第13話 第三皇女様、俺があなたを好きだったら困りますか?
翌日の午後、白銀宮には春の柔らかな陽射しが差し込んでいた。
午前中まで薄く空を覆っていた雲はいつの間にか流れ去り、開け放たれた窓の向こうには澄んだ青空が広がっている。庭園では白や黄色の花が風に揺れ、鳥の鳴き声が時折、静かな私室まで届いていた。
その穏やかな空気とは反対に、カイの胸の中は朝からまるで落ち着かなかった。
白銀宮へ続く回廊を歩きながら、カイは何度目かも分からないまま右手首へ視線を落とす。
昨日受け取ったばかりの腕輪。
淡い空色の空雫石が窓から差し込む陽射しを受けて静かに輝き、銀色の金具の裏側にはソフィーという名前が刻まれている。
昨夜は寝る前に何度も見た。
朝起きてからも確認した。
訓練へ出る前にも見て、訓練中は傷をつけないように薄い布まで巻いた。
我ながら、かなり大切にしていると思う。
けれど今のカイを落ち着かなくさせているのは、腕輪だけではなかった。
昨日の会話が、何度も頭の中へ戻ってくる。
『……嫉妬?』
自分で口にした。
ソフィアの婚約者へ。
会ったことすらない相手へ。
嫉妬。
そして、婚約者を嫌いになりそうな理由まで言った。
『ソフィーと結婚するから』
さらに、もし婚約者がソフィアを自分へ譲ると言ったらどうするかと聞かれ。
『嬉しいかもしれない』
そこまで認めた。
「……俺、大丈夫か?」
カイは思わず回廊の途中で足を止め、小さく呟いた。
冷静になって昨日の自分を振り返ると、かなり危ないところまで踏み込んでいる。
主君の婚約者へ嫉妬し、その相手と結婚してほしくないと口にした。
さらに、もしソフィアが何度も自分を選ぶと言ったら、最後まで断れないかもしれないとも答えた。
普通に考えれば。
完全に踏み込みすぎている。
けれど。
「……後悔は、してないんだよな」
そこだけは不思議なほどはっきりしていた。
むしろ、昨日より少しだけ胸が軽い。
自分の中にある感情を、見なかったことにしなくていい。
そうソフィアが言ってくれたからだ。
「俺がソフィーをどう思ってるのか……か」
昨日。
約束した。
逃げない、と。
身分差は今も怖い。
ソフィアには婚約者がいる。
その事実も変わらない。
それでも、まず自分の気持ちをちゃんと考える。
今日は、そのためにソフィアと二人きりで話す。
自分から言い出した約束だった。
カイは一度小さく息を吸うと、再び白銀宮の奥へ向かって歩き始めた。
◇◇◇
私室の前へ到着すると、扉の横にはエマが立っていた。
「お待ちしておりました」
「姫様は?」
「中でお待ちです」
「……また?」
カイが少し苦笑する。
「今日は何回、時間を確認したんです?」
「四回ほどでしょうか」
「増えてる」
「昨日、『二人きりで話したい』とカイからおっしゃったそうですので」
「ああ」
「姫様にとっては一大事なのでございます」
「そんな大げさな」
「本当にそうでしょうか?」
エマの問いに、カイは少しだけ黙った。
昨日。
自分から。
二人きりで話したい。
そう口にした。
確かに、以前の自分ならまず言わなかった言葉だった。
「……まあ、少し大事な話ではあります」
「でしたら、姫様が落ち着かないのも当然でございます」
「エマさん、全部知ってるんですよね?」
「何をでしょう?」
「俺が何考えてるのか」
「それはカイにしか分かりません」
「じゃあ」
カイは少しだけ目を細める。
「姫様が何を考えてるか」
エマは穏やかに笑った。
「それは姫様へ直接お尋ねください」
「やっぱり」
思った通りの答えだった。
だが、エマはすぐに扉へ手をかけず、珍しく少し真面目な表情を見せる。
「ただ、一つだけ」
「何です?」
「姫様は、カイが思っているよりずっと長く、今日のような日を待っておられます」
