が強く鳴る。
「それは羨ましい」
レイフォードは少し笑った。
「殿下にそこまで大切に思われる方なら、一度お会いしてみたいものです」
「カイ」
突然。
ソフィアが呼んだ。
「はい」
カイはすぐに騎士として姿勢を正す。
「こちらへ」
「俺ですか?」
「はい」
公務中にもかかわらず、ソフィアは自然に手招きした。
カイが近づくと、彼女はほんの少し嬉しそうにレイフォードを見る。
「こちらが、今お話した腕輪を贈ってくれた人です」
「……姫様?」
カイの方が驚いた。
レイフォードも少し目を丸くする。
「あなたが」
「まあ……はい」
どう答えるべきか迷うカイの横で、ソフィアはさらに続けた。
「私もカイへ同じ形の腕輪を贈りました」
レイフォードの視線がカイの右手首へ落ちる。
袖口から覗く、淡い空色の空雫石。
「なるほど」
レイフォードの瞳に、少しだけ興味深そうな色が浮かんだ。
「お揃いですか」
「はい」
ソフィアは迷わない。
「互いに相手の石を選びました」
「随分仲がよろしいのですね」
その言葉に。
カイは少しだけ考えた。
以前なら。
護衛です。
たまたまです。
そう言って。
すぐに距離を作った。
でも。
今は。
「……長い付き合いなので」
それだけ答えた。
否定しない。
ソフィアが隣で少し嬉しそうに笑う。
「七年です」
さらに付け加えた。
「七年」
レイフォードは少し驚いたように二人を見比べた。
「なるほど」
何かを察したようにも見えた。
だが。
何も言わない。
「殿下にこれほど近く仕える騎士がいるのであれば、婚約者殿も安心でしょう」
「そうですね」
ソフィアは微笑んだ。
「カイ以上に信頼できる人はいません」
また。
カイの胸が鳴る。
「それは随分高い評価だ」
レイフォードが笑う。
「足りないくらいです」
「姫様」
「事実です」
ソフィアは平然としている。
対するカイは。
少しだけ。
頬が熱かった。
背後にいるマリアが。
絶対に笑っている。
振り向かなくても。
分かった。
◇◇◇
来客の話は、その後もしばらく続いた。
婚姻式での祝辞。
西部から贈られる予定の織物。
ヴァルター侯爵夫妻の帝都到着予定。
どれも完全に仕事の話だった。
それなのに。
カイは途中から。
別のところばかり。
気になっていた。
レイフォードが話すたびに、ソフィアが笑う。
公務用。
分かっている。
それでも嫌だった。
さらにレイフォードは、何度かソフィアを褒めた。
今日のドレスが似合っている。
婚姻相手が羨ましい。
婚姻式では帝国一美しい花嫁になるだろう。
どれも貴族としての社交辞令。
分かっている。
でも。
嫌。
カイの表情は、いつの間にか普段以上に硬くなっていた。
ソフィアは何度かちらりとこちらを見ている。
そして。
どういうわけか。
少し嬉しそうだった。
「では、本日はこれで失礼いたします」
一刻ほどして、レイフォードが立ち上がった。
ソフィアも席を立つ。
「本日はありがとうございました」
「こちらこそ。改めて、婚姻おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「殿下の幸せを心より願っております」
「嬉しく思います」
ソフィアが最後にまた微笑む。
カイは。
やっぱり。
面白くなかった。
「カイ殿」
「はい」
突然呼ばれ、すぐにレイフォードを見る。
「殿下をよろしくお願いします」
「もちろんです」
ほとんど反射的に答えた。
声は。
自分でも分かるほど。
少し強かった。
レイフォードがわずかに目を細める。
「あなたなら安心でしょうね」
「……」
「では」
レイフォードは一礼し、部屋を出た。
マリアとエマ、それに侍女たちも見送りのため一緒に退出する。
扉が閉まる。
部屋の中へ。
静かな空気が戻った。
残ったのは。
カイと。
ソフィア。
二人だけ。
「……」
「……」
「カイ」
