↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『第三皇女様のお忍び婚約準備』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
14/32

第14話 第三皇女様、他の男にそんな顔で笑わないでください


 翌朝、カイは目を覚ました瞬間から、自分がどうしようもなく落ち着かないことを自覚していた。


 窓の外はまだ薄明るくなり始めたばかりで、騎士団宿舎の廊下にもほとんど人の気配はない。いつもなら起床と同時に身体を起こし、軽く身体を伸ばしてから訓練の準備を始めるのだが、今日は寝台へ横になったまま、しばらく天井を見つめていた。


 原因は、考えるまでもない。


 昨日、ソフィアの私室で二人きりになり、自分から尋ねたのだ。


『もし俺がソフィーのことを好きだったら、困る?』


 思い返しただけで顔が熱くなる。


「……よく言えたな、俺」


 声にすると余計に恥ずかしかった。


 しかも、それだけではない。


 ソフィアから抱きついてもいいかと聞かれ、自分はそれを受け入れた。それどころか途中からは自分も抱き返し、最後には「離したくない」とまで口にしている。


 カイは両手で顔を覆った。


「もう答え出てるんじゃないか?」


 そんな言葉が、思わず口から漏れる。


 普通の主君に、あんなことをするだろうか。


 普通の友人に、離したくないと言うだろうか。


 その人の婚約者へ嫉妬し、他の誰かに触れられることを嫌がり、本人から自分を選ぶと言われたら嬉しいと感じる。それが何を意味しているのか、もうかなり分かりやすいところまで来ている気がした。


