第12話 第三皇女様の婚約者を考えると、なぜか胸が苦しくなる
雑貨店を出たカイとソフィアは、そのまま帝都の南側を流れるルーナ川へ向かって歩き始めた。
昼を少し過ぎた大通りには、午前中ほどの慌ただしさはない。仕事へ戻る職人たちが足早に通り過ぎ、買い物を終えた人々が紙袋や籠を抱えながら家路につき始めている。店先からは焼きたてのパンや香辛料の匂いが流れ、春の柔らかな風が通りを行き交う人々の服の裾を揺らしていた。
二人の手首には、つい先ほど完成したばかりの腕輪がある。
ソフィアの左手には夜空石。
カイの右手には空雫石。
どちらも細身の革紐に銀色の金具を合わせた簡素な作りだったが、互いに相手のことを思いながら選んだ石である。その事実があるだけで、カイにとっても、もうただの装飾品とは思えなかった。
そして今も、二人の手は繋がれたままだった。
「カイ」
「何?」
「また腕輪を見ていますね」
ソフィアの楽しそうな声に、カイは自分が無意識に右手首へ視線を落としていたことに気づいた。
「ソフィーだって、さっきから何回も見てるだろ」
「私はいいのです」
「何で」
「ずっと楽しみにしていましたから」
「三日だろ」
「三日も、です」
「そんなに違う?」
「違います」
ソフィアは当然のように答えると、繋いだ手を少しだけ持ち上げた。
夜空石と空雫石が隣り合い、陽光を受けてそれぞれ異なる色を見せる。深い青と淡い空色が近くで揺れる様子は、不思議なほどよく馴染んでいた。
「こうして並ぶところを、ずっと見たかったのです」
その言葉に、カイは少しだけ返事を止めた。
「腕輪が?」
「腕輪も、です」
「も?」
「何でもありません」
「またそれ」
カイが苦笑すると、ソフィアも楽しそうに笑った。
以前なら、こういう言い方をされても深く考えなかった。
けれど最近は、少しだけ引っかかる。
ソフィアの言葉の中には、自分がまだ知らない意味がいくつも隠れている。そう思うようになってから、何気ない一言まで気になるようになった。
ただ、聞いたところできっとまた秘密だと言われるのだろう。
「本当に気に入ったのですか?」
ソフィアがもう一度尋ねる。
「何回聞くんだよ」
「何回でも聞きます」
「気に入ってるよ。だからさっきも言っただろ。壊れても直して使うって」
「新しいものには替えずに?」
「これがいい」
「どうして?」
「ソフィーが選んだ石だから」
カイは何でもないことのように答えた。
だが、その一言でソフィアの歩みがほんの少しだけ遅くなる。
「……それだけで?」
「十分だろ」
「本当に?」
「俺のために選んだんだろ?」
「はい」
「だったら、それでいいよ」
カイは前を向いたまま答える。
ソフィアはしばらく、その横顔を見つめていた。
どうしてこの人は、こういう時だけ欲しい言葉をあまりにも自然にくれるのだろう。
考えて。
選んで。
喜ばせようとして。
そうして出た言葉ではない。
だからこそ。
余計に胸へ入ってくる。
「ソフィー?」
「何です?」
「さっきから見すぎ」
「嬉しいだけです」
「腕輪が?」
「それも、です」
「またそれ」
二人の笑い声が重なる。
その笑いは、以前のようにどこか主従の線を意識したものではない。
随分自然になった。
カイ自身、その変化には少しずつ気づき始めていた。
◇◇◇
大通りを外れ、ルーナ川へ続く遊歩道へ入ると、人通りは一気に少なくなった。
低い石壁の向こうでは、春の陽射しを受けた川面が細かく輝いている。川沿いには淡い黄色や白い花が咲き、風が吹くたび、小さな花びらが石畳の上を転がっていった。
「静かですね」
「広場より落ち着くな」
「私もです」
「人が多いところ、苦手?」
「嫌いではありません。でも、ここはカイと話しやすいので」
「俺と?」
「はい」
ソフィアはさらりと言った。
カイは思わず隣を見る。
「最近、本当にそういうこと普通に言うな」
「カイが、分かりやすい人が好きだと言ったからです」
「あれ、かなり効いてるな」
「後悔していますか?」
「してないよ」
即答だった。
ソフィアの表情が柔らかくなる。
「むしろ助かってる」
「本当ですか?」
「ああ。前より、ソフィーが何を考えてるか分かる」