カイの表情が変わった。
「今日のような日?」
「あ」
エマはほんのわずかに目を逸らす。
「失言でございました」
「絶対何かありますよね?」
「何でもございません」
「最近もう、その言葉聞き飽きました」
「では、どうぞ」
完全に逃げた。
エマが扉を開く。
「姫様、カイが参りました」
「入ってください!」
返事はほとんど間を置かず返ってきた。
本当に。
待っていたらしい。
◇◇◇
「失礼します」
部屋へ入ったカイは、最初に少しだけ驚いた。
今日はソフィア以外、誰もいない。
卓には茶器や焼き菓子が用意されているものの、普段なら傍へ控えている侍女たちの姿すらなかった。
「今日は最初から二人きり?」
「はい」
ソフィアは笑っている。
けれど、その笑顔はいつもより少しだけ硬かった。
緊張している。
それくらいは、今のカイにも分かる。
「エマたちは?」
「少しだけ外してもらいました」
「俺が来る前から?」
「はい」
「そこまで?」
「二人きりで話したいと言ったのは、カイでしょう?」
「言ったけど」
「なので、準備しました」
「準備って」
カイは少し笑った。
ソフィアもつられるように笑う。
けれど、二人とも緊張していることに変わりはなかった。
「……ソフィー」
カイが呼ぶ。
その瞬間、ソフィアの目元が柔らかくなる。
「はい、カイ」
「待たせた?」
「少し」
「ごめん」
「大丈夫です」
ふと。
カイの視線がソフィアの左手首へ向かう。
夜空石の腕輪。
今日もつけている。
「腕輪、外してないな」
「外す理由がありません」
「寝る時も?」
「つけていました」
「俺も」
自然に答えた。
ソフィアの目が少し大きくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
「邪魔ではありませんでした?」
「全然」
「嬉しいです」
「俺も」
言ってから。
自分で少し驚いた。
ソフィアがゆっくり瞬きをする。
「……何が?」
「ソフィーがつけてるの」
カイは少しだけ視線を逸らした。
「嬉しい」
ソフィアの頬が赤くなる。
「カイ」
「何?」
「今日は、最初からかなり危険です」
「何が?」
「私の心臓です」
「知らないよ」
カイが少し笑うと、張り詰めていた空気も少しだけ緩んだ。
「座ろう」
「はい」
ソフィアはいつものように隣を軽く叩く。
カイももう、どこへ座るべきか聞かなかった。
自然に隣へ腰掛ける。
肩が近い。
でも。
それすら、かなり当たり前になってきた。
「手を……」
ソフィアが小さく言いかける。
その前に。
カイが自分から手を取った。
「これでいい?」
ソフィアが固まった。
「……はい」
「昨日、聞かなくていいって言っただろ」
「言いました」
「だから」
カイは指を絡める。
「俺が繋ぎたい時に繋ぐ」
ソフィアの顔がさらに赤くなる。
「カイ」
「何?」
「本当に昨日から急に強くなりすぎです」
「何が?」
「全部です」
「よく分からない」
「でしょうね」
二人で笑う。
その手は。
そのまま。
繋がれていた。
◇◇◇
しばらくは、何でもない話をした。
午前中の訓練。
今日の昼食。
白銀宮へ新しく届いた花。
エマが朝から妙に機嫌が良かったこと。
カイが訓練中、腕輪を傷つけないよう布を巻いていたと話すと、ソフィアは本気で嬉しそうに笑った。
「そこまで大切にしてくれるとは思いませんでした」
「傷つけたくないからな」
「石を?」
「全部」
ソフィアが黙る。
「何?」
「いえ」
「また?」
「嬉しいだけです」
そうしてしばらく。
穏やかな会話を続ける。
でも。
お互い。
分かっていた。
本題はまだ何も話していない。
このまま雑談だけで終わらせることもできる。
けれど。
昨日。
カイは逃げないと約束した。