 むしろ、答えは目の前にある。


 それなのに最後の一歩だけ、どうしても踏み出すことが怖かった。


 好き。


 その言葉を自分の感情へつけてしまった瞬間、もう騎士と主君という場所には戻れない。


 もちろん昨日、前の距離へ戻りたいとは思わないと自分で言った。


 だが、好きだと認めることは、それとは少し違う。


 相手は第三皇女。


 しかも婚約者がいる。


 皇族。


 対する自分は、平民で孤児。姓すら持っていない。


「……考えても仕方ないな」


 カイはようやく身体を起こした。


 右手首へ視線を落とす。


 淡い空色の空雫石。その裏側には、ソフィーという名が刻まれている。


 カイは指先で石へ軽く触れた。


「逃げないって言ったし」


 昨日、約束した。


 だから今日も考える。


 怖くても、自分の気持ちからは逃げない。


          ◇◇◇


 その日の午前、第四近衛騎士団の訓練場では、いつも以上に激しい木剣の音が響いていた。


「はっ!」


 リナが鋭く踏み込み、横薙ぎの一撃を放つ。


 カイはそれを正面から受けるのではなく、木剣を斜めに合わせて受け流した。そのまま相手の剣を滑らせるように外へ弾き、空いた胴へ踏み込む。


「速っ!」


「右足が先に出てる!」


「言われなくても分かってる!」


「分かってるなら直せ!」


 リナは一歩引くと、すぐに体勢を立て直した。


 再び何度か木剣が打ち合わされる。


 最後は、カイの木剣がリナの肩へ軽く触れた。


「そこまで!」


 審判役の声が響く。


 リナは肩で息をしながら木剣を下ろし、少し不満そうにカイを見た。


「……今日、妙に強くない?」


「いつも通り」


「嘘。昨日より速い」


「そう?」


「そう。何かあった?」


「何でそうなる」


「昨日、姫様と二人きりだったんでしょ?」


 カイの動きがほんの少しだけ止まった。


 リナはすぐに気づいた。


「何かあったんだ」


「何もない」


「今の間で分かった」


「最近みんな観察力上がってない?」


「カイが分かりやすくなったんだよ」


 リナは木剣を肩へ担ぎ、にやりと笑う。


「で?」


「何が」


「どこまで行った?」


「言わない」


「手?」


「いつも繋いでる」


 さらりと答えたカイに、今度はリナが止まった。


「……それを普通に認めるようになったこと自体、かなりすごいんだけど」


「うるさい」


「肩寄せ?」


「……」


「お」


「何」


「その反応」


「何もない」


「抱きしめた?」


 今度こそ、カイの動きが完全に止まった。


 リナの目が大きくなる。


「え」


「……」


「え?」


「……」


「ちょっと待って」


 リナが数歩近づいてくる。


「抱きしめたの?」


「声大きい!」


「本当に!?」


「だから声!」


 周囲にいた騎士たちが何人か振り向いた。


 カイの顔が一気に赤くなる。


「違う」


「何が?」


「最初はソフィーから」


「今、ソフィーって普通に言った!」


「あ」


「もうそこじゃない!」


 リナは頭を抱えた。


「姫様から抱きついてきて」


「うん」


「カイは?」


 カイは気まずそうに視線を逸らした。


「……抱き返した」


 リナの手から木剣が落ちた。


 乾いた音が地面へ響く。


「何してるんだよ」


「いや、今それどころじゃない」


「木剣拾えよ」


「カイ」


「何」


「もう好きでしょ」


 あまりにも直球だった。


 カイは黙る。


「好きでしょ」


「……」


「そこまでして、まだ分からないとか言う?」


 カイは少し眉を寄せた。


 以前なら否定した。


 護衛だから。


 七年一緒にいるから。


 大切な主君だから。


 そう言って。


 でも今は。


「……かなり」


「うん」


「そうかもしれないとは思ってる」


 リナが目を丸くした。


「認めた」


「まだ完全には」


「何がまだなの?」


「ちゃんと自分で納得したい」


 カイは胸元へ軽く手を置く。


「周りに言われて、そうなんだって決めたくないんだ。俺自身が、これは好きなんだって思えるところまで考えたい」


 リナの表情から、からかうような色が少し消えた。


「そっか」


「ああ」


「じゃあ、あんまり急かさない方がいいね」


「珍しい」


「私だって空気くらい読む」


「昨日まで散々聞いてきたくせに」


「昨日までは昨日」


「便利だな」


 リナは少しだけ笑った。


「でも、姫様は嬉しかっただろうね」


「……泣いてた」


「やっぱり」


「俺のせいって言われた」


「間違ってないと思う」


「何で俺が悪い」


「七年分だからじゃない?」


「七年?」


 また、その数字だった。


 昨日もソフィアは『七年待っています』と口にした。


 すぐに誤魔化されたが、明らかに何か意味がある。


 カイが考え込むと、リナが「あ」と小さく声を漏らした。


