第11話 第三皇女様、どうして俺の礼装だけ花婿みたいなんですか?
翌朝の第四近衛騎士団訓練場には、まだ夜の冷気がわずかに残っていた。
東の空から差し込み始めた朝日は石壁の上を淡い金色に染め、昨夜の湿気を含んだ地面の上には、騎士たちの足跡が幾重にも重なっている。朝の静けさを切り裂くように、二本の木剣が激しく打ち合う乾いた音が何度も響いていた。
「そこ、踏み込みが浅い!」
カイは正面から振り下ろされた木剣を半歩だけ身体をずらしてかわすと、そのまま相手の懐へ滑り込んだ。
向かいの青年騎士も慌てて剣を引き戻そうとしたが、一瞬遅い。カイの木剣が胸当ての中央へ軽く触れたところで、審判役の騎士が右手を上げた。
「そこまで!」
張り詰めていた空気が解け、見守っていた騎士たちから一斉に息が漏れる。
対戦していた青年は悔しそうに肩を落とし、木剣を下ろした。
「……参りました」
「昨日より良かったぞ。最初の入り方も悪くなかった」
「勝った人に言われても慰めにならないんですけど」
「本当に良くなっていたから言ってるんだ」
カイは笑いながら右手を差し出した。
青年騎士もぶつぶつ言いながらその手を取り、勢いをつけて立ち上がる。ただ、その直後に青年の視線がカイの右手首へ落ちたのを、カイは見逃さなかった。
「何だ?」
「いや、別に」
「今、明らかに手首を見ただろ」
「気のせいです」
「最近、その言葉が城中で流行ってないか?」
カイが眉を寄せると、周囲にいた騎士たちから小さな笑いが起きた。
嫌な予感がする。
そして最近、その予感はかなりの確率で当たる。
「お前、何か知ってるな?」
「何も知りませんよ」
「だったら何で笑ってる?」
「今日なんですよね?」
「何が?」
「ほら、あれですよ。例の腕輪」
カイの表情が止まった。
すると、それまで無関係を装っていた騎士たちが一斉にこちらへ意識を向ける。剣の手入れをしていた者まで、分かりやすく手を止めていた。
「……何で知ってるんだ」
「第四近衛騎士団で知らない人、いるんですか?」
「いるだろ普通! 何で俺の私物の話が騎士団全体に広まってるんだよ!」
「だって第三皇女殿下とお揃いで、しかも互いの名前入りなんでしょう?」
「情報が細かすぎる!」
朝の訓練場にカイの声が響き、周囲からさらに笑いが起こった。
誰が話した。
マリア。
リナ。
あの日城下で周囲を警護していた女性騎士たち。
候補が多すぎて、犯人を絞り込めない。
「別に変な意味じゃないからな」
「まだ誰も何も言ってませんけど」
「顔が言ってる」
「どんな顔ですか?」
「面白がってる顔」
「まあ、面白いですけど」
「次の模擬戦、俺とやるか?」
「申し訳ありませんでした!」
青年騎士は一瞬で姿勢を正した。
周囲からまた笑い声が広がる。
カイが呆れながら木剣を肩へ担いだところで、訓練場の入口から聞き慣れた声が飛んできた。
「朝から随分楽しそうだな」
騎士たちの笑いが少しだけ小さくなる。
栗色の髪を高い位置でまとめた第四近衛騎士団長マリアが、いつもの騎士服姿でこちらへ歩いてきていた。
「団長」
「新人を脅すな」
「脅してません」
「模擬戦を申し込んだのだろう?」
「騎士同士の公平な勝負を提案しただけです」
「顔が完全に報復を考えている男のものだったが」
「それは気のせいです」
「便利な言葉を覚えたな」
マリアは口元を緩める。
カイは少し不満そうに眉を寄せたが、すぐに木剣を脇へ下ろした。
「それで、団長が訓練場へ来たということは、何かあるんですか?」
「ああ。お前は今日はここまでだ」
「まだ合同訓練は終わってませんよ」
「今日は別の予定が入っている」
その瞬間、周囲の騎士たちの笑みが深くなった。
カイは嫌な予感を覚えながらマリアを見る。
「……姫様ですか?」
「そうだ」
「昨日も会いましたけど」
「だから今日は会わないという決まりでもあるのか?」
「そういう意味ではありません」
「なら問題ないな」
マリアは何でもないことのように答えた。
「今日は仕立て職人が白銀宮へ入る。お前の礼装の採寸をするそうだ」
「ああ……」
昨日の話が蘇る。
第三皇女ソフィアの婚姻礼装。
その話の途中で、なぜか自分まで婚姻式用の礼装を新調することになった。
専属騎士としての特別礼装。
ソフィアはそう説明していた。
多少引っかかるものはあったが、皇族の婚姻式なら、傍へ立つ専属騎士も普段以上に格式の高い装いを求められるのだろう。
それで納得していた。
「採寸なら、訓練が終わってからでもいいでしょう?」
「姫様が待っている」
「またですか?」
「また、とは何だ」
「昨日も一昨日も、待ってるって言われた気がするんですけど」
「実際待っているのだから仕方ない」
マリアは腕を組み、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「今朝も確認されたぞ。『カイは何刻頃に来ますか』とな」
「そんなに俺の採寸が楽しみなんですかね」
「……そうだな」
妙な間があった。
カイはすぐに気づく。