「ソフィー」
「はい」
声が少し変わった。
ソフィアもすぐに気づく。
「昨日の話」
「はい」
「ちゃんと考えた」
繋いでいる手へ、わずかに力が入る。
「一晩?」
「ほとんど寝られなかった」
「え?」
「嘘」
「もう」
「でも、かなり考えたよ」
ソフィアの表情が真剣になる。
「何を考えました?」
「色々」
「例えば?」
「俺が何で婚約者を嫌だと思うのか。ソフィーが他の男と一緒にいることが、何であんなに嫌なのか」
「はい」
「それから」
カイは一度だけ息を吐いた。
「何で、ソフィーが俺を選ぶって言ったら嬉しいのか」
ソフィアの呼吸が少し止まる。
「それで」
「うん」
「答えは?」
カイはすぐには答えず、窓の外へ視線を向けた。
澄んだ青空。
春の風。
薄いカーテンが静かに揺れている。
「昨日」
「はい」
「嫉妬かもって言った」
「はい」
「多分、それは合ってる」
ソフィアの胸が大きく鳴る。
「婚約者に嫉妬している?」
「多分」
「私が取られるから?」
「……うん」
カイは少しだけ顔を赤くした。
「かなり嫌だ」
ソフィアの目が潤み始める。
「泣く?」
「まだです」
「まだ?」
「今日は危ないので、もう少し耐えます」
「宣言するんだ」
「はい」
二人で少し笑う。
でも。
すぐに。
また静かな空気が戻った。
「それで」
カイは続ける。
「じゃあ、何で嫉妬するんだって考えた」
ソフィアは何も言わずに待つ。
「大事だから」
「はい」
「七年一緒にいたから」
「はい」
「守りたいから」
「はい」
「離れたくないから」
ソフィアの指がほんの少し震えた。
「全部、間違ってないと思う」
「はい」
「でも」
カイはそこで少し眉を寄せた。
「それだけじゃ、説明つかない」
ソフィアの胸がさらに強く鳴る。
「どうしてです?」
「だって」
カイは少し困ったように笑った。
「リナとか団長が誰かと結婚しても、こんな気持ちにはならない」
「はい」
「仲間として大事だよ」
「はい」
「離れたら寂しいとも思う」
「はい」
「でも」
カイは隣のソフィアを見る。
「ソフィーみたいに、誰かに触られるのが嫌とか、手を繋がれるのも嫌とか」
そこで少しだけ言葉が詰まる。
「同じように笑いかけるのも嫌だとか。そんなこと、絶対思わない」
ソフィアの呼吸が少し浅くなる。
「なら」
「うん」
「私は、カイにとって特別ですか?」
カイはほとんど考えず答えた。
「特別」
今度はソフィアが止まる。
「……即答」
「そこはもう分かってる」
「いつから?」
「分からない」
「昔から?」
「多分」
「今は?」
「もっと」
ソフィアの目が大きくなる。
「もっと?」
「ああ」
カイは繋いだ手を見た。
少しだけ指を絡め直す。
「今は、前よりずっと特別」
ソフィアの瞳へ涙が浮かぶ。
「カイ」
「泣く?」
「もう少しだけ耐えます」
「無理しなくてもいいけど」
「最後まで聞きたいです」
声が少し震えている。
「分かった」
◇◇◇
カイは一度、大きく息を吐いた。
ここから先へ進むのが怖い。
自分でも。
はっきり分かっていた。
「俺、恋愛ってよく分からないんだ」
「知っています」
「何で即答?」
「七年見ていますから」
「それ万能だな」
「はい」
少しだけ笑う。
緊張が少し緩む。
「恋人いたことないし」
「はい」
「好きな人がいたことがあるのかも、自分では分からない」
「はい」
「でも」
カイはソフィアを見る。
そこで。
心臓が強く鳴った。
「多分、ソフィーに対して今持ってる気持ちは」
声が少し掠れる。
「普通の主従とか」
「はい」
「友達とか」
「はい」
「家族みたいなものだけじゃない」
ソフィアの息が止まる。
「それは……どういう?」
「だから」
カイは少し苦笑した。