「全部は分かっていません」
「それは知ってる」
「一番大事なことは、まだ秘密です」
そこでカイは少しだけ眉を寄せた。
「……それ、俺に関係ある?」
聞かれたソフィアは、わずかに口元を緩める。
「とても」
「やっぱり」
「でも、まだ教えません」
「何で?」
「カイが自分で見つける必要があるからです」
「またそれか」
カイは苦笑した。
けれど以前ほど、その答えに苛立たなくなっている。
むしろ今は。
少しだけ。
自分でも知りたかった。
皆が何を知っているのか。
ソフィアが何を待っているのか。
そして自分は、何を見つけなければならないのか。
「カイ」
「何?」
「今日は、私が何も言わなくても手を繋いでくれました」
「ああ」
「人が多かったから?」
「最初は」
「最初は?」
ソフィアの声が、わずかに期待するものへ変わる。
カイは繋いだ手を一度見てから、前へ視線を戻した。
「途中からは、もう関係なかったかも」
「どういう意味です?」
「そのままの意味」
「では」
ソフィアも二人の手を見る。
「今は、はぐれる心配はありません」
「そうだな」
「護衛のためでもありません」
「そうだな」
「恋人設定だからでも?」
カイは少しだけ黙った。
前なら。
それを理由にした。
何度もそうやって誤魔化してきた。
今は。
「……違うと思う」
ソフィアの指先に、ほんの少しだけ力がこもる。
「では、どうして?」
「さっき言っただろ」
「もう一度聞きたいです」
「好きだな、その言葉」
「大切なので」
カイは少しだけ顔を逸らした。
頬が熱い。
言うこと自体が恥ずかしくなってきている。
それはつまり。
自分でも。
この言葉が少し特別なのだと気づいているということだった。
「……繋ぎたいと思ったから」
ソフィアが歩みを止めた。
カイも引かれて止まる。
「カイ」
「何」
「本当に」
「うん」
「今の言葉、大切にします」
「忘れてくれていい」
「絶対に嫌です」
「だと思った」
カイは笑う。
ソフィアも笑う。
そして二人は、そのまま手を離さず再び歩き始めた。
◇◇◇
二人の目的地は、言葉にしなくても同じだった。
大きな柳の木。
幼い頃、城を抜け出したソフィアをカイが見つけた場所。
そして前回、二人で長く話した場所。
木陰に置かれた長椅子には誰も座っていなかった。
「空いてるな」
「座りましょう」
「疲れた?」
「いいえ」
「じゃあ何で?」
「ここで、またカイと話したいからです」
「また正直だな」
「努力しています」
「知ってる」
カイは少し笑いながら先に長椅子へ近づき、周囲を確認する。
少し離れた場所を老夫婦が歩き、さらに川辺では一人の老人が釣り糸を垂らしている。警戒すべき人影はなく、護衛としても問題なかった。
ソフィアを先に座らせ、その隣へ自分も腰掛ける。
座るために一度だけ手が離れた。
ほんの数秒。
それだけ。
なのに。
カイは、離れていることの方が不自然に感じた。
だから。
自分からソフィアの手を取った。
「カイ?」
「何?」
「今、自分から」
「ああ」
「何も言っていません」
「分かってる」
「どうして?」
「また聞く?」
「聞きます」
カイは少し困ったように笑った。
「離してる方が変な感じした」
「変?」
「物足りないっていうか……さっきまでずっと繋いでたから」
言いながら、自分でも少し恥ずかしくなった。
それでも。
手は離さない。
「だから、この方が落ち着く」
ソフィアの空色の瞳が一気に潤みかける。
「泣くなよ」
「泣きません」
「最近それ、信用できない」
「本当に泣きません」
「ならいいけど」
ソフィアは少しだけ顔を下げた。
嬉しすぎる。
まだ告白ではない。
好きだと言われたわけでもない。
それでも。
カイの中で、自分と触れ合うことが、何か理由を必要とする行動ではなくなり始めている。
護衛だから。
お忍びだから。
恋人設定だから。
そうではなく。
繋ぎたいから。
それだけ。
「カイ」
「何?」
「今日も、少し近くてもいいですか?」
「肩?」
「はい」
「いいよ」
以前なら、一瞬くらい理由を考えただろう。
今はほとんど迷わなかった。
ソフィアはゆっくり身体を寄せ、カイの肩へ頭を預ける。