「今、何か隠しました?」
「何も」
「団長、最近隠し事が下手になってません?」
「お前が妙なところだけ鋭くなったんだ」
「妙なところって何です?」
「いいから急げ。着替えて白銀宮へ行け」
マリアはそこで一度言葉を切り、少しだけ表情を和らげた。
「それから、採寸が終わったら城下へ出る」
「腕輪ですね」
「ああ」
その言葉を聞いた瞬間、カイの口元が自分でも分かるほど少し緩んだ。
マリアは見逃さない。
「楽しみか?」
「……まあ」
「まあ?」
「楽しみですよ」
素直に言い直すと、マリアは満足そうに頷いた。
「そうか」
「何です?」
「いや。良いことだと思ってな」
「腕輪が?」
「それも含めてだ」
「本当に最近、皆言い方が意味深なんですよ」
「気のせいだ」
「またそれ!」
訓練場に再び笑い声が起こる。
カイはもう追及を諦め、木剣を片づけることにした。
今日。
あの腕輪が完成する。
自分の右手には、ソフィーという名が刻まれた腕輪がつく。
そう考えるだけで、妙に心が落ち着かなくなる。
以前なら、皇女と揃いの品を持つなど身分にそぐわないと戸惑っていたはずなのに。
今は。
楽しみだった。
そのことだけは、もう素直に認められるようになっていた。
◇◇◇
訓練を切り上げたカイは詰所で汗を流し、身体を拭いてから、いつもの濃紺の近衛騎士服へ着替えた。
剣帯を締め、襟元を整えて白銀宮へ向かう。
婚姻準備が本格化してからというもの、白銀宮周辺では日に日に人の出入りが増えていた。今日も回廊では侍女たちが何着もの衣装を運び、反対側からは大きな箱を抱えた使用人や、仕立て関係らしい職人たちが行き交っている。
その光景を目にするたび、カイは婚姻というものが少しずつ現実になっているのを感じた。
あと二月。
ソフィアが結婚する。
それ自体は喜ばしい。
そう思っている。
思っているはずなのに。
準備が進むほど、胸の奥へ説明のつかない重さが増していく。
婚姻式の衣装。
婚約者の礼装。
その人の隣に立つソフィア。
自分ではない誰かが、一番近い場所にいる未来。
「……何考えてるんだ」
カイは歩きながら小さく呟いた。
主君。
第三皇女。
婚約者がいる。
自分は平民で、孤児で、姓もない。
深く考えるべきことではない。
そう自分へ言い聞かせながら白銀宮の私室前へ到着し、扉を叩いた。
「姫様、カイです」
「入ってください!」
返事が早い。
本当に待っていたらしい。
「失礼します」
扉を開くと、いつもの私室は昨日以上に衣装や布で埋め尽くされていた。
壁際には白、青、銀を中心にした布が何本も掛けられ、卓上には金糸や銀糸の刺繍見本、装飾用の宝石、飾緒や留め具が丁寧に並べられている。
その中央。
淡い白銀色のドレスを身につけたソフィアが振り返った。
「カイ」
顔を見るなり、空色の瞳がぱっと明るくなる。
「お待たせしました」
「思ったより早かったですね」
「団長に追い出されました」
「マリアには後でお礼を言わなければ」
「俺の訓練時間を削ったんですけど」
「私の方が大切です」
「そういう話じゃありません」
カイが苦笑する。
そこで、今日のソフィアの装いが改めて目に入った。
銀色の髪はいつもより少し低い位置でまとめられ、白銀のドレスには淡い青色の刺繍が施されている。婚姻礼装ほど華やかではないはずなのに、澄んだ空色の瞳とよく調和していて、いつも以上に目を引いた。
しばらく見ていたらしい。
ソフィアが首を傾げる。
「どうしました?」
「いや」
「何か変ですか?」
「逆です」
「逆?」
「よく似合ってます」
カイは深く考えずに答えた。
ソフィアの動きが止まる。
数秒遅れて、その頬がほんのり赤く染まった。
「……ありがとうございます」
「何です、その反応」
「何でもありません」
「まだ二人きりじゃないですよ」
「それが何です?」
「最近、その言葉を使う時って、大体何か隠してるから」
カイが周囲へ視線を向けると、エマと侍女たち、さらに仕立て職人たちまで揃って顔を逸らした。
「皆も何ですか?」
「何でもございません」
エマが代表して答える。
「絶対何かあるでしょう」
「カイ」
ソフィアが呼ぶ。
「こちらへ来てください」
「採寸ですよね」
「はい」
「姫様は見ているだけですか?」
「もちろんです」
「その笑顔が不安なんですけど」
そんなやり取りをしながら、カイは仕立て職人たちの前へ進んだ。
代表の年配女性が恭しく一礼する。
「ではカイ様、まず上着をお脱ぎいただけますか」
「様はいりません。それと……ここでですか?」
「はい」
カイは周囲を見回した。
エマ。
侍女。
仕立て職人。
ソフィア。
見事なまでに女性しかいない。
「別室では駄目ですか?」
「なぜです?」
ソフィアが本気で不思議そうな顔をする。
「いや、俺以外全員女性なので」
「上着だけですよ?」
「それはそうですけど」
「訓練場ではもっと薄着で剣を振っているでしょう?」
「あれは騎士同士です」
「私も何度も見ています」
「姫様は勝手に見学へ来るだけでしょう!」
「では、今さら問題ありませんね」