「そこがまだ、はっきり分からない」
ソフィアの肩が少しだけ落ちる。
でも。
カイはすぐに続けた。
「ただ、一つだけ思った」
「はい」
「もし」
言葉を慎重に選ぶ。
「もし俺が」
胸が苦しい。
でも。
逃げない。
「ソフィーのことを」
そこまで。
言う。
次の言葉が。
出そうになる。
好き。
でも。
怖い。
それでも。
最後まで飲み込まなかった。
「……好きだったら」
ようやく口から出た。
ソフィアが完全に固まる。
部屋の中が。
静かになる。
開いた窓から入る風の音さえ、妙にはっきり聞こえた。
「ソフィー?」
「……今」
「うん」
「何と?」
「聞こえただろ」
「もう一度」
「まだ好きって言ったわけじゃない」
「でも」
「もしって言っただけ」
「それでもです」
ソフィアの指へ強く力が入る。
「もう一度」
カイの顔もかなり赤くなっていた。
「もし俺が、ソフィーを好きだったら」
今度は。
はっきり言う。
「……困る?」
ソフィアの目が大きくなる。
次の瞬間。
一粒。
涙が落ちた。
「え」
カイが慌てる。
「泣いた!?」
「泣きます!」
「何で怒るんだよ!」
「こんなの耐えられません!」
「何で!?」
「七年です!」
「何が!?」
「七年待っています!」
ソフィアがそこまで言って。
自分で止まった。
カイも止まる。
「……七年?」
「あ」
「何を?」
「……」
「ソフィー?」
言い過ぎた。
さすがに。
かなり。
危ない。
「それは」
ソフィアは涙を指先で拭った。
「今は秘密です」
「そこまで言って?」
「秘密です」
「ずるくない?」
「カイの方がずるいです」
「俺?」
「好きだったら困るかなんて」
また。
涙が落ちる。
「困るわけないでしょう」
カイの動きが止まった。
「……困らない?」
「はい」
「本当に?」
「むしろ」
ソフィアはカイを見る。
声が少し震えている。
「とても嬉しいです」
カイの胸が強く鳴った。
「俺が?」
「はい」
「ソフィーを?」
「はい」
「好きでも?」
「はい」
ソフィアは迷わない。
「何があっても」
その言葉を聞くと。
胸が少し軽くなった。
けれど。
同時に。
現実が戻る。
「でも、婚約者」
ソフィアは涙を残したまま、少し笑った。
「その人のことは、今は考えなくて大丈夫です」
「いや、考えるだろ」
「考えなくていいです」
「何で」
「私が言っています」
「強いな」
「はい」
カイも少し笑う。
「本当に嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
「俺が好きでも?」
「むしろ、そうであってほしいです」
そこまで言って。
ソフィア自身が気づく。
「あ」
カイの目が大きくなる。
「今」
「何でもありません」
「いや」
「何でもありません!」
「絶対何かある!」
カイが少し身を乗り出し、ソフィアが逃げるように身体を引いた。
「ソフィー」
「駄目です」
「何が」
「まだ」
「またそれ?」
「はい」
二人は少しだけ見つめ合う。
そして。
どちらからともなく笑った。
ソフィアの目には涙がまだ残っている。
それでも。
今は。
心から。
幸せだった。
◇◇◇
少し落ち着いてから、カイは繋いだ手へ視線を落とした。
「俺」
「はい」
「まだ」
「はい」
「好きだって、ちゃんと断言できない」
ソフィアは静かに頷く。
「はい」
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも」
「昨日、急がないと言いました」
ソフィアは柔らかく笑う。
「今日も同じです」
「……」
「むしろ、ここまで来てくれただけで十分すぎます」
「ここまで?」
「はい」
「どこまで?」
「秘密です」
「また!」
カイが笑う。
ソフィアも少し笑った。