「何?」


「何でもない」


「今の絶対何か知ってる顔だろ」


「知らない」


「リナ」


「団長が呼んでるんじゃない?」


「逃げるな」


「本当に呼んでる」


 訓練場の端を見ると、マリアが腕を組んでこちらを睨んでいた。


「カイ!」


「本当だ」


「ほら」


「後で聞くからな」


「嫌」


「聞く」


「逃げようかな」


「追う」


「怖い」


 二人が言い合っていると、マリアの声がもう一度飛んできた。


「いつまで遊んでいる!」


「今行きます!」


          ◇◇◇


「今日の午後、白銀宮へ来客がある」


 訓練後。


 詰所の奥にある机へ向かいながらマリアが告げると、カイは表情を少し引き締めた。


「誰です?」


「ヴァルター侯爵家の嫡男、レイフォード・フォン・ヴァルター」


「侯爵家?」


「ああ」


「何の用で姫様に?」


「婚姻式関係だ」


 その一言に、胸の奥がほんの少し動く。


「婚姻式?」


「ヴァルター侯爵家は帝国西部の大領主だ。婚姻式には侯爵夫妻も出席する。その事前挨拶と、祝いの品についての相談らしい」


「本人が来るんですか?」


「ちょうど帝都へ来ているそうだ」


「なるほど」


 仕事。


 普通の来客。


 そう理解した。


 それなのに。


「何歳です?」


 カイが尋ねると、マリアの眉が少し上がった。


「二十だったか」


「若いですね」


「ああ」


「婚約者は?」


 マリアが止まった。


「いないはずだ」


「そうですか」


「カイ」


「何です?」


「なぜそこを聞いた?」


「警備上」


「婚約者の有無がどう警備に関係する?」


「……」


「答えろ」


「……何となく」


 マリアの口元が少し上がった。


「嫉妬か?」


「団長まで!」


「昨日、自分で言ったそうだな」


「誰から聞いたんです?」


「リナ」


「早い!」


「今朝聞いた」


「絶対さっきですよね!」


 マリアは声を抑えて笑った。


「安心しろ。レイフォードは評判の悪い男ではない」


「別に心配してません」


「容姿も整っている」


「聞いてません」


「剣も使える」


「だから?」


「女性人気も高い」


「……」


「黙るな」


「どうでもいいです」


 声が少し低くなった。


 マリアは完全に楽しんでいる。


「午後はお前が私室警護へ入れ」


「分かりました」


「来客中も室内だ」


「俺が?」


「ああ。姫様の専属騎士だからな」


 専属。


 今では。


 その言葉すら少し違う響きを持つようになっていた。


「了解です」


「それから」


「まだ?」


「顔に出すな」


「何を」


「嫉妬」


「しません」


「そうか」


「絶対しません」


「分かった」


 全然信じていない顔だった。


「何です、その顔」


「何でもない」


「またそれ!」


          ◇◇◇


 午後。


 白銀宮の私室では、カイがソフィアの斜め後方に立っていた。


 今日はあくまで騎士としての護衛だ。


 当然、手は繋がない。


 愛称でも呼ばない。


 ソフィアも第三皇女として完璧な姿勢でソファーに腰掛けていた。


 淡い水色のドレス。


 美しく整えられた銀髪。


 澄んだ空色の瞳。


 そして左手首には、昨日二人で受け取った夜空石の腕輪がつけられている。


 袖口からほんの少し見えるだけ。


 それなのに、カイは妙に嬉しかった。


 ただ。


 今は。


 その向かいへ座っている男の方が気になった。


「本日は突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます、ソフィア殿下」


 レイフォード・フォン・ヴァルター。


 二十歳。


 背はカイより少し高く、薄い金髪に深緑の瞳。整った顔立ちをしており、身なりも上品で、立ち居振る舞いには侯爵家の嫡男らしい洗練がある。


 嫌味な雰囲気もない。


 笑顔も自然。


 なるほど。


 女性人気が高いという話にも納得できる。


 ……納得したくはないが。


「こちらこそ。ヴァルター侯爵には日頃から帝国西部の統治に尽力いただいています。直接お話できる良い機会になりました」


 ソフィアが微笑む。


 皇女としての、公務用の笑顔。


 カイにもそれくらい分かる。


 分かっているのに。


 胸の奥が少しだけざわついた。


「婚姻がお決まりになったと聞いた時には、帝都中が驚いたのではないでしょうか」


「そうでしょうか」


「殿下へ婚姻を申し込もうとしていた家は少なくありませんから」


 レイフォードが穏やかに笑う。


「我が家にも、何件か相談が来ておりました」


「まあ」


 ソフィアは少し困ったように微笑んだ。


「私自身は存じませんでした」


「殿下へ直接話を持ち込める者など、そう多くありません」


「そういうものなのでしょうね」


「私も」