銀色の髪が首元へ少し触れ、柑橘系の柔らかな香りが近づいた。
何度か経験したはず。
それなのに。
今日は。
以前より。
心臓が速い。
「カイ」
「何?」
「速いですね」
「何が?」
「心臓」
「……聞こえる?」
「少し」
カイは自分でも分かるほど顔が熱くなった。
「恥ずかしいな」
「私は嬉しいです」
「何で」
「私が近いからでしょう?」
すぐに否定。
できなかった。
誰が近くても同じ。
そう言えなかった。
むしろ。
ソフィアだから。
そうかもしれない。
「……多分」
小さく答えた。
ソフィアは目を閉じた。
「それだけで十分です」
今は。
それでいい。
◇◇◇
しばらく二人は何も話さず、ただ川を眺めていた。
水の流れる音が規則正しく続き、柳の枝が風に揺れる。遠くでは子供たちが遊んでいるらしく、時折小さな笑い声が聞こえてきた。
沈黙。
でも。
気まずくない。
むしろ。
カイには、この時間が心地よかった。
「ソフィー」
「はい」
「聞いていい?」
「何です?」
「婚約者って」
その一言で、ソフィアの身体がほんの少し強張った。
「どんな人?」
「またその話ですか?」
「ああ」
カイは川へ視線を向けたまま続ける。
「最近、気になる」
「護衛として?」
「前ならそう言った」
ソフィアが肩から少しだけ顔を上げる。
「今は?」
「それだけじゃない気がする」
小さな言葉。
でも。
今までより明確だった。
「どういう意味です?」
「分からない」
「またですか」
「分からないから聞いてるんだろ」
「では」
ソフィアは少し考える。
「何が気になります?」
カイも少し考えた。
「顔」
「はい」
「性格」
「はい」
「強いかどうか」
「はい」
「ソフィーをちゃんと大事にするか」
「はい」
ここまでは。
護衛。
として。
普通。
でも。
「他には?」
ソフィアが聞く。
カイは少し言葉に詰まった。
「……どれくらい」
「はい」
「ソフィーと近くなるのか」
ソフィアの目がわずかに揺れる。
「近く?」
「夫になるんだから」
「はい」
「多分、俺よりずっと近くなる」
それを口にした瞬間。
胸が少し重くなる。
「それが」
カイは僅かに眉を寄せた。
「面白くない」
昨日も似たようなことを言った。
けれど。
今日は。
もう少し。
自分の中へ踏み込む。
「どうしてでしょう?」
「だから分からない」
「本当に?」
ソフィアの声が少しだけ柔らかくなる。
「少しも?」
カイは黙った。
そして。
考えた。
昨日。
礼装を着た自分。
ソフィアの隣。
花婿みたいだと思った。
婚約者と同じような礼装。
それを聞いて。
嬉しくない自分がいた。
腕輪を婚約者に外せと言われる。
嫌だと思った。
ソフィアが自分の名前入りの腕輪を外すところなど想像したくなかった。
さらに。
自分がエレナを綺麗だと言っただけで。
ソフィアは不機嫌になった。
それを。
自分は。
少し嬉しいと感じた。
そこまで考えたところで。
ふと。
一つの言葉が浮かんだ。
「……嫉妬?」
ぽつり。
口から出た。
ソフィアが完全に固まる。
「カイ」
「今」
カイ自身も。
自分で。
驚いていた。
「そういうことなのか?」
空いている左手を胸へ当てる。
「俺、婚約者に嫉妬してる?」
ソフィアはすぐには答えなかった。
答えを知っている。
もちろん知っている。
でも。
ここで自分が決めてしまうのは違う。
「私に聞かないでください」
「だよな」
「でも」
「何?」
「その言葉は、忘れないでください」
「嫉妬?」
「はい」
「まだ確定じゃないぞ」
「それでもです」
カイは小さく笑った。
「本当に俺の気持ちを大事にするな」
「カイの気持ちですから」
「俺より?」
「今は、私の方が」
「変なの」
二人で少し笑う。
でも。
カイの胸の中には。
初めて。
一つ。
はっきりした言葉が置かれた。
◇◇◇
「もし」
ソフィアが静かに口を開いた。
「その気持ちが本当に嫉妬だとしたら」
「うん」
「何が一番嫌ですか?」
カイは少し考える。
「一番?」
「はい」
想像する。
ソフィア。
婚約者。
手を繋ぐ。
一緒に街を歩く。
近くで笑う。
肩へ寄りかかる。