「でも」
ソフィアの表情が少しだけ真面目になる。
「カイ」
「何?」
「一つだけ聞いてもいいですか?」
「うん」
「私が、もしカイのことを」
今度は。
カイの胸が鳴る。
「誰より大切に思っていたら」
ソフィアはゆっくり言った。
「困りますか?」
今度は逆だった。
カイが言葉に詰まる。
「俺を?」
「はい」
「誰より?」
「はい」
「婚約者より?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
ソフィアは間を置く。
でも。
「はい」
答えた。
カイは完全に止まる。
「……それ、大丈夫なの?」
「私は大丈夫です」
「婚約者は?」
「大丈夫です」
「またそれ!」
カイは思わず笑った。
けれど。
胸の中には。
はっきり。
嬉しさがあった。
「困りますか?」
もう一度。
聞かれる。
カイは少しだけ考える。
でも。
答えは。
ほとんど決まっていた。
「困らない」
ソフィアの目元が柔らかくなる。
「むしろ」
カイは少し照れたように視線を逸らした。
「嬉しい」
ソフィアの目から。
また。
涙が落ちた。
「また泣く!?」
「カイが悪いです!」
「何で俺!」
「今日、何回嬉しいことを言うのですか!」
「知らないよ!」
「心の準備が!」
「俺もしてない!」
二人で言い合う。
けれど。
笑っていた。
そして。
手は。
一度も離れていなかった。
◇◇◇
「カイ」
「何?」
「もう少し近くてもいいですか?」
「また肩?」
「今日は」
ソフィアは少し迷った。
そして。
頬を赤くしたまま、慎重に尋ねる。
「……抱きついてもいいですか?」
今度はカイが完全に固まった。
「抱きつく?」
「はい」
「今?」
「はい」
「二人きりだけど」
「はい」
「恋人設定でもない」
「はい」
「俺、ソフィーのこと好きかもしれないって話した直後だけど」
「はい」
「それでも?」
「はい」
全部。
分かったうえで。
聞いている。
カイの心臓が一気に速くなる。
「……少しだけなら」
しばらく迷ってから。
「いいよ」
ソフィアはゆっくり身体を寄せた。
今度は肩へ寄りかかるだけではない。
両腕をカイの腰のあたりへ回し、胸元へ身体を預ける。
「……」
カイの呼吸が一瞬止まった。
柑橘の香りが近い。
銀色の髪が頬へ触れそうなほど近い。
身体の温かさも。
はっきり伝わる。
「ソフィー」
「はい」
「近い」
「抱きついていますから」
「そうだけど」
「嫌ですか?」
いつもの問い。
でも。
今回は。
今までよりずっと重い。
カイは少しだけ考えた。
「……嫌じゃない」
ソフィアの腕へ少し力が入る。
「むしろ」
言葉が自然に出る。
「落ち着く」
ソフィアは目を閉じた。
「私もです」
カイは自分の手をどうするか迷った。
宙へ浮いたまま。
数秒。
昨日までの自分なら。
理性を理由に。
何もしなかった。
でも。
今日は。
自分の気持ちから逃げないと決めている。
カイはゆっくり右手をソフィアの背中へ回し、左手を肩へ添えた。
そして。
抱き返した。
ソフィアの身体が一瞬震える。
「カイ?」
「何?」
「今」
「うん」
「抱き返しました?」
「……うん」
「どうして?」
カイは少しだけ笑った。
「俺も、こうしたいと思ったから」
その瞬間。
ソフィアの涙が。
とうとう止まらなくなった。
「また泣いてる!」
「無理です!」
「今日泣きすぎ!」
「カイのせいです!」
「俺、何も悪くないだろ!」
「悪いです!」
言い合いながらも。
ソフィアは離れない。
むしろ少し強く抱きつく。
カイも困ったように笑いながら、その背中を優しく撫でた。
「落ち着くまで、このままでいいよ」
「……はい」
「泣き止めよ」
「努力します」
「努力なんだ」