「何でそうなるんですか」
侍女たちから堪えきれない笑いが漏れた。
カイは天井を見上げる。
味方はいない。
完全に諦めた。
「分かりましたよ」
濃紺の上着を脱ぎ、剣帯も外して近くの台へ置く。
白いシャツだけになると、仕立て職人たちの表情が一気に仕事のものへ変わった。
「腕を軽く広げてください」
「はい」
柔らかな布尺が肩から背中へ回される。
肩幅、胸囲、腰、腕の長さ、首周り。
次々に数字が読み上げられ、補佐の女性が帳面へ書き込んでいく。
採寸自体は初めてではない。
騎士礼装を作った時にも経験した。
だが、今回は妙に細かい。
「前回より肩幅が広くなっておりますね」
「訓練してますから」
「胸囲も少し増えております」
「それなら、今の礼装を少し直すだけでも良いのでは?」
「今回は型そのものが異なりますので」
カイが眉を寄せた。
「型?」
「はい」
「普通の近衛騎士礼装とは違うんですか?」
「格式が一段……いえ、かなり上がります」
「専属騎士だから?」
「……はい」
わずかな間。
聞き逃さなかった。
「今、間がありましたよね?」
「ございません」
「いや、ありました」
「気のせいでございます」
カイはゆっくり仕立て職人からソフィアへ視線を移した。
ソフィアは顔を逸らしている。
エマまで目を閉じていた。
「本当に何なんですか、この城」
「カイ、細かいことは気にしない方がいいですよ」
「姫様がそれ言います?」
「婚姻準備には秘密も必要なのです」
「初めて聞きました」
ソフィアは柔らかな笑みで誤魔化した。
怪しい。
非常に怪しい。
だが、ここまで全員が同じような態度を取るなら、婚姻式当日まで明かせない何らかの儀礼上の決まりがあるのかもしれない。
皇族の婚姻には、自分の知らない作法が山ほどある。
カイはそう考えることにした。
「では、こちらを一度羽織ってくださいませ」
職人が奥から仮縫いの礼装を持ってきた。
それを見た瞬間。
カイは目を瞬いた。
「……え?」
白を基調とした長衣。
襟から胸元へ流れる銀糸の刺繍。
肩には帝国皇族を象徴する深い青が配され、腰帯には儀礼剣を吊るすための銀細工まで施されている。
まだ仮縫いの段階にもかかわらず、普段の近衛騎士礼装とは明らかに格が違った。
「これ、俺が着るんですか?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「間違ってません?」
「間違っておりません」
カイは礼装を見る。
ソフィアを見る。
もう一度礼装を見る。
「派手すぎません?」
「私は素敵だと思います」
「姫様は豪華な服を見慣れてるでしょう」
「カイにも似合います」
「まだ着てませんよ」
「似合います」
自信満々。
なぜそこまで言い切れるのか。
「いや、でも……」
カイは改めて礼装を眺めた。
どう見ても。
ただの騎士が着る服には見えない。
そして、とうとう思ったことをそのまま口にした。
「これ……花婿みたいじゃないですか?」
部屋が静まり返った。
今まで衣擦れの音や筆記音が聞こえていたはずなのに、本当に一瞬だけ時間が止まったようだった。
カイはゆっくり周囲を見回す。
ソフィアは固まっている。
エマは目を閉じた。
仕立て職人の代表は、ほんの一瞬だけ天井を見上げた。
侍女たちまで揃って視線を逸らしている。
「……何です?」
誰も答えない。
「姫様?」
「な、何です?」
声が少し上ずっていた。
「本当に俺用ですよね?」
「もちろんです」
「専属騎士用?」
「はい」
「第三皇女付きの近衛騎士が、こんな花婿みたいな格好するんですか?」
「今回は特別なのです」
「何で?」
「私の婚姻式だからです」
「それは知ってます」
「なら問題ありません」
「いや、ありますよ」
カイは思わず礼装を指差した。
「俺が姫様の婚姻式でこんな格好して隣へ立ったら、婚約者が嫌がるでしょう」
「嫌がりません」
即答だった。
「またそれ!」
「本当に嫌がりません」
「何でそんなに婚約者の気持ちが分かるんです?」
「よく知っていますから」
「心広すぎません?」
「そうでしょうか」
「俺なら嫌です」
何気なく言った。
その瞬間。
ソフィアの目がわずかに大きくなる。
「カイなら?」
「はい?」
「カイが婚約者なら、嫌なのですか?」
「そりゃ……」
カイは少しだけ考えた。
自分の婚姻式。
自分の妻。
そのすぐ近くに、別の男。
しかも花婿のような礼装。
「自分の婚姻式で、妻の近くに他の男が同じくらい目立つ格好で立ってたら、面白くないでしょう」
「面白くない」
「はい」
「嫌?」
「嫌ですね」
ソフィアの口元が少しだけ緩んだ。
カイは見逃さない。
「何で嬉しそうなんです?」
「何でもありません」
「絶対何かありますよね」
「ありません」
「でも」
「カイ」
ソフィアは話を切るように仮縫い礼装を指差した。
「着てください」
「逃げましたね?」
「採寸が進みません」
「絶対逃げた」
「お願いします」
最後だけ。
少し声が柔らかくなった。
命令ではなく。