「何です?」
まだ騎士口調。
ソフィアはすぐに気づいた。
「皆、もう外へ出ました」
「……」
「二人きりです」
カイは少しだけ目を逸らした。
「分かってるよ、ソフィー」
いつもより少しぶっきらぼうな声。
ソフィアの口元がわずかに緩む。
「機嫌が悪いですね」
「悪くない」
「悪いです」
「悪くない」
「分かりやすい人が好きだと言いましたよね?」
そこを持ち出されると弱い。
カイは少し黙ったあと。
「……少し」
「少し?」
「面白くなかった」
ソフィアはすぐにカイの近くまで来ると、隣へ腰掛けた。
「何がです?」
「分かってるだろ」
「聞きたいです」
「絶対分かってる」
「それでもです」
「大切だから?」
「はい」
迷いなく答えられ。
カイは小さくため息を吐いた。
「レイフォード様」
「はい」
「ソフィーのこと褒めすぎ」
ソフィアの目が大きくなる。
「それから」
「はい」
「笑いかけすぎ」
「レイフォード様が?」
「両方」
「私も?」
「うん」
カイの声が少し低くなる。
「ソフィーも」
ソフィアの胸が大きく鳴った。
「公務です」
「分かってる」
「社交辞令です」
「分かってる」
「なら」
「分かってても嫌だった」
カイははっきり言った。
ソフィアが完全に止まる。
「……嫌?」
「ああ」
「私が、他の男性へ笑うことが?」
「うん」
「どうして?」
昨日。
今日。
胸の中で動いていたもの。
全部。
つながる。
今なら。
少なくとも。
これだけは。
言える。
「嫉妬」
もう疑問ではない。
カイはソフィアを見た。
「多分じゃなくて、嫉妬した」
ソフィアの目がすぐに潤む。
「また泣く?」
「今日は我慢します」
「本当に?」
「無理かもしれません」
「どっちだよ」
二人で少し笑う。
でも。
ソフィアの嬉しさは。
もう隠せていなかった。
「カイ」
「何?」
「昨日より、分かりました?」
「何が?」
「自分の気持ちです」
カイは少し黙った。
今日。
訓練場でも。
考えた。
そして。
目の前で。
別の男が。
ソフィアと話し。
笑いかけ。
褒める。
それが。
嫌だった。
ただ嫌なのではない。
自分だけに。
あの笑顔を向けてほしい。
そこまで。
思った。
「……少し」
「どのくらい?」
「かなり」
ソフィアの息が止まる。
「でも」
「はい」
「まだ言わない」
「何を?」
「分かってるだろ」
「聞きたいです」
「今日は駄目」
「昨日は、好きだったら困るかまで言ったのに?」
「それ以上だから怖いんだよ」
言ってから。
カイ自身が止まった。
ソフィアも止まる。
「それ以上?」
「あ」
「カイ」
「今のなし」
「駄目です」
「ソフィー」
「それ以上とは?」
「言わない」
「カイ」
「絶対言わない」
ソフィアはしばらくカイを見つめていたが、やがて少しだけ表情を和らげた。
「では」
「何?」
「手を繋いでください」
カイは思わず瞬きをする。
「話変わった?」
「変えてあげました」
「珍しい」
「その代わり」
「何?」
「カイから」
ソフィアは手を差し出さなかった。
膝の上へ置いたまま。
待つ。
カイはその様子を見て、少しだけ笑った。
「分かったよ」
自分から右手を伸ばす。
ソフィアの左手を取る。
二つの腕輪が。
すぐ隣に並ぶ。
そして。
指を絡める。
「これで?」
「はい」
ソフィアは嬉しそうに微笑むと、少しだけ身体を寄せた。
「カイ」
「何?」
「私は、レイフォード様に何を言われても何も思っていません」
「分かってる」
「本当に?」
「頭では」
「心は?」
「嫌」
即答だった。
ソフィアが笑う。
「どうして笑う」
「嬉しいからです」
「嫉妬されて?」
「はい」
「前も言ってたな」
「何度でも言います」
ソフィアは繋いだ手を少し強く握る。
「カイが、私を誰にも渡したくないと思ってくれるのが嬉しいです」
カイの胸が強く鳴った。