「今日は無理かもしれません」
「そんなに?」
「はい」
ソフィアはカイの胸へ顔を埋めた。
カイの心臓も速い。
でも。
逃げたいとは。
思わない。
むしろ。
このままでいたい。
「……ソフィー」
「はい」
「俺、多分」
少し言葉を選ぶ。
「かなり危ないところまで来てる気がする」
ソフィアが顔を上げた。
「危ない?」
「ああ」
「どういう意味です?」
「だって」
カイは少し照れたように笑う。
「ソフィーを抱いてるの、嫌じゃないどころか」
「はい」
「離したくない」
ソフィアが完全に止まる。
そして。
「……カイ」
「何?」
「今日、私を殺すつもりですか?」
「何で!?」
「心臓が持ちません!」
「知らないよ!」
二人でまた笑う。
でも。
カイの腕は。
離れない。
ソフィアも。
離れなかった。
◇◇◇
どれくらいそうしていただろう。
かなり長い時間が経ってから、二人はようやく少しだけ身体を離した。
それでも肩は近い。
そして。
離れた手は。
すぐにまた繋がった。
「カイ」
「何?」
「今日のこと」
「うん」
「後悔しませんか?」
カイは少しだけ考えた。
好きかもしれない。
そう言った。
抱きしめた。
抱き返した。
離したくないとも言った。
自分でも驚くほど。
踏み込んだ。
でも。
「しない」
答えは。
すぐに出た。
「本当に?」
「ああ」
「明日になって、やっぱり身分がとか」
「それは」
少しだけ止まる。
「考えると思う」
ソフィアの表情が少しだけ寂しくなる。
「でも」
カイは繋いだ手を少し強く握る。
「今日言ったことを、なかったことにはしない」
ソフィアの目がまた潤む。
「好きかもしれないってことも?」
「ああ」
「抱きしめたことも?」
「うん」
「離したくないって言ったことも?」
カイの顔が赤くなる。
「そこまで全部確認する?」
「大切です」
「……覚えてていいよ」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
「一生」
「そこまでは」
「覚えます」
「強いな」
「はい」
二人で少し笑う。
でも。
カイはすぐに真面目な顔へ戻った。
「まだ、答えじゃない」
「分かっています」
「ちゃんと」
「はい」
「俺が自分で」
「はい」
「好きって言えるまで」
また。
その言葉を口にするだけで。
少し詰まる。
「もう少し待って」
ソフィアは涙を浮かべながら、それでも笑った。
「何年でも」
「いや、二月しかないだろ」
「あ」
ソフィアが固まる。
カイは思わず笑った。
「婚姻式まで」
「……そうですね」
その言葉で。
カイの胸が少し重くなる。
婚約者。
現実。
そこだけは。
まだ残っている。
「その前に」
ソフィアは静かに言った。
「きっと分かります」
「自信あるな」
「はい」
「何で?」
「カイだからです」
「またそれ」
「私には十分な理由です」
ソフィアは柔らかく笑った。
◇◇◇
その頃。
私室からかなり離れた回廊には、エマとマリア、それにリナの三人がいた。
「……長いですね」
リナが小声で言う。
「二刻近いな」
マリアは腕を組んだまま答えた。
「大丈夫でしょうか」
「姫様が?」
エマが聞く。
「カイが」
マリアが即答した。
「逃げてないだろうな」
「扉からは出てきておりません」
「窓は?」
「三階です」
「カイなら降りる」
「やりかねませんね」
リナが妙に真剣な顔で頷く。
エマは少しだけ笑った。
「今回は大丈夫だと思います」
「なぜ?」
「昨日、逃げないと約束したそうです」
「そうか」
マリアの表情が少しだけ和らぐ。
「でも」
リナが続けた。
「姫様、そろそろ限界じゃないです?」
「何が」
「秘密にするの」
エマは少しだけ目を伏せた。
「かなり」
「ですよね」