お願い。
昔から。
カイはこれに弱い。
「……分かりましたよ」
結局、折れた。
ソフィアは満面の笑みを浮かべた。
◇◇◇
仮縫い礼装へ袖を通し、鏡の前へ立ったカイは、しばらく何も言えなかった。
白と銀を中心にした礼装は、いつもの濃紺の騎士服とは印象がまるで違う。胸元には帝国紋章が入り、肩から腰へ流れる布には深い青色が差し色として使われている。
まだ装飾のすべてが揃っていないにもかかわらず、ひと目で特別な日の衣装だと分かる。
「……本当に花婿みたいだな」
鏡を見ながら思わず呟いた。
背後でソフィアの息が止まった気配がした。
「姫様?」
「何でもありません」
「顔、赤くないですか?」
「部屋が暑いのです」
「また?」
「今日は布が多いので」
確かに室内には大量の布がある。
でも、それでここまで頬が赤くなるものだろうか。
「どうです?」
ソフィアがゆっくり近づいてきた。
「着心地は?」
「思ったより軽いです」
「見た目は?」
「派手」
「それだけですか?」
「自分で自分を格好いいって言わせたいんですか?」
「私が聞いているのです」
逃げられそうにない。
カイは改めて鏡の中の自分を見た。
見慣れない。
だが。
「まあ……悪くはないと思います」
「とても似合っています」
ソフィアが迷いなく言った。
カイは少し驚き、鏡越しに彼女を見る。
「そんなに?」
「はい」
ソフィアの表情は真剣だった。
「本当に、とても似合っています」
ただ褒めているだけではない。
声が柔らかい。
目も。
どこか愛おしいものを見るようで。
カイは、なぜか胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
「……ありがとう」
照れくさくなり、視線を少し逸らす。
「婚約者も、こんな感じの礼装なんですか?」
何気なく尋ねた。
「ほとんど同じです」
ソフィアが答える。
そして。
二人とも。
数秒遅れて。
その意味に気づいた。
「……ほとんど同じ?」
「……はい」
「婚約者と?」
「……はい」
「俺の礼装が?」
「……格式が近いという意味です」
明らかに誤魔化した。
カイは眉を寄せる。
「本当にいいんですか?」
「何がです?」
「専属騎士が、婚約者と同じくらい格式の高い礼装を着て」
「必要なのです」
「何で?」
「婚姻式だからです」
「答えになってないですよね?」
また同じところへ戻ってきた。
仕立て職人たちは黙々と作業しているふりをしている。
しかし全員、絶対に聞いている。
カイにも分かった。
「まあ……陛下が許可してるならいいですけど」
結局。
そこで思考は止まる。
第三皇女の婚約相手。
自分ではない。
平民。
孤児。
姓すらない。
どれほど条件が重なっても、自分という答えだけは最初から候補へ入らない。
ソフィアは、そのことを分かっている。
だからこそ今は、無理に答えを押しつけない。
「殿下」
仕立て職人の代表が声をかける。
「色合わせのため、カイ様の隣へお立ちいただけますか」
「はい」
ソフィアは待っていましたとばかりにカイの隣へ立った。
「何で姫様と色合わせするんです?」
「婚姻式全体の調和を確認いたします」
「俺の礼装と?」
「はい」
「普通、婚約者とするものでは?」
「……カイ様は殿下のすぐ近くへ立つ予定ですので」
年配職人の声は落ち着いていた。
だが、わずかに苦しそうだった。
カイはまだ納得し切れない顔をしながらも、鏡へ視線を戻す。
白銀の礼装を着た自分。
その隣には、淡い白銀色のドレスを着たソフィア。
銀髪。
空色の瞳。
自分の礼装へ入った深い青。
不思議なほど色が調和している。
「……」
気づけば。
少し長く。
見ていた。
「カイ?」
ソフィアが気づく。
「どうしました?」
「いや」
「何か変ですか?」
「逆」
「また?」
カイは少し笑った。
「並ぶと、本当に婚姻式みたいだなと思って」
ソフィアの顔が一気に赤くなった。
「そ、そうですか?」
「ああ」
「私と並ぶのは嫌ですか?」
「嫌なわけないだろ」
即答だった。
言った後。
カイ自身が少し驚く。
でも。
訂正する気はなかった。
「むしろ」
「むしろ?」
ソフィアが期待するように見上げる。
カイは鏡越しに彼女を見る。
「……似合ってると思う」
「何が?」
「二人の色」
ソフィアの肩がほんの少しだけ落ちた。
「そこですか」
「何を期待したんです?」
「何でもありません」
「またそれ」
カイは笑った。
ソフィアも少し遅れて笑う。
鏡の中。
二人が並んで笑っている。
それは。
周囲の誰が見ても。
花嫁と花婿だった。
カイ以外には。
◇◇◇
採寸と仮縫いの確認が終わる頃には、朝からかなり時間が経っていた。
カイはいつもの近衛騎士服へ着替え直し、ようやく落ち着いたと息を吐く。
「やっぱりこっちの方が楽ですね」
「私は先ほどの方が好きです」
「姫様が着るわけじゃないでしょう」
「見る側です」
「それなら分からなくもないですけど」
「婚姻式が楽しみです」
ソフィアが自然に言う。
その瞬間。