お揃いの物を身につける。
自分ではない男が。
今、自分がしていることを。
全部。
する。
「……全部嫌かも」
ソフィアの指に強く力が入った。
「全部?」
「ああ」
「例えば?」
「俺と今日してること」
「はい」
「誰かと同じようにする」
「はい」
「それ、かなり嫌だな」
ソフィアの胸が大きく鳴る。
「手を繋ぐのも?」
「嫌」
「一緒に歩くのも?」
「嫌」
「私が、その人へ笑うのも?」
そこで。
カイは少し答えに詰まった。
想像。
する。
ソフィアが。
自分へ向けるのと同じ笑顔。
誰かへ。
向ける。
胸が。
思った以上に。
痛い。
「それも嫌」
小さく答えた。
ソフィアはしばらく何も言えなかった。
「何で泣きそうなんだよ」
「嬉しいからです」
「嫉妬されて?」
「はい」
「変じゃない?」
「全然」
ソフィアは笑った。
「とても嬉しいです」
「……そういうもの?」
「私には」
「そっか」
カイは少しだけ困ったように笑った。
そして。
自分でも。
どこか諦めたように。
小さく息を吐く。
「俺」
「はい」
「性格悪いかもな」
「どうして?」
「婚約者のこと、会ってもないのに嫌いになりそう」
ソフィアの表情が一瞬止まる。
「……嫌い?」
「ああ」
「どうして?」
カイは少しだけ考えた。
でも。
答え。
簡単だった。
「ソフィーと結婚するから」
言ったあと。
自分で。
その意味に気づく。
「……俺、今かなりすごいこと言った?」
ソフィアの頬が一気に赤くなった。
「かなり」
「やっぱり?」
「はい」
「忘れて」
「嫌です」
「知ってた」
二人で笑う。
でも。
その笑いの中には。
以前にはなかった。
甘い温度が。
確かに混じっていた。
◇◇◇
「ソフィー」
「はい」
「一つだけ聞いていい?」
「何です?」
「その婚約者」
また。
その話。
でも。
もう。
さっきまでとは意味が違う。
「俺のこと、知ってる?」
「とても」
「俺より?」
「多分」
「何で」
「秘密です」
「また!」
カイは思わず頭を抱えた。
「本当に何なんだ、その人」
「良い人ですよ」
「ソフィーがそう言うならそうなんだろうけど」
「はい」
「でも嫌い」
即答。
ソフィアは笑いそうになり。
必死で堪えた。
「その人が」
「うん」
「カイを大切に思っていても?」
「何で俺を?」
「仮の話です」
「変な仮定だな」
「それでも」
「……まあ」
カイは少し考える。
「俺が嫌いでも、向こうが俺に優しいなら、少し罪悪感はあるな」
「そうですか」
「でも、ソフィーと結婚するのは嫌」
「そこは変わらない?」
「今は」
その言葉。
ソフィアは。
聞き逃さない。
「今は?」
「ああ」
カイは川へ視線を戻した。
「これから変わるかもしれない」
ソフィアの胸が少しだけ締まる。
でも。
カイは続ける。
「変わらないかもしれない」
繋いだ指へ。
少し力がこもる。
「それでもいいです」
「いいの?」
「はい」
「婚約者なのに?」
「はい」
カイは思わず笑う。
「本当に変な人だな、その婚約者」
「そうでしょうか」
「妻になる人が別の男から嫉妬されて、その男を嫌わないんだろ?」
「嫌いません」
「心広すぎる」
「そうかもしれません」
ソフィアは小さく笑った。
自分。
婚約者。
今。
カイに。
嫌われている。
でも。
それが。
こんなにも。
嬉しい。
変な話。
でも。
幸せだった。
◇◇◇
少しして、ソフィアはゆっくりカイの肩から身体を起こした。
それでも。
手は。
繋いだまま。
「カイ」
「何?」
「もし」
「うん」
「その婚約者が」
「また?」
「大切です」
「分かった」
「カイに、私を譲ると言ったら?」
カイの表情が完全に止まった。
「……は?」
「仮の話です」
「いや」
「答えてください」
「譲るって」
カイは眉を寄せる。
「人を物みたいに」
「そこは今だけ置いてください」
「置ける?」
「仮定です」
ソフィアは譲らない。
カイはしばらく困ったように黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「もし婚約者が、ソフィーを俺にって?」
「はい」
胸が強く鳴る。