 レイフォードの笑みが少しだけ深くなる。


「もう少し早ければ、立候補していたかもしれません」


 カイの眉がわずかに動いた。


 ソフィアも少し驚いた様子を見せる。


「レイフォード様?」


「冗談です。もちろん、今さら他家の婚約へ横槍を入れるつもりなどありません」


「驚きました」


「申し訳ありません」


「もう」


 ソフィアが柔らかく笑った。


 友好的。


 外交上、何の問題もない。


 普通の会話。


 なのに。


 カイの胸は。


 さっきより。


 少しだけ。


 面白くない。


 部屋の反対側では、同じく警護に入っているマリアがちらりとカイを見ていた。


 そして。


 口元が少し上がる。


 カイが睨むと。


 マリアは何食わぬ顔で視線を逸らした。


「ところで」


 レイフォードがソフィアの左手へ視線を向けた。


「その腕輪は、随分珍しい石ですね」


 その瞬間。


 カイの意識が一気にそちらへ向く。


「これですか?」


 ソフィアが左手を少し持ち上げる。


「ええ」


「友人からいただいた、大切なものです」


 友人。


 カイの胸に少しだけ引っかかるものがあった。


 今はお忍びではない。


 恋人設定でもない。


 自分は騎士。


 公務中。


 そう呼ぶのが普通だ。


 分かっている。


 それでも。


 少しだけ。


 物足りなかった。


「よくお似合いです」


「ありがとうございます」


「特にその夜空石。殿下の髪の色と対照的で、とても美しい」


 カイの右手が無意識に握られる。


 レイフォードは何も知らないまま続けた。


「贈り主は、よほど殿下をよく理解している方なのでしょう」


 その問いに対し、ソフィアの目元がほんの少し柔らかくなった。


「はい」


 声も。


 少しだけ。


 変わる。


「とても大切な人です」


 カイの呼吸が一瞬止まった。


 大切な人。


 それは。


 自分のこと。


 分かっていても。


 胸が強く鳴る。


「それは羨ましい」


 レイフォードは少し笑った。


「殿下にそこまで大切に思われる方なら、一度お会いしてみたいものです」


「カイ」


 突然。


 ソフィアが呼んだ。


「はい」


 カイはすぐに騎士として姿勢を正す。


「こちらへ」


「俺ですか?」


「はい」


 公務中にもかかわらず、ソフィアは自然に手招きした。


 カイが近づくと、彼女はほんの少し嬉しそうにレイフォードを見る。


「こちらが、今お話した腕輪を贈ってくれた人です」


「……姫様?」


 カイの方が驚いた。


 レイフォードも少し目を丸くする。


「あなたが」


「まあ……はい」


 どう答えるべきか迷うカイの横で、ソフィアはさらに続けた。


「私もカイへ同じ形の腕輪を贈りました」


 レイフォードの視線がカイの右手首へ落ちる。


 袖口から覗く、淡い空色の空雫石。


「なるほど」


 レイフォードの瞳に、少しだけ興味深そうな色が浮かんだ。


「お揃いですか」


「はい」


 ソフィアは迷わない。


「互いに相手の石を選びました」


「随分仲がよろしいのですね」


 その言葉に。


 カイは少しだけ考えた。


 以前なら。


 護衛です。


 たまたまです。


 そう言って。


 すぐに距離を作った。


 でも。


 今は。


「……長い付き合いなので」


 それだけ答えた。


 否定しない。


 ソフィアが隣で少し嬉しそうに笑う。


「七年です」


 さらに付け加えた。


「七年」


 レイフォードは少し驚いたように二人を見比べた。


「なるほど」


 何かを察したようにも見えた。


 だが。


 何も言わない。


「殿下にこれほど近く仕える騎士がいるのであれば、婚約者殿も安心でしょう」


「そうですね」


 ソフィアは微笑んだ。


「カイ以上に信頼できる人はいません」


 また。


 カイの胸が鳴る。


「それは随分高い評価だ」


 レイフォードが笑う。


「足りないくらいです」


「姫様」


「事実です」


 ソフィアは平然としている。


 対するカイは。


 少しだけ。


 頬が熱かった。


 背後にいるマリアが。


 絶対に笑っている。


 振り向かなくても。


 分かった。


          ◇◇◇


 来客の話は、その後もしばらく続いた。


 婚姻式での祝辞。


 西部から贈られる予定の織物。


 ヴァルター侯爵夫妻の帝都到着予定。


 どれも完全に仕事の話だった。


 それなのに。


 カイは途中から。


 別のところばかり。


 気になっていた。


 レイフォードが話すたびに、ソフィアが笑う。


 公務用。


 分かっている。


 それでも嫌だった。


 さらにレイフォードは、何度かソフィアを褒めた。


 今日のドレスが似合っている。


 婚姻相手が羨ましい。


 婚姻式では帝国一美しい花嫁になるだろう。