「ですが、姫様は最後まで待つでしょう」
「カイが自分で?」
「はい」
マリアは私室のある方向を見た。
「もう、恋だと気づくのは時間の問題だ」
「でも」
リナの表情が少し真面目になる。
「その後は」
「ああ」
マリアも頷いた。
「身分だ」
「そこが一番厄介ですね」
「自分は選ばれてはいけない」
エマが静かに言う。
「その思い込みを、カイ自身が崩さなければなりません」
「姫様は?」
「何度でも」
エマは少しだけ笑った。
「選ぶと思います」
マリアも同じように笑う。
「だろうな」
◇◇◇
夕方。
カイは白銀宮を出た。
長い回廊を歩きながら、また右手首の腕輪を見る。
胸はまだ落ち着かない。
今日。
言った。
『もし俺がソフィーのことを好きだったら、困る?』
ソフィアは答えた。
『困るわけないでしょう』
『とても嬉しいです』
さらに。
抱きしめた。
抱き返した。
『離したくない』
そこまで言った。
カイは回廊の途中で足を止め、壁へ片手をついた。
「俺……これ」
誰にも聞かれない声で呟く。
「もう、ほとんど答えじゃないか」
そう思う。
でも。
最後の一歩だけ。
まだ。
怖い。
好き。
そう認めた瞬間。
何が変わる。
ソフィア。
婚約者。
身分。
全部が。
ただの想像ではなく。
現実になる。
それでも。
「……逃げない」
右手を握る。
腕輪の存在を感じる。
昨日。
約束した。
今日。
守った。
だから。
明日も。
逃げない。
◇◇◇
同じ頃。
白銀宮の私室では、ソフィアがカイの去ったソファーへ座ったまま、しばらく動けずにいた。
頬は赤い。
目元には泣いた跡が残っている。
それなのに。
笑っていた。
「姫様」
しばらくして扉が開き、エマが入ってくる。
「……はい」
ソフィアは少しぼんやりした顔で振り向いた。
「どうでした?」
エマが尋ねる。
ソフィアは口を開いた。
「エマ」
「はい」
「カイが」
胸元へ手を添える。
「私を好きだったら困るかって」
エマが一瞬止まった。
「……そこまで」
「はい」
「それで?」
「困らないと」
「はい」
「嬉しいと」
「はい」
「言いました」
思い出しただけで。
また。
涙が浮かぶ。
「姫様」
「それから」
「はい」
「抱きしめて」
今度はエマの目が大きくなる。
「カイが?」
「はい」
「自分から?」
「最初は私からです」
「はい」
「でも」
ソフィアは胸元へ手を置いたまま、真っ赤な顔で続ける。
「抱き返してくれました」
エマはしばらく何も言えなかった。
「それから」
「まだ?」
「離したくないって」
エマはゆっくり目を閉じ、深く息を吐いた。
「姫様」
「はい」
「今日はもうお休みください」
「なぜです?」
「これ以上何か起きると、本当に姫様のお身体が持ちません」
ソフィアは少し考えた。
「私もそう思います」
二人で小さく笑う。
「エマ」
「はい」
「あと少しですよね」
「はい」
「本当に」
「はい」
「もう少し」
ソフィアは左手首の夜空石へ視線を落とす。
「待ちます」
「姫様なら」
エマは柔らかく笑った。
「何年でも待つのでしょうね」
「はい」
ソフィアも少し笑う。
「でも」
「はい」
「できれば」
頬を赤くしたまま。
「二月以内がいいです」
エマが吹き出した。
「姫様」
「分かっています」
「急がないのでは?」
「急ぎません」
「はい」
「でも、期待はします」
「それは自由でございます」
「はい」
ソフィアは笑った。
婚姻式まで。
あと二月。
カイはまだ。
好きだとは言っていない。
でも。
好きだったら困るか。
そう問いかけた。
自分から抱きしめ。
離したくないと言った。
答えは。
もう。
すぐそこにある。
あとは。
カイ自身が。
その感情へ。
自分の言葉で。
名前をつけるだけだった。