カイの胸の奥が、また少し沈んだ。
「……そうですね」
返事がわずかに遅れた。
ソフィアはすぐに気づく。
「カイ」
「はい?」
「今、また寂しそうな顔をしました」
「そうですか?」
「はい」
ソフィアが一歩近づく。
周囲にはまだエマや仕立て職人たちがいる。
それでも声を落とし、カイだけへ届くように尋ねた。
「婚姻式を考えると、寂しいですか?」
カイはすぐに答えられなかった。
昨日。
似たような話をした。
誤魔化すこともできる。
だが。
ソフィアからは、もっと分かりやすく言ってほしいと言われた。
自分も、分かりやすい人の方が好きだと言った。
「少し」
カイは素直に認めた。
「どうしてでしょう?」
「分からない」
「私が結婚するから?」
「多分」
「私が、誰かの妻になるから?」
その言葉で。
胸の奥に残っていた小さな棘が、少し強く刺さった。
「……それを考えると」
カイは眉を寄せる。
「何か、面白くない」
ソフィアの目が大きくなる。
カイ自身も、口にしてから自分の言葉へ驚いた。
「おかしいよな」
「おかしくありません」
「いや」
カイは困ったように笑う。
「幸せになってほしいとは思ってるんだ」
「はい」
「婚約が決まった時も、本当に嬉しかった」
ソフィアの眉がわずかに動いた。
「……あれは本当に嬉しそうでしたね」
「怒ってます?」
「少し思い出しました」
「ごめん」
「いいです」
ソフィアは小さく息を吐く。
「続けてください」
「でも」
カイは自分の胸元へ手を当てた。
「最近、婚約者の話を聞くたびに、ここが変なんだ」
「変?」
「ざわつくっていうか」
知らない男と手を繋ぐソフィア。
知らない男の隣で笑うソフィア。
誰かの妻になるソフィア。
想像するだけで。
何となく。
嫌だ。
「……何なんだろうな」
カイは小さく呟いた。
ソフィアは答えを知っている。
誰より。
知っている。
でも。
今は言わない。
「私が教えてもいいのですか?」
「分かるなら教えてほしいけど」
「駄目です」
「何で」
「大切だからです」
ソフィアは真剣な表情で答えた。
「その気持ちは、カイ自身が見つけてください」
「難しいな」
「頑張ってください」
「無責任だ」
「婚姻準備ですから」
「またそれ」
二人で少し笑う。
その様子を見ていたエマが、静かに侍女たちへ目配せした。
「姫様」
「何です?」
「片づけに少し時間がかかりますので、皆で一度外へ運び出してまいります」
分かりやすい人払いだった。
ソフィアも一瞬だけ目を瞬いたが、すぐ意図を理解した。
「お願いします」
エマ。
仕立て職人。
侍女たち。
次々に部屋を出ていく。
扉が閉じる。
残ったのは。
二人だけ。
「……気を遣われましたね」
カイが苦笑する。
「そうですね」
「最近、侍女たちまで妙に協力的じゃないです?」
「良いことではありませんか」
「何に?」
「何でもありません」
「絶対言わないな」
カイが笑う。
そして。
今度は本当に自然に。
「ソフィー」
呼んだ。
ソフィアは一瞬だけ息を止める。
もう。
二人きりになれば。
この呼び方が当たり前になりつつある。
「はい」
「さっきの」
「何です?」
「胸のざわつき」
「はい」
「自分で考えろって言ってたけど」
「はい」
「ヒントくらいない?」
「ありません」
「酷い」
「では、一つだけ」
ソフィアは少し考え、表情を柔らかくした。
「その気持ちを、嫌わないでください」
カイの顔から笑みが少し消える。
「嫌う?」
「はい」
「どうして?」
「カイは、自分の中に私へ向けてはいけない感情があると思ったら、きっと捨てようとします」
カイは何も答えなかった。
図星だった。
身分。
主君。
婚約者。
もし。
今感じているものが。
持ってはいけない感情なのだとしたら。
おそらく。
自分は。
押し殺そうとする。
「だから」
ソフィアの声が柔らかくなる。
「すぐに駄目だと決めないでください」
「……」
「何なのか分からないなら、分かるまで持っていてください」
ソフィアは一歩だけ近づいた。
カイも。
今回は逃げない。
「ソフィーは、それでいいの?」
「はい」
「俺が変な気持ちを持ってても?」
「はい」
迷い。
ない。
「むしろ」
ソフィアは少し笑った。
「大切にしてください」
「そこまで?」
「はい」
カイは困ったように息を吐いた。
けれど。
不思議と。
少しだけ胸が軽くなった。
「分かった」
「本当?」
「すぐには捨てない」
「約束です」
「ああ」
ソフィアは右手を少しだけ差し出す。
カイはそれを見る。
「また?」
「約束ですから」
「握手?」
「……普通に手を繋いでもいいです」
少しだけ恥ずかしそう。
でも。
ちゃんと。
言う。
カイは思わず笑った。
「正直だな」
「分かりやすい方が好きなのでしょう?」
「言ったけど」
「努力しています」
「確かに」
カイはその手を取った。
護衛のためではない。
お忍びでもない。
恋人設定でもない。
ただ。
ソフィアが繋ぎたいと言ったから。
自分も。
嫌ではないから。