 どれも貴族としての社交辞令。


 分かっている。


 でも。


 嫌。


 カイの表情は、いつの間にか普段以上に硬くなっていた。


 ソフィアは何度かちらりとこちらを見ている。


 そして。


 どういうわけか。


 少し嬉しそうだった。


「では、本日はこれで失礼いたします」


 一刻ほどして、レイフォードが立ち上がった。


 ソフィアも席を立つ。


「本日はありがとうございました」


「こちらこそ。改めて、婚姻おめでとうございます」


「ありがとうございます」


「殿下の幸せを心より願っております」


「嬉しく思います」


 ソフィアが最後にまた微笑む。


 カイは。


 やっぱり。


 面白くなかった。


「カイ殿」


「はい」


 突然呼ばれ、すぐにレイフォードを見る。


「殿下をよろしくお願いします」


「もちろんです」


 ほとんど反射的に答えた。


 声は。


 自分でも分かるほど。


 少し強かった。


 レイフォードがわずかに目を細める。


「あなたなら安心でしょうね」


「……」


「では」


 レイフォードは一礼し、部屋を出た。


 マリアとエマ、それに侍女たちも見送りのため一緒に退出する。


 扉が閉まる。


 部屋の中へ。


 静かな空気が戻った。


 残ったのは。


 カイと。


 ソフィア。


 二人だけ。


「……」


「……」


「カイ」


「何です?」


 まだ騎士口調。


 ソフィアはすぐに気づいた。


「皆、もう外へ出ました」


「……」


「二人きりです」


 カイは少しだけ目を逸らした。


「分かってるよ、ソフィー」


 いつもより少しぶっきらぼうな声。


 ソフィアの口元がわずかに緩む。


「機嫌が悪いですね」


「悪くない」


「悪いです」


「悪くない」


「分かりやすい人が好きだと言いましたよね?」


 そこを持ち出されると弱い。


 カイは少し黙ったあと。


「……少し」


「少し?」


「面白くなかった」


 ソフィアはすぐにカイの近くまで来ると、隣へ腰掛けた。


「何がです?」


「分かってるだろ」


「聞きたいです」


「絶対分かってる」


「それでもです」


「大切だから?」


「はい」


 迷いなく答えられ。


 カイは小さくため息を吐いた。


「レイフォード様」


「はい」


「ソフィーのこと褒めすぎ」


 ソフィアの目が大きくなる。


「それから」


「はい」


「笑いかけすぎ」


「レイフォード様が?」


「両方」


「私も?」


「うん」


 カイの声が少し低くなる。


「ソフィーも」


 ソフィアの胸が大きく鳴った。


「公務です」


「分かってる」


「社交辞令です」


「分かってる」


「なら」


「分かってても嫌だった」


 カイははっきり言った。


 ソフィアが完全に止まる。


「……嫌?」


「ああ」


「私が、他の男性へ笑うことが?」


「うん」


「どうして?」


 昨日。


 今日。


 胸の中で動いていたもの。


 全部。


 つながる。


 今なら。


 少なくとも。


 これだけは。


 言える。


「嫉妬」


 もう疑問ではない。


 カイはソフィアを見た。


「多分じゃなくて、嫉妬した」


 ソフィアの目がすぐに潤む。


「また泣く?」


「今日は我慢します」


「本当に?」


「無理かもしれません」


「どっちだよ」


 二人で少し笑う。


 でも。


 ソフィアの嬉しさは。


 もう隠せていなかった。


「カイ」


「何?」


「昨日より、分かりました?」


「何が?」


「自分の気持ちです」


 カイは少し黙った。


 今日。


 訓練場でも。


 考えた。


 そして。


 目の前で。


 別の男が。


 ソフィアと話し。


 笑いかけ。


 褒める。


 それが。


 嫌だった。


 ただ嫌なのではない。


 自分だけに。


 あの笑顔を向けてほしい。


 そこまで。


 思った。


「……少し」


「どのくらい?」


「かなり」


 ソフィアの息が止まる。


「でも」


「はい」


「まだ言わない」


「何を?」


「分かってるだろ」


「聞きたいです」


「今日は駄目」


「昨日は、好きだったら困るかまで言ったのに?」


「それ以上だから怖いんだよ」


 言ってから。


 カイ自身が止まった。


 ソフィアも止まる。


「それ以上?」


「あ」


「カイ」


「今のなし」


「駄目です」


「ソフィー」


「それ以上とは?」


「言わない」


「カイ」


「絶対言わない」


 ソフィアはしばらくカイを見つめていたが、やがて少しだけ表情を和らげた。


「では」


「何?」


「手を繋いでください」


 カイは思わず瞬きをする。


「話変わった?」


「変えてあげました」


「珍しい」


「その代わり」


「何?」