想像する。
ソフィアが。
自分の隣にいる。
今みたいに。
手を繋いで。
笑って。
誰にも取られない。
「……それ」
「はい」
「嬉しいかもしれない」
ソフィアの息が止まる。
「本当に?」
「ああ」
「私がカイのところへ行くのが?」
カイはもう少しだけ考えた。
でも。
すぐ。
現実。
身分。
周囲。
そういうものが。
頭へ戻る。
「でも」
「はい」
「多分、断る」
ソフィアの胸が少しだけ痛んだ。
でも。
予想。
していた。
「どうして?」
「ソフィーのため」
「私の?」
「ああ」
カイの表情が真剣になる。
「俺と一緒になったら、絶対色々言われる」
「はい」
「平民」
「はい」
「孤児」
「はい」
「姓もない」
「はい」
「第三皇女が選ぶ相手じゃない」
ソフィアの表情が少し曇る。
「またそれですか」
「事実だろ」
「事実ではありません」
「ソフィー」
「私が選ぶなら」
ソフィアの声が少し強くなる。
「それが事実です」
カイは黙った。
「でも」
「はい」
「周囲は」
「関係ありません」
「ある」
今度は。
カイが譲らない。
「ソフィーが傷つく」
「傷つきません」
「傷つく」
「どうして言い切れるのです?」
「分かるから」
「何が?」
「人間が」
カイは少しだけ苦く笑った。
「俺は、平民ってだけで散々言われた」
ソフィアの表情が変わる。
「騎士になっても、姫様付きになっても、今でもたまにある」
その話。
ソフィアは。
知っている。
全部ではない。
でも。
知っている。
ただ。
カイ本人は。
ほとんど口にしなかった。
「俺だけならいい」
「良くありません」
「でも」
「良くありません」
即答された。
カイは少しだけ笑った。
「分かった」
「本当に?」
「それはまた今度」
「逃げましたね」
「今は俺の話」
カイは少し真剣な顔になる。
「俺のせいで、ソフィーが陰で笑われたり、馬鹿にされたりするのは嫌なんだ」
ソフィアは何も言わない。
「そんなの」
カイの声が少し低くなる。
「耐えられない」
ソフィアの胸が痛む。
でも。
同じくらい。
嬉しい。
カイが断る理由。
それは。
自分が嫌だからではない。
守りたいから。
「だから」
カイは言葉を慎重に選ぶ。
「もしソフィーが俺を選ぶって言っても」
ソフィアはじっと見つめる。
「最初は」
カイが少し苦笑する。
「断ると思う」
ソフィアは小さく息を吐いた。
「最初は?」
その言葉を。
すぐ。
拾った。
カイが止まる。
「あ」
「最初は?」
「今のは」
「大切です」
「またそれ」
「どうして、最初はなのです?」
カイは少し考えた。
自分でも。
答え。
よく分からない。
「……何度も」
「はい」
「ソフィーが」
「はい」
「俺がいいって」
「はい」
「言ったら」
胸が。
少し速くなる。
「多分」
カイは少し困ったように笑った。
「最後までは断れないかも」
ソフィアが完全に固まった。
「……カイ」
「何?」
「今の」
「忘れて」
「絶対に嫌です」
「知ってる」
「本当に?」
「何が?」
「何度でも私がカイを選んだら」
ソフィアはゆっくり確認する。
「最後には」
カイは視線を少し逸らした。
「……分からない」
「でも」
「ああ」
「断れないかもしれない?」
カイの頬が少し赤い。
「かも」
ソフィアは笑った。
目が。
少し。
潤む。
「十分です」
「何が?」
「今は、それで」
カイには。
まだ。
分からない。
でも。
ソフィアが嬉しそうにしている。
それを見ると。
自分まで。
少し。
嬉しくなった。
◇◇◇
しばらく二人は静かに川を眺めた。
風が柳の枝を揺らし、水面には細かな光が流れていく。
時間が。
ゆっくり。
進む。
「ソフィー」
「はい」
「俺」
「はい」
「多分、前の距離には戻れない」
ソフィアが顔を上げる。
「どういう意味です?」
「姫様と騎士」
「はい」
「それだけだった頃」
カイは繋いだ手を見る。
「今は理由なく手を繋いで、名前入りの腕輪をつけて、二人きりならソフィーって呼んで」
「はい」
「婚約者に嫉妬してるかもしれなくて」
そこまで言って。
自分で。
少し笑った。
「これで昔の距離に戻れる気がしない」