「これでいい?」
「はい」
ソフィアの指が、少しずつカイの指へ絡む。
カイも。
もう驚かない。
自然に握り返す。
「慣れたな」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない」
「では問題ありません」
「その流れ、何回目だ」
「何回でも使います」
二人で笑う。
胸のざわつきは消えない。
でも。
今は。
それを消したいとは。
思わなかった。
◇◇◇
しばらくして、ソフィアが思い出したように顔を上げた。
「カイ」
「何?」
「そろそろ行きましょう」
「どこへ?」
ソフィアが信じられないものを見るような目を向けてくる。
「カイ」
「何?」
「本当に忘れました?」
「何を?」
「腕輪です!」
「あ」
「今、あって言いました!」
「忘れてない!」
「絶対忘れていました!」
「採寸で頭がいっぱいだっただけだ!」
「楽しみにしていると言ったのに!」
「楽しみだよ!」
「なら忘れないでください!」
「忘れてないって!」
さっきまで少し甘かった空気は一瞬で消え、いつもの言い合いへ戻る。
それなのに。
二人の手は。
まだ繋がったまま。
どちらからも離そうとしない。
カイはそれに気づき、少しだけ笑った。
「ほら」
「何です?」
「行こう」
「……はい」
ソフィアは少し拗ねた顔をしている。
「腕輪」
「楽しみ」
「本当に?」
「本当に」
「私とお揃いですよ」
「ああ」
「名前も入っています」
「知ってる」
「ずっとつけますか?」
「約束しただろ」
それを聞いた瞬間、ソフィアの機嫌がすぐに戻る。
「では行きましょう」
「切り替え早いな」
「嬉しいので」
カイもつられて笑った。
そして。
部屋を出る前。
「ここからは離すぞ」
そう言う。
ソフィアはすぐには手を離さなかった。
「あと少し」
「昨日も言ってたな」
「少しだけです」
「廊下に人いるだろ」
「扉のところまで」
「仕方ないな」
カイは笑いながらそのまま歩く。
扉の前へ着くと、繋いでいる手を見下ろした。
「ソフィー」
小さな声。
「今日はここまで」
ソフィアの顔がぱっと明るくなる。
「はい」
指がゆっくり離れる。
手は離れた。
でも。
温もりは。
しばらく残った。
◇◇◇
昼前の中央広場には、三日前と同じような穏やかな賑わいが広がっていた。
今日は前回ほど大がかりな変装ではない。カイは深い灰色のシャツに濃紺の上着、黒いズボンを身につけ、ソフィアは前回と同じ淡い水色のワンピースと白い帽子を選んでいた。
「またその服なんだな」
カイが言う。
ソフィアの表情が少しだけ不安になる。
「嫌ですか?」
「まさか」
カイは首を横へ振った。
「似合ってる」
以前よりも。
ずっと自然に。
口から出る。
ソフィアの頬が少し赤くなる。
「ありがとうございます」
「そんなに毎回照れる?」
「カイが言うからです」
「褒めろって言ったのソフィーだろ」
「言われても慣れません」
「難しいな」
「でも言ってください」
「もっと難しい」
二人で笑う。
少し離れた場所には、今日もマリアたち第四近衛の女性騎士が一般人を装って散らばっていた。
だが。
もう。
カイは前ほど彼女たちの視線を気にしない。
「じゃあ行くか」
「はい」
ソフィアが手を差し出そうとする。
その前に。
カイが右手を差し出した。
「ほら」
ソフィアの動きが止まる。
「……カイから」
「ああ」
「私、まだ何も言っていません」
「人多いから」
護衛。
理由。
言う。
でも。
以前のように。
それだけだと必死に言い張らない。
「嫌なら別に」
「嫌ではありません!」
即答。
ソフィアが手を取る。
指が絡む。
カイも自然に握り返した。
少し離れた場所で見ていたマリアが、小さく息を吐く。
「もう当たり前になってきたな」
隣にいたリナも頷く。
「ですね」
「カイから手を出した」
「見ました」
「姫様、今の顔」
「完全に恋する女の子ですね」
「公の場で言うな」
「小声です」
「それでもだ」
マリアは二人の背中を見ながら、少しだけ表情を真剣なものへ変えた。
「ただ、まだ急ぐな」
「まだですか?」
「まだだ」
「かなり近いですよ」
「ああ。だからこそだ」
マリアは静かに続ける。
「カイは、自分の感情が身分を越えていいものだと知らない」
「自覚したら逃げますか?」
「姫様からではない」
マリアはわずかに目を細めた。
「自分の気持ちから逃げる」
リナも少し真剣な顔になる。
「面倒ですね」
「恋なんてそんなものだろ」
「団長、経験あるんです?」
マリアが無言でリナを見る。
それだけで。
リナは理解した。
「次の訓練、お前は私とだ」
「すみませんでした」
◇◇◇
雑貨店の扉を開くと、頭上の銀色の鈴が軽やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」
前回と同じ女性店員が、二人を見るなりすぐに笑顔になった。
「あ、お二人とも。お待ちしておりました」
「こんにちは」
ソフィアも嬉しそうに笑う。
「できていますか?」