「カイから」


 ソフィアは手を差し出さなかった。


 膝の上へ置いたまま。


 待つ。


 カイはその様子を見て、少しだけ笑った。


「分かったよ」


 自分から右手を伸ばす。


 ソフィアの左手を取る。


 二つの腕輪が。


 すぐ隣に並ぶ。


 そして。


 指を絡める。


「これで?」


「はい」


 ソフィアは嬉しそうに微笑むと、少しだけ身体を寄せた。


「カイ」


「何?」


「私は、レイフォード様に何を言われても何も思っていません」


「分かってる」


「本当に?」


「頭では」


「心は?」


「嫌」


 即答だった。


 ソフィアが笑う。


「どうして笑う」


「嬉しいからです」


「嫉妬されて?」


「はい」


「前も言ってたな」


「何度でも言います」


 ソフィアは繋いだ手を少し強く握る。


「カイが、私を誰にも渡したくないと思ってくれるのが嬉しいです」


 カイの胸が強く鳴った。


「……誰にも渡したくない」


 その言葉を、自分で繰り返す。


 そして。


 ソフィアを見る。


「俺、多分」


「はい」


「そう思ってる」


 ソフィアの目から。


 一粒。


 涙が落ちた。


「泣いた!」


「無理でした!」


「さっき我慢するって言っただろ!」


「カイが悪いです!」


「また俺!」


「今日もです!」


 ソフィアは笑いながら泣いていた。


 カイは困ったような顔をする。


 でも。


 繋いだ右手は離さない。


 むしろ。


 空いていた左手を伸ばし。


 ソフィアの頬を流れた涙を。


 指先で。


 そっと拭った。


「本当に最近よく泣くな」


「誰のせいですか」


「俺らしい」


「はい」


「ごめん」


「謝らないでください」


 カイは少しだけ笑う。


「じゃあ、泣かせてもいい?」


「嬉しい涙なら」


 ソフィアも泣きながら笑った。


「何度でも」


 カイはその笑顔を見る。


 さっき。


 レイフォードへ向けていた笑顔とは。


 違う。


 公務用ではない。


 今。


 自分だけへ。


 向けている。


 柔らかく。


 近くて。


 無防備な。


 笑顔。


 そして。


 カイの中で。


 また。


 答えへ近づく。


「……ソフィー」


「はい」


「やっぱり、その顔」


「顔?」


「他の男に見せないで」


 ソフィアが完全に止まった。


「……どの顔です?」


「今の」


「今?」


「ああ」


 恥ずかしい。


 でも。


 逃げない。


 カイは少しだけ視線を逸らしながら続けた。


「俺の前で笑ってる時の顔」


 ソフィアの瞳が大きくなる。


「それ」


 カイは小さく息を吐く。


「俺だけがいい」


 長い沈黙が落ちた。


 ソフィアは何も言わない。


 あまりに何も言わないので。


 今度はカイの方が不安になる。


「ソフィー?」


「……」


「おい」


「……」


「大丈夫?」


「カイ」


「何?」


「抱きついていいですか?」


「また?」


「今すぐ」


 カイは少しだけ苦笑した。


 でも。


 もう。


 拒む理由を探さなかった。


「……いいよ」


 次の瞬間。


 ソフィアが胸へ飛び込んできた。


「うわっ」


 勢いに押されて少しだけ身体が後ろへ揺れる。


 でも。


 すぐに支える。


「強いって!」


「無理です!」


「何が!」


「嬉しすぎます!」


 ソフィアは両腕をカイの背中へ回し、胸元へ顔を埋めた。


「カイ」


「何?」


「今の言葉」


「忘れて」


「絶対に嫌です」


「知ってた」


「一生覚えています」


「また?」


「はい」


 カイは笑う。


 そして。


 今日は。


 昨日よりも。


 早かった。


 ほとんど迷わず。


 自分から両腕をソフィアの背中へ回す。


 抱きしめる。


 ソフィアの身体が少し震えた。


「カイ」


「何?」


「また、自分から抱きしめてくれました」


「うん」


「どうして?」


 昨日も。


 同じことを聞かれた。


 昨日は。


『俺もこうしたいと思ったから』


 そう答えた。


 今日は。


 もう少し。


 違う。


「ソフィーだから」


 カイが答える。


 ソフィアの呼吸が止まった。


「……」


「何?」


「もう」


「何?」


「今日こそ本当に死ぬかもしれません」


「死ぬな」


「カイが生かしてください」


「どうやって」


「このままで」


「抱いてろって?」


「はい」


 カイは小さく笑った。


「仕方ないな」


 少しだけ。


 腕へ力を込める。


「これで?」


「はい」


 ソフィアは目を閉じた。


「幸せです」


 カイの胸が。


 少し。


 熱くなる。


「俺も」


 自然に。


 言葉が出た。


 ソフィアの身体がまた止まる。