「……誰にも渡したくない」
その言葉を、自分で繰り返す。
そして。
ソフィアを見る。
「俺、多分」
「はい」
「そう思ってる」
ソフィアの目から。
一粒。
涙が落ちた。
「泣いた!」
「無理でした!」
「さっき我慢するって言っただろ!」
「カイが悪いです!」
「また俺!」
「今日もです!」
ソフィアは笑いながら泣いていた。
カイは困ったような顔をする。
でも。
繋いだ右手は離さない。
むしろ。
空いていた左手を伸ばし。
ソフィアの頬を流れた涙を。
指先で。
そっと拭った。
「本当に最近よく泣くな」
「誰のせいですか」
「俺らしい」
「はい」
「ごめん」
「謝らないでください」
カイは少しだけ笑う。
「じゃあ、泣かせてもいい?」
「嬉しい涙なら」
ソフィアも泣きながら笑った。
「何度でも」
カイはその笑顔を見る。
さっき。
レイフォードへ向けていた笑顔とは。
違う。
公務用ではない。
今。
自分だけへ。
向けている。
柔らかく。
近くて。
無防備な。
笑顔。
そして。
カイの中で。
また。
答えへ近づく。
「……ソフィー」
「はい」
「やっぱり、その顔」
「顔?」
「他の男に見せないで」
ソフィアが完全に止まった。
「……どの顔です?」
「今の」
「今?」
「ああ」
恥ずかしい。
でも。
逃げない。
カイは少しだけ視線を逸らしながら続けた。
「俺の前で笑ってる時の顔」
ソフィアの瞳が大きくなる。
「それ」
カイは小さく息を吐く。
「俺だけがいい」
長い沈黙が落ちた。
ソフィアは何も言わない。
あまりに何も言わないので。
今度はカイの方が不安になる。
「ソフィー?」
「……」
「おい」
「……」
「大丈夫?」
「カイ」
「何?」
「抱きついていいですか?」
「また?」
「今すぐ」
カイは少しだけ苦笑した。
でも。
もう。
拒む理由を探さなかった。
「……いいよ」
次の瞬間。
ソフィアが胸へ飛び込んできた。
「うわっ」
勢いに押されて少しだけ身体が後ろへ揺れる。
でも。
すぐに支える。
「強いって!」
「無理です!」
「何が!」
「嬉しすぎます!」
ソフィアは両腕をカイの背中へ回し、胸元へ顔を埋めた。
「カイ」
「何?」
「今の言葉」
「忘れて」
「絶対に嫌です」
「知ってた」
「一生覚えています」
「また?」
「はい」
カイは笑う。
そして。
今日は。
昨日よりも。
早かった。
ほとんど迷わず。
自分から両腕をソフィアの背中へ回す。
抱きしめる。
ソフィアの身体が少し震えた。
「カイ」
「何?」
「また、自分から抱きしめてくれました」
「うん」
「どうして?」
昨日も。
同じことを聞かれた。
昨日は。
『俺もこうしたいと思ったから』
そう答えた。
今日は。
もう少し。
違う。
「ソフィーだから」
カイが答える。
ソフィアの呼吸が止まった。
「……」
「何?」
「もう」
「何?」
「今日こそ本当に死ぬかもしれません」
「死ぬな」
「カイが生かしてください」
「どうやって」
「このままで」
「抱いてろって?」
「はい」
カイは小さく笑った。
「仕方ないな」
少しだけ。
腕へ力を込める。
「これで?」
「はい」
ソフィアは目を閉じた。
「幸せです」
カイの胸が。
少し。
熱くなる。
「俺も」
自然に。
言葉が出た。
ソフィアの身体がまた止まる。
「……今」
「何も言ってない」
「俺もって」
「言ってない」
「言いました」
「忘れて」
「嫌です」
「だよな」
二人で笑った。
そして。
どちらも。
まだ。
離れなかった。
◇◇◇
しばらくして。
ソフィアはカイの胸元へ顔を寄せたまま、小さな声で尋ねた。
「カイ」
「何?」
「もし」
「また仮定?」
「はい」
「最近多いな」
「大切なので」
「どうぞ」
「もし、私がレイフォード様から正式に求婚されたら」
カイの腕が止まった。
少し前なら。
護衛として。
立場として。