ソフィアの目に涙が溜まりかける。
「嫌ですか?」
「……分からない」
でも。
カイはすぐに続ける。
「戻りたいとは思ってない」
ソフィアの胸がいっぱいになる。
「私もです」
小さく答える。
「私はずっと、戻りたくありませんでした」
今なら。
カイにも。
少しだけ。
その意味が分かる。
でも。
まだ。
全部ではない。
「……そうか」
それだけ答えた。
けれど。
繋いだ手は。
さっきより少し強く握られた。
◇◇◇
少し離れた場所では、マリアとリナを含む第四近衛騎士団の女性たちが、一般客を装いながら二人を警護していた。
「団長」
リナが小声で呼ぶ。
「何だ」
「今、嫉妬って自分で言いましたよね」
「ああ」
「もう教えてよくないですか?」
マリアは二人の背中を見ながら、少しだけ考えた。
「まだだ」
「まだ!?」
「声を抑えろ」
「でも、かなり来てますよ」
「自覚は始まった」
「はい」
「だが、あいつは今も自分が選ばれることを信じていない」
リナの表情も少し真剣になる。
「さっき、断るって言いましたね」
「ああ」
「姫様のために」
「あそこだ」
マリアは静かに答えた。
「自分が姫様を好きだと気づくだけでは足りない」
「自分が選ばれていいと、そこまで思えるようにならないと?」
「ああ」
マリアは小さく息を吐く。
「姫様は、そこまで連れていくつもりなのだろう」
リナは少し遠い目をした。
「大変ですね」
「相手がカイだからな」
「その一言で全部説明できますね」
「便利だろ」
「団長も使うんですね」
マリアは小さく笑った。
◇◇◇
陽が傾き始めた頃。
二人は柳の木を離れ、中央広場へ戻る道を歩いていた。
手はまだ繋いだままだった。
もう。
どちらも。
理由を言わない。
「ソフィー」
「はい」
「明日」
「はい」
「少し、二人きりで話したい」
ソフィアの足がほんの少しだけ遅くなる。
「何をです?」
「今日の続き」
「嫉妬の?」
「そこをはっきり言うなよ」
「大切です」
「またそれ」
カイは笑う。
でも。
少しして。
真面目な顔になる。
「まだ、整理できてない」
「急ぎません」
「でも」
「はい」
カイはソフィアを見る。
「逃げない」
その言葉に。
ソフィアの目が少し潤む。
「本当に?」
「ああ」
「身分を理由に?」
カイは少しだけ止まる。
「それはまだ怖い」
「はい」
「でも」
自分の胸元へ手を当てる。
「まずは、俺がソフィーをどう思ってるのか」
ゆっくり言う。
「ちゃんと考える」
ソフィアは柔らかく笑った。
「それで十分です」
「本当に?」
「今は」
少しだけ。
意味ありげに。
「今は、です」
「先が怖いな」
「逃がしません」
「やっぱり?」
「はい」
カイは思わず笑った。
「姫様だな」
「今はソフィーです」
「そうだった」
二人の笑い声が春の風に乗り、静かに遠くへ流れていった。
◇◇◇
白銀宮へ近づくにつれ、人通りが増えてきた。
カイは繋いでいた手を見下ろす。
「そろそろ離すか」
「……はい」
ソフィアの声は少しだけ寂しそうだった。
それでも。
ゆっくり。
指を離す。
その瞬間。
カイはやっぱり。
少しだけ。
物足りなさを感じた。
「ソフィー」
「はい?」
「明日」
「はい」
「二人きりになったら」
カイは少しだけ照れたように視線を逸らす。
「また手、繋いでいい?」
ソフィアの目が大きくなる。
「聞かなくていいです」
「え?」
「カイが繋ぎたいと思った時に」
ソフィアは胸元へ手を当て、柔らかく笑った。
「いつでも」
カイの頬が少しだけ赤くなる。
「分かった」
「約束です」
「ああ」
二人の手は離れた。
でも。
腕輪は残る。
夜空石。
空雫石。
互いの名前。
婚約者の正体を、カイはまだ知らない。
けれど今日。
初めて。
自分の胸の苦しさへ。
嫉妬という言葉を置いた。
ソフィアが誰かに取られることが嫌だと。
自分ではない誰かの隣に立つことが嫌だと。
少しずつ。
認め始めた。
婚姻式まで。
あと二月。
答えはまだ出ていない。
けれど。
昨日より。
確実に。
近い。
ソフィアがずっと待っている、その言葉へ。
カイ自身が。
自分の足で。
少しずつ。
近づき始めていた。




