18.地下洞窟の探偵騎士
手に持ったロープが引っ張られる感触がした。回数は2回。これは事前にアルと取り決めたことだった。辿り着いた先が安全なら2回、そうでなければ1回ロープを引くことになっていた。カルラは周囲を見渡し、人影がないか確認する。黒幕の存在を否定できない以上、背後には十分に注意しなければならなかった。カルラはロープの端を自分の腰に結び付けた。そうしておそるおそる足先から樹洞に入っていく。腰まで入ったところで、この洞の深さに慄いた。爪先の向こうには、夜空のような闇が広がるばかり。穴の側壁はごつごつとした岩でできていた。でっぱりが多いおかげで、なんとか手足をひっかけることができそうだった。爪先で凸部を探りながら、少しずつ慎重に壁を伝い降りていく。カルラが入ってきた洞は、頭上の遠くで光っている。まるで真夜中の太陽みたいだ。洞の中は暗く、自分がどれほど進んでいるのかさえよくわからない。着地点は安全というアルの判断を信じるほかないが、カルラの胸の中には綿毛のように不安が積もっていく。もしかしてアルが誰かに襲われて、自分はまんまと誘き寄せられているのかもしれない。そう考えると、思考は止まらなかった。けれど岩肌に縋る手足を止めることはしなかった。考えまいとするほど、思考の波に意識を奪われる。だからもう、無駄な抵抗は止めた。考えることを拒まない。そうしていると、自然と無心になれた。体は壁を伝うためだけの機械のようになっていった。数分か十数分か、幾許かの時間が経ったところで、何処からか響く声を拾い上げた。
「カルラ!」
夜の海のように暗いところから、確かにアルの声が聞こえた。カルラは彼の姿を確かめようと、暗闇に目を凝らす。銀色がうすぼんやりと見えた。
「アル、そこにいるの?」
「もしかして見えないのか」
その瞬間、暗がりの中に弾けるような光が現れた。火だ。ゆらゆらと揺らめく篝火に照らされて、アルの姿を認めることができた。カルラは岩肌から飛び退いて着地した。久々の地面の感触だ。そして安堵から彼に駆け寄る。どうやら彼は腰に巻き付けていたロープちぎり、松明の代わりにしたらしい。ちぎれるんだそれ。
「暗くてよく見えないんだけれど、どういうところなの、ここは」
随分と地下に降りてきたからだろうか、空気は冷えていて肌寒い。前方から微かに風の流れを感じるが、ロープの火では5歩先までしか見通せない。アルがこの場所を安全と判断した通り、何者かの気配は感じなかった。
「見た限りでは洞窟のようだ。俺もこの先までは見ていないから、全容はわからないが」
そう言ってアルはカルラの手を握ってきた。見えないんだろう、と。カルラは大人しく手を引かれ、洞窟の中を進んでいく。足元には無数の岩や小石が落ちていて不安定だ。人が通るような道ではないから、坑道の可能性は低そうだ。
「行き止まりだな」
しばらく歩いたところで、アルがそう零した。ロープの火は彼の手を舐めるように揺らめいている。もう少しで体に燃え移りそうだ。熱くないのだろうか。
「音はまだ聞こえているの?」
アルは短く首肯して、壁ににじり寄る。そうすると、小さな灯に照らされて、壁の様子を伺い知ることができた。光の当たる僅かな範囲しか確認できないが、目の前にあるものにカルラはああ、と嘆息を零した。
「これは絵…?赤い…ヘマタイトかしら。ここはもしかして、何かの遺跡…?」