そんな話を考えたかもしれない。
でも。
今は。
別だった。
「……断って」
ほとんど反射的に答えた。
ソフィアが顔を上げる。
「え?」
「断ってほしい」
「理由は?」
「聞く?」
「聞きます」
「絶対分かってるだろ」
「それでもです」
カイは少し苦笑した。
でも。
今なら。
言える。
「俺が嫌だから」
「私が他の男性へ嫁ぐのが?」
「ああ」
「では、今の婚約者は?」
そこで。
また。
現実。
壁。
それが戻る。
でも。
今度は。
逃げなかった。
「同じ」
カイは答える。
「今いる婚約者も、ソフィーと結婚するって考えたら嫌だ」
もう。
そこは。
はっきり。
言える。
「だから」
カイは一度だけ言葉を止めた。
「その人には悪いけど」
「はい」
「俺、婚姻式を心から祝えないかもしれない」
ソフィアの表情が変わる。
カイの声には。
嬉しさではなく。
苦しさも。
混じっていた。
「姫様の騎士としては、祝わないといけないと思ってる」
「……はい」
「ソフィーに幸せになってほしい気持ちも嘘じゃない」
「はい」
「でも」
カイは目を伏せる。
「俺じゃない誰かと幸せになるのは、嫌だ」
ソフィアの目から。
また。
涙が落ちた。
「ソフィー?」
「……はい」
「何でまた泣く」
「嬉しいからです」
「こんな話で?」
「はい」
「俺、かなり身勝手なこと言ってるぞ」
「もっと言ってください」
「何で」
「聞きたいです」
ソフィアは顔を上げた。
涙を流している。
でも。
笑っている。
「カイの身勝手なら」
柔らかな声。
「私はいくらでも聞きたいです」
カイはその表情を見る。
また。
胸が鳴る。
「本当に、俺に甘いな」
「カイにだけです」
即答だった。
今度は。
カイが。
少し黙る。
「……何です?」
「いや」
カイは小さく笑った。
「嬉しい」
ソフィアはまた。
泣き笑いした。
◇◇◇
レイフォードの来訪が終わってからかなり時間が経ち、窓の外の陽が傾き始めても、カイはすぐには白銀宮を離れなかった。
ソフィアと一緒に白花茶を飲み、昼間のことを何度もからかわれた。
「ソフィー」
「はい」
「もう聞くな」
「何を?」
「嫉妬したか」
「でも大切です」
「五回聞いた」
「あと一回」
「何で六回」
「区切りがいいので」
「五の方が区切りいいだろ」
「私には六です」
「意味分からない」
二人で笑う。
その時間は。
穏やかだった。
そして。
あまりにも。
近かった。
以前の自分たちでは。
あり得ないくらいに。
「カイ」
「何?」
「今日は、帰りたくないですか?」
聞かれたカイは、窓の外へ少しだけ視線を向けた。
夕方。
まだ勤務も残っている。
「帰らないと団長に怒られる」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
カイはソフィアを見る。
「本音?」
「はい」
少しだけ。
迷う。
でも。
「もう少し、ここにいたい」
素直に答えた。
ソフィアの目元が柔らかくなる。
「私もです」
「でも帰る」
「はい」
「仕事だから」
「分かっています」
カイはカップを置いた。
「明日」
「はい」
「また来る」
ソフィアの目が大きくなる。
「私が呼ばなくても?」
「ああ」
「本当に?」
「うん」
「用がなくても?」
そこまで聞かれ。
カイは。
少し。
照れた。
でも。
言った。
「会いたいから」
その瞬間。
二人とも。
止まった。
「……」
「……」
「カイ」
「今のなし」
「駄目です」
「忘れて」
「絶対に嫌です」
「分かってた」
カイは片手で顔を覆った。
「最近、俺も大分言うようになったな」
「とても良いことです」
「ソフィー基準だろ」
「はい」
「即答」
ソフィアは楽しそうに笑った。
「明日、待っています」
「何回団長に確認する?」
「五回」
「増やすな」
「では四回」
「一回でいい」
「努力します」