「もちろんです。少々お待ちください」
店員はそう言い残し、奥へ入っていった。
カイはカウンターへ視線を向ける。
三日前。
ここで。
石を選んだ。
ソフィアは。
自分を思い浮かべて。
夜空石。
自分は。
ソフィアの瞳を思い浮かべて。
空雫石。
あの時はまだ、護衛の証だと思っていた。
それでも。
今考えると。
あの時から。
ただの主君への贈り物とは。
少し違っていたのかもしれない。
「カイ?」
ソフィアが覗き込む。
「何?」
「緊張しています?」
「少し」
「腕輪なのに?」
「ソフィーもだろ」
「はい」
ソフィアは素直に頷いた。
「とても」
「同じだな」
カイは笑う。
ソフィアも少し照れたように笑った。
そこへ店員が戻ってくる。
「お待たせいたしました」
両手には小さな箱が一つ。
それをカウンターへ置き、ゆっくり蓋を開く。
二つの腕輪が並んでいた。
深い茶色の革紐。
銀色の小さな金具。
一方には、黒に近い色の中へ深い青が浮かぶ夜空石。
もう一方には、淡い空色の中へ白い模様が溶け込む空雫石。
「……綺麗」
ソフィアが小さく呟いた。
カイも。
同じことを思った。
「こちらが夜空石、こちらが空雫石です。裏面もご確認ください」
店員が一つずつ持ち上げる。
ソフィア用の金具。
裏側。
そこには。
カイ。
自分の名前。
ソフィアは指先でその文字をそっとなぞった。
「……カイ」
呼ぶ声が。
いつもより。
ずっと柔らかい。
「入ってるな」
「はい」
今度はカイ用。
裏側には。
ソフィー。
その名。
自分の腕へ。
これがつく。
そう思うと。
胸が。
少しだけ。
速くなる。
「本当に入ったな」
「嬉しくないですか?」
「嬉しいよ」
今度は迷わない。
ソフィアが嬉しそうに笑う。
「よかった」
「こちらで問題ございませんか?」
店員に聞かれ。
二人はほとんど同時に答えた。
「はい」
その重なりに。
店員の笑みが少し深くなる。
「よろしければ、その場でおつけになりますか?」
「はい!」
ソフィアの返事は早かった。
カイは思わず笑う。
「本当に待ってたんだな」
「ずっとです」
「三日だけだろ」
「長かったです」
店員は二人を微笑ましく眺めながら続ける。
「お互いにつけて差し上げる方も多いですよ」
ソフィアがカイを見る。
期待。
隠していない。
「やりたい?」
カイが尋ねる。
ソフィアは小さく。
でも。
しっかり頷いた。
「はい」
「分かった」
今回は。
カイもほとんど迷わなかった。
「じゃあ俺から」
夜空石の腕輪を取る。
ソフィアが左手を差し出す。
細い手首。
カイの指が触れると、ソフィアの指先が少しだけ震えた。
「きつかったら言って」
「はい」
「寒い?」
「違います」
「緊張?」
「……少し」
「腕輪で?」
「カイがつけるからです」
真っ直ぐ。
言う。
カイの手が一瞬止まった。
「そういうの、最近よく言うようになったな」
「分かりやすい人が好きなのでしょう?」
「ああ」
「だから努力しています」
カイは少し笑う。
「じゃあ俺も」
「何が?」
「嬉しい」
ソフィアが動きを止めた。
「俺がつけるから緊張するって言われるの」
カイは少し照れくさそうに笑う。
「ちょっと嬉しい」
ソフィアの瞳が一瞬で潤んだ。
「泣く?」
「泣きません」
「本当に?」
「早くつけてください」
「はいはい」
カイは金具を合わせる。
小さな音。
カチリ。
夜空石の腕輪がソフィアの左手首へ収まった。
「……似合う」
カイが自然に言う。
ソフィアは自分の手首を見つめた。
「本当ですか?」
「ああ」
「大切にします」
「知ってる」
「ずっと」
「約束したな」
「はい」
今度はソフィアが空雫石の腕輪を取った。
「右手を出してください」
「お願いします」
カイは右腕を差し出す。
ソフィアは両手で、そっとその手首を取った。
自分よりずっと大きい。
剣を握り続けて硬くなった手。
「どうした?」
「昔を思い出しました」
「森?」
「はい」
あの日。
十歳の少年が。
誘拐された自分へ差し出した手。
「当時も」
ソフィアは腕輪を巻きながら静かに話す。
「この手が、私を連れて行ってくれました」
「連れて逃げただけだよ」
「私には同じです」
「何が?」
「暗い場所から、外へ」
ソフィアが選んだ夜空石。
暗闇から大切な人を守り。
帰る場所へ導く。
「だから、あの石を選びました」
カイはしばらく何も言わなかった。
「……そうだったな」
「今も」
ソフィアが金具を留める。
カチリ。
空雫石がカイの右手首へ収まる。
「私を守ってくれています」
ソフィアはすぐに手を離さなかった。
カイも。
なぜか。
急いで引かなかった。
「できました」
「うん」
「カイ」
「何?」
「大切にしてくれますか?」
カイは自分の腕輪を見る。
淡い空色。
裏には。
ソフィー。
「するよ」
「本当?」
「ああ」
「壊れたら?」
「直す」
「新しい物へ替えない?」
「これがいい」
即答。
ソフィアの息が止まる。
「だって」
カイは腕輪へ軽く触れた。