ささやかな火にぼんやりと暴かれたそこには、赤い顔料で描かれた何かがあった。それが絵なのか、あるいは文字なのかはわからなかった。全体を見て見ないことには、推測も立てられない。壁画の辺りを壁伝いに沿って行けば、カルラの胸の高さのところに松明があるのがわかった。これ幸いと魔法で点火する。ちゃんと当たるように、指先を松明に添えた。他にもいくつか同じものが点在していたので、それらにも火を灯す。全ての松明に火を点け終えたころには、行き止まりの空間は隅まで見渡せるほどに明るくなった。改めて壁画を見て見ると、そこに描かれているものにカルラは息を呑んだ。不可解だった。不気味だった。不自然だった。碑文と読むには文節が見当たらないし、図画と見るには形が不明瞭だ。そのうえところどころに大小の亀裂が走り、判別をより困難にしている。
「なに、これ」
思わず零れた声は、殆ど空気のようだった。アルも不思議そうな顔をして考え込んでいる様子だった。いったいこれは何だろう。そもそもどうしてこんなところに?森の奥の、洞の奥の、洞窟の奥。およそ人が立ち入るはずのないこの場所に、なぜこんなものが残されているのだろう。
「この先だ」
ふいにアルが壁画を指さした。
「どうやって進むの?遺跡ならむやみに壊すわけにもいかないでしょう」
二人そろって頭を抱えた。この壁の向こうに行かなければならないが、そのために壁を破壊することはできない。しかしすぐそばにあるはずの手掛かりを前に、何もしないわけにもいかない。もっとトーリアの街について調べておくべきだった。そうすればこの遺跡らしきものの正体にも、見当がつけられたかもしれないのに。頭に思い浮かんだのは実家の書庫だった。古今東西の叡智が蒐集された場所。踏み入った者を旅へと誘う箱庭。ああ、そうだ。書庫のテーブルに読みかけの小説を置いたままにしていた。ジェイドが買ってくれた、話題のミステリ小説だった。主人公が古代の墳墓で大冒険を繰り広げる話だ。
─ミステリ?
「そうよ。謎解きに破壊は無粋よね」
「何かわかったのか?」
そう尋ねるアルの表情はどこか不安そうだった。
「何もわからないわ」
「どうしてそう自慢気なんだ」
カルラは壁にそっと手を触れる。岩壁はひんやりとしていて、カルラにほんの少しの冷静さを取り戻してくれた。
「謎解きにおいては、視点を変えてみることが重要なのよ」
地面には砂が積もっていた。カルラは髪が汚れることも構わずに仰向けに寝転ぶ。冷たい土の感触とザラザラとした感触に感じ入る。天井はかなり髙く、松明の明かりも届かないせいか、沈むように暗かった。頭上には何もないと思い、拗ねた子供のように横向きの姿勢を取る。砂の音がざらりと響いた。土壌は細砂に覆われている。まるで埃を被った古い本のよう。何となく地面の砂を払い除ける。すると砂の下から、赤い何かが見えた。それは大地に直接描かれたものだった。─まさしく、先ほどの壁画と同じように。そう思い至った瞬間、カルラは弾かれるように立ち上がり、アルに呼びかける。
「私の後ろにいて。巻き込んじゃうから」
カルラは洞窟内の端に陣取り、背後にアルを侍らせた。洞窟の床に意識を集中させる。そうして、現象を思い描く。冬の初めに吹く木枯らし。落ち葉と戯れる姿なき踊り子。吹き荒れる風の力を、カルラはイメージする。
瞬間、洞窟内に強風が吹き込む。砂も、土も、小石さえ、全てを巻き上げるように吹き荒ぶ。竜巻は徐々に勢いを増して、生き物のように蠢く。術者であるカルラさえ引き込まれそうになったところで、魔法を解除した。こと切れたように静まった風は、まっさらな地面を残して消え去った。
「またよくわからないものが出てきたな」
そう呟いたのはアルだった。カルラも小さく頷く。
「きっと魔法陣だと思うの。少し欠けているけど、おおよそ円の形をしているもの」
魔法陣に近寄って、カルラはある部分を指し示す。
「これはたぶん古代文字ね。色が剥げていて、少しわかりづらいけど」
「光か…。どんな魔法が刻まれているんだろう」