「そこ努力するところ?」
また。
二人で笑った。
◇◇◇
白銀宮から詰所へ戻る途中。
カイは一人、夕暮れの回廊を歩いていた。
窓から差し込む橙色の光が長い影を床へ伸ばしている。
歩きながら。
また。
右手首の腕輪を見る。
今日。
自分は。
また。
色々言った。
レイフォードへ嫉妬した。
ソフィアが他の男へ笑うのが嫌だった。
自分だけに、その笑顔を向けてほしいと思った。
抱きしめて。
『ソフィーだから』
そう言った。
さらに。
『俺じゃない誰かと幸せになるのは嫌だ』
そこまで口にした。
そして最後には。
『会いたいから』
明日も来る理由まで。
自分で言った。
カイは回廊の途中で歩みを止めた。
窓の外には、赤く染まった夕空が広がっている。
「これ……もう」
自分の胸元へ手を当てる。
鼓動。
少し。
速い。
ソフィアの顔が浮かぶ。
笑う顔。
泣く顔。
怒る顔。
拗ねる顔。
自分と手を繋ぐ姿。
腕の中へ飛び込んでくる姿。
抱きしめた時の温もり。
全部。
大切。
全部。
自分だけが見ていたい。
その感情へ。
今。
一番近い言葉は。
「好き……」
誰にも聞かれない声で。
ほんの少し。
口にしてみる。
胸が。
強く。
鳴った。
嫌ではない。
むしろ。
しっくりくる。
「……そっか」
カイは少しだけ笑った。
でも。
すぐ。
現実が戻る。
身分。
婚約者。
それを越えられるかは。
まだ。
分からない。
だから。
今日は。
まだ。
ソフィア本人には言えない。
「明日」
カイは小さく呟いた。
「ちゃんと考えよう」
その声は。
昨日より。
ずっと。
迷いが少なかった。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮の私室では、ソフィアがソファーへ座ったまま、まだ幸せそうに頬を緩めていた。
エマが白花茶を入れ直しながら、その様子を横目で見る。
「姫様」
「……はい」
「本日も随分と進展があったようですね」
「エマ」
「はい」
「カイが」
ソフィアは自分の胸元へそっと手を置いた。
「私が他の男性へ笑うのが嫌だと」
「まあ」
「レイフォード様へ嫉妬したと」
「それはかなり大きな進展ですね」
「はい」
ソフィアの頬が赤くなる。
「さらに、私が誰かと幸せになるのが嫌だと」
エマの手が止まった。
「そこまで?」
「はい」
「それで姫様は?」
「泣きました」
「でしょうね」
「それから」
「まだあるのですか?」
「カイが、明日も来ると」
「はい」
「会いたいから、と」
今度こそ。
エマの動きが完全に止まった。
「……姫様」
「はい」
「もう本当にあと少しですね」
「はい」
ソフィアは左手首の夜空石へ視線を落とした。
「でも、急ぎません」
「分かっております」
「カイが」
ソフィアは柔らかく笑う。
「自分で好きだと言うまで、待ちます」
「何年でも?」
エマが少しだけからかうように聞く。
ソフィアは真面目に考えた。
「……できれば明日がいいです」
エマが吹き出した。
「姫様」
「分かっています」
「急がないのでは?」
「急ぎません」
「はい」
「でも期待はします」
「それは自由でございます」
「はい」
ソフィアも笑った。
婚姻式まで。
あと二月。
カイはまだ。
本人の前で。
好きとは言っていない。
けれど。
他の男へ笑ってほしくない。
自分だけに、その笑顔を向けてほしい。
誰かへ嫁ぐのは嫌だ。
自分ではない誰かと幸せになるのも嫌だ。
そして。
明日も。
会いたい。
そこまで。
自分の口で言った。
さらに。
カイ自身だけがまだ知らないところで。
その日の夕暮れ。
初めて。
誰もいない場所で。
自分の感情へ。
小さく。
「好き」
という名前をつけていた。
答えはもう。
手を伸ばせば届くほど近い。
あとは。
その言葉を。
ソフィアの前で。
もう一度。
口にするだけだった。