「……今」


「何も言ってない」


「俺もって」


「言ってない」


「言いました」


「忘れて」


「嫌です」


「だよな」


 二人で笑った。


 そして。


 どちらも。


 まだ。


 離れなかった。


          ◇◇◇


 しばらくして。


 ソフィアはカイの胸元へ顔を寄せたまま、小さな声で尋ねた。


「カイ」


「何?」


「もし」


「また仮定?」


「はい」


「最近多いな」


「大切なので」


「どうぞ」


「もし、私がレイフォード様から正式に求婚されたら」


 カイの腕が止まった。


 少し前なら。


 護衛として。


 立場として。


 そんな話を考えたかもしれない。


 でも。


 今は。


 別だった。


「……断って」


 ほとんど反射的に答えた。


 ソフィアが顔を上げる。


「え?」


「断ってほしい」


「理由は?」


「聞く?」


「聞きます」


「絶対分かってるだろ」


「それでもです」


 カイは少し苦笑した。


 でも。


 今なら。


 言える。


「俺が嫌だから」


「私が他の男性へ嫁ぐのが?」


「ああ」


「では、今の婚約者は?」


 そこで。


 また。


 現実。


 壁。


 それが戻る。


 でも。


 今度は。


 逃げなかった。


「同じ」


 カイは答える。


「今いる婚約者も、ソフィーと結婚するって考えたら嫌だ」


 もう。


 そこは。


 はっきり。


 言える。


「だから」


 カイは一度だけ言葉を止めた。


「その人には悪いけど」


「はい」


「俺、婚姻式を心から祝えないかもしれない」


 ソフィアの表情が変わる。


 カイの声には。


 嬉しさではなく。


 苦しさも。


 混じっていた。


「姫様の騎士としては、祝わないといけないと思ってる」


「……はい」


「ソフィーに幸せになってほしい気持ちも嘘じゃない」


「はい」


「でも」


 カイは目を伏せる。


「俺じゃない誰かと幸せになるのは、嫌だ」


 ソフィアの目から。


 また。


 涙が落ちた。


「ソフィー?」


「……はい」


「何でまた泣く」


「嬉しいからです」


「こんな話で?」


「はい」


「俺、かなり身勝手なこと言ってるぞ」


「もっと言ってください」


「何で」


「聞きたいです」


 ソフィアは顔を上げた。


 涙を流している。


 でも。


 笑っている。


「カイの身勝手なら」


 柔らかな声。


「私はいくらでも聞きたいです」


 カイはその表情を見る。


 また。


 胸が鳴る。


「本当に、俺に甘いな」


「カイにだけです」


 即答だった。


 今度は。


 カイが。


 少し黙る。


「……何です?」


「いや」


 カイは小さく笑った。


「嬉しい」


 ソフィアはまた。


 泣き笑いした。


          ◇◇◇


 レイフォードの来訪が終わってからかなり時間が経ち、窓の外の陽が傾き始めても、カイはすぐには白銀宮を離れなかった。


 ソフィアと一緒に白花茶を飲み、昼間のことを何度もからかわれた。


「ソフィー」


「はい」


「もう聞くな」


「何を?」


「嫉妬したか」


「でも大切です」


「五回聞いた」


「あと一回」


「何で六回」


「区切りがいいので」


「五の方が区切りいいだろ」


「私には六です」


「意味分からない」


 二人で笑う。


 その時間は。


 穏やかだった。


 そして。


 あまりにも。


 近かった。


 以前の自分たちでは。


 あり得ないくらいに。


「カイ」


「何?」


「今日は、帰りたくないですか?」


 聞かれたカイは、窓の外へ少しだけ視線を向けた。


 夕方。


 まだ勤務も残っている。


「帰らないと団長に怒られる」


「そういう意味ではありません」


「分かってる」


 カイはソフィアを見る。


「本音?」


「はい」


 少しだけ。


 迷う。


 でも。


「もう少し、ここにいたい」


 素直に答えた。


 ソフィアの目元が柔らかくなる。


「私もです」


「でも帰る」


「はい」


「仕事だから」


「分かっています」


 カイはカップを置いた。


「明日」


「はい」


「また来る」


 ソフィアの目が大きくなる。


「私が呼ばなくても?」


「ああ」


「本当に?」


「うん」


「用がなくても?」


 そこまで聞かれ。


 カイは。


 少し。


 照れた。


 でも。


 言った。


「会いたいから」


 その瞬間。


 二人とも。


 止まった。


「……」


「……」


「カイ」


「今のなし」


「駄目です」


「忘れて」


「絶対に嫌です」


「分かってた」


 カイは片手で顔を覆った。


「最近、俺も大分言うようになったな」