「ソフィーが選んだんだろ」
ソフィアの目が完全に潤む。
「もう」
「今度こそ泣く?」
「泣きません」
「無理しなくていいぞ」
「嬉しいだけです」
「ならよかった」
カイが笑う。
向かいの店員は。
もう完全に。
仲の良い恋人を見る顔だった。
「本当に、お似合いですね」
その言葉。
前なら。
カイはすぐに否定した。
でも。
今日は。
少しだけ店員を見る。
「ありがとうございます」
普通に。
答えた。
ソフィアが驚いたように隣を見る。
「何?」
「否定しませんでした」
「あ」
言われて。
初めて。
カイも気づく。
「……まあ」
少しだけ視線を逸らした。
「今日は恋人設定だし」
言い訳。
でも。
以前ほど強くない。
ソフィアも追及しなかった。
今は。
それだけで。
十分嬉しい。
「末永く、大切になさってください」
店員が言う。
「はい」
ソフィアが答える。
カイも。
自分の腕輪へ視線を落としたまま。
「もちろん」
そう答えた。
◇◇◇
店を出ると、昼の帝都には柔らかな陽射しが降り注いでいた。
大通りには買い物客や職人たちが行き交い、少し先のパン屋からは焼きたての香ばしい匂いが流れてくる。三日前と同じ街のはずなのに、カイにはどこか少し違って見えた。
右手首へ。
新しい腕輪がある。
それだけ。
なのに。
何度も。
見てしまう。
「カイ」
「何?」
「さっきから何度も腕輪を見ています」
「ソフィーもだろ」
「私はいいのです」
「何で?」
「楽しみにしていましたから」
「俺も楽しみにしてたよ」
「では同じですね」
「そうだな」
ソフィアは嬉しそうに笑った。
そして。
いつものように手を差し出そうとする。
その前に。
カイが。
自分から。
その手を取った。
「ほら」
ソフィアの動きが止まる。
「……カイ」
「何?」
「今日は、まだ何も言っていません」
「人が多い」
「それだけ?」
カイは少し考える。
以前なら。
すぐに。
護衛だから。
恋人設定だから。
そう答えた。
でも。
今日は。
「……それだけじゃないかも」
ソフィアの瞳が大きくなる。
「何ですか?」
「知らない」
「また?」
「分からないんだから仕方ないだろ」
カイは苦笑した。
それでも。
指を絡める。
「ただ」
ソフィアの手を握る。
「繋ぎたいと思った」
ソフィアの足が止まった。
カイも引かれて立ち止まる。
「カイ」
「何?」
「今の言葉」
「言わない」
「もう一度」
「絶対言わない」
「お願いします」
「恥ずかしい」
「私には言わせるのに!」
「何を?」
「嬉しいとか、寂しいとか、ちゃんと言えと!」
「ああ」
「カイも分かりやすくしてください!」
カイは困ったような顔をした。
でも。
少し笑う。
「分かった」
「本当?」
「ああ」
一度だけ。
息を吐いて。
「ソフィーと手を繋ぎたいと思った」
今度こそ。
ソフィアの顔が真っ赤になった。
「これでいい?」
「……はい」
「じゃあ行こう」
「はい」
二人はまた歩き始める。
手を繋いだまま。
二つの腕輪が。
すぐ隣に並ぶ。
歩くたび。
小さく揺れる。
ソフィアは何度もその光景を見た。
「カイ」
「今度は何?」
「もう少しだけ、街を歩いてもいいですか?」
「いいよ」
「腕輪をつけたまま」
「外す理由ないだろ」
「恋人として」
カイは少し黙った。
以前なら。
設定だから。
そう答えていた。
今日は。
違う。
「……うん」
ソフィアが驚いたように見上げる。
「いいのですか?」
「嫌じゃない」
「それだけ?」
いつも。
自分が。
ソフィアへ言っていた言葉。
今度は。
逆に聞かれた。
カイは少しだけ笑った。
「むしろ」
「はい」
「もう少し、このままでいたい」
ソフィアの空色の瞳が大きく揺れる。
「カイ」
「何?」
「……ずるいです」
「また?」
「本当にずるいです」
「何で?」
「そういう大事なことを、何でもないみたいに言うからです」
カイには。
まだ。
分からない。
でも。
言った本人の顔も。
少し。
赤い。
「忘れて」
「絶対に嫌です」
「だと思った」
「一生覚えています」
「重いな」
「大切なので」
二人で笑う。
そして。
カイが尋ねた。
「それで、どこ行く?」
「カイが決めてください」
「俺が?」
「はい」
「婚姻準備なのに?」
「今日は、カイが行きたい場所へ行きたいです」
カイは少し考えた。
でも。
浮かんだ場所は。
一つだけ。
「川」
「柳の木?」
「ああ」
ソフィアの顔が柔らかくなる。
「私も、そこがいいと思っていました」
「じゃあ決まりだな」
「はい」
二人は歩き出す。
手を繋いだまま。
陽光を受けて。
夜空石と空雫石が。
隣り合って光る。
カイの右手には。
ソフィーという名が刻まれた腕輪。
ソフィアの左手には。
カイという名が刻まれた腕輪。
互いに選び。
互いに贈り。
互いの手でつけた。
それでも。
カイはまだ。
自分が誰の婚約者なのか知らない。
けれど。
婚約者の正体よりも先に。
自分の胸の中に生まれた感情の方へ。
少しずつ。
確実に。
近づき始めていた。