「とても良いことです」


「ソフィー基準だろ」


「はい」


「即答」


 ソフィアは楽しそうに笑った。


「明日、待っています」


「何回団長に確認する?」


「五回」


「増やすな」


「では四回」


「一回でいい」


「努力します」


「そこ努力するところ?」


 また。


 二人で笑った。


          ◇◇◇


 白銀宮から詰所へ戻る途中。


 カイは一人、夕暮れの回廊を歩いていた。


 窓から差し込む橙色の光が長い影を床へ伸ばしている。


 歩きながら。


 また。


 右手首の腕輪を見る。


 今日。


 自分は。


 また。


 色々言った。


 レイフォードへ嫉妬した。


 ソフィアが他の男へ笑うのが嫌だった。


 自分だけに、その笑顔を向けてほしいと思った。


 抱きしめて。


『ソフィーだから』


 そう言った。


 さらに。


『俺じゃない誰かと幸せになるのは嫌だ』


 そこまで口にした。


 そして最後には。


『会いたいから』


 明日も来る理由まで。


 自分で言った。


 カイは回廊の途中で歩みを止めた。


 窓の外には、赤く染まった夕空が広がっている。


「これ……もう」


 自分の胸元へ手を当てる。


 鼓動。


 少し。


 速い。


 ソフィアの顔が浮かぶ。


 笑う顔。


 泣く顔。


 怒る顔。


 拗ねる顔。


 自分と手を繋ぐ姿。


 腕の中へ飛び込んでくる姿。


 抱きしめた時の温もり。


 全部。


 大切。


 全部。


 自分だけが見ていたい。


 その感情へ。


 今。


 一番近い言葉は。


「好き……」


 誰にも聞かれない声で。


 ほんの少し。


 口にしてみる。


 胸が。


 強く。


 鳴った。


 嫌ではない。


 むしろ。


 しっくりくる。


「……そっか」


 カイは少しだけ笑った。


 でも。


 すぐ。


 現実が戻る。


 身分。


 婚約者。


 それを越えられるかは。


 まだ。


 分からない。


 だから。


 今日は。


 まだ。


 ソフィア本人には言えない。


「明日」


 カイは小さく呟いた。


「ちゃんと考えよう」


 その声は。


 昨日より。


 ずっと。


 迷いが少なかった。


          ◇◇◇


 同じ頃。


 白銀宮の私室では、ソフィアがソファーへ座ったまま、まだ幸せそうに頬を緩めていた。


 エマが白花茶を入れ直しながら、その様子を横目で見る。


「姫様」


「……はい」


「本日も随分と進展があったようですね」


「エマ」


「はい」


「カイが」


 ソフィアは自分の胸元へそっと手を置いた。


「私が他の男性へ笑うのが嫌だと」


「まあ」


「レイフォード様へ嫉妬したと」


「それはかなり大きな進展ですね」


「はい」


 ソフィアの頬が赤くなる。


「さらに、私が誰かと幸せになるのが嫌だと」


 エマの手が止まった。


「そこまで?」


「はい」


「それで姫様は?」


「泣きました」


「でしょうね」


「それから」


「まだあるのですか?」


「カイが、明日も来ると」


「はい」


「会いたいから、と」


 今度こそ。


 エマの動きが完全に止まった。


「……姫様」


「はい」


「もう本当にあと少しですね」


「はい」


 ソフィアは左手首の夜空石へ視線を落とした。


「でも、急ぎません」


「分かっております」


「カイが」


 ソフィアは柔らかく笑う。


「自分で好きだと言うまで、待ちます」


「何年でも?」


 エマが少しだけからかうように聞く。


 ソフィアは真面目に考えた。


「……できれば明日がいいです」


 エマが吹き出した。


「姫様」


「分かっています」


「急がないのでは?」


「急ぎません」


「はい」


「でも期待はします」


「それは自由でございます」


「はい」


 ソフィアも笑った。


 婚姻式まで。


 あと二月。


 カイはまだ。


 本人の前で。


 好きとは言っていない。


 けれど。


 他の男へ笑ってほしくない。


 自分だけに、その笑顔を向けてほしい。


 誰かへ嫁ぐのは嫌だ。


 自分ではない誰かと幸せになるのも嫌だ。


 そして。


 明日も。


 会いたい。


 そこまで。


 自分の口で言った。


 さらに。


 カイ自身だけがまだ知らないところで。


 その日の夕暮れ。


 初めて。


 誰もいない場所で。


 自分の感情へ。


 小さく。


「好き」


 という名前をつけていた。


 答えはもう。


 手を伸ばせば届くほど近い。


 あとは。


 その言葉を。


 ソフィアの前で。


 もう一度。


 口にするだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。