いとも容易く古代文字を読み上げるアルに、彼が古代文字に理解があることを思い出した。一方のカルラは部分的な単語しか知らない。文法などもってのほか。この場ではアルを頼るのが最善だった。
「これは?」「水だな」「こっちは?」「鏡だ」「これはどう?」「円だと思う」
見知らぬ場所に浮足立つ子供のように、カルラは次々と質問を投げた。文字と意味を繋げ、魔法陣の構造を解明しようと試みる。しかし10個目を超えたあたりで、アルが答えに詰まった。
「これは霧、いや靄か?どちらにも読めるし、どちらでもない気がする」
アルは文字をなぞりながら、思い当たる単語を挙げていくが、そのどれも確信には至らないようだった。魔法陣を見つけてからここまで順調に思えたが、意外な壁にぶつかってしまった。
「意味が定まらないのはどうして?」
「欠けているんだ、文字が。だから共通している部分だけを読むと、その二つのどちらかになると思う」
この魔法陣がいつごろから存在するのかはわからないが、古代文字が使われていることから数百年単位で古い時代のものだと推測が立つ。それほどにまで長い間、自然に晒されてきたのだ。劣化してしまうのも無理はない。むしろ砂に埋もれていたおかげで、保存状態は良い方だと考えるべきかもしれない。
「どうにか復元できないかしら。周辺の文字列から、推測するとか」
「そういう方法もあるのか。俺にはよくわからないが」
そう言って再び文字列に視線を落とすアルの横で、カルラは思考を巡らせていた。水、鏡、円、そして霧や靄。一見繋がりのない単語たちだが、それ自体は問題ではない。要するに、それらの文字がどんな魔法を結実させるものなのか。解き明かすべきはそこだ。それさえわかれば、欠けた文字さえ意味に合わせて復元ができるかもしれない。例えば氷の魔法陣には「熱」の呪文が刻まれることがある。熱を奪うことで氷結させるという理屈からだ。つまり、必ずしも、加えるという意味で刻まれるわけではないということだ。
「もしかして、水鏡?」
口をついて出たのはそんな言葉だった。カルラの呟きに、アルは振り返って尋ねる。それがこの魔法陣の効果なのか、と。頷くカルラに自信はなかった。
「水鏡は、遠く離れたものや場所を見たりする魔法よ。他には別の場所へ通じる扉の役割を担うこともあるわ」
それらしく説明をしながらも、カルラの胸に空いた気分は生まれない。なぜなら、今立てた推測は魔法陣解明の足掛かりにもならないからだ。
「結局、欠けた文字を復元する手掛かりにはならないわね」
「なぜだ?魔法の性質がわかれば、そこから逆算して意味を割り出せるんじゃないのか」
「うん、言った。それが嘘ってわけじゃないのよ。ただ、今回の場合には意味がなかったみたい」
腑に落ちない様子でカルラを見据えるアルの隣に腰を落ち着けて、カルラは続けた。
「水鏡ってね、極端な話、【水】と【鏡】が刻まれていれば成立する魔法なのよ。今解読できている他の文字は、その魔法に指向性を与えるだけのものなの。【円】は水鏡が発動する魔法陣の範囲を決めている、とかそういう感じに」
結局のところ、この魔法陣が水鏡を発動するものだと判明はしたものの、それが遠見なのか移動なのか、その用途までは解明できないのだ。
「つまり、これの用途がわかるような文字を見つけられればいいんだな」
アルの呟きにカルラは静かに頷いた。先ほどから感じていたことだが、アルはどうにも理解力が高い。魔法の専門家でもないカルラの解説など、あまり頭に入りやすいものではないと思うが。
「あった。これは【門】だな。他の場所に繋がっていそうに思えるが、どうだろう」
「見つけたの?早いわね?」
思わずそう零せば、探すのに慣れてきたとアルは返した。【門】であれば、この魔法陣がゲートの役割を果たしている可能性は高いだろう。断定はできないが、それ以外の可能性を押し出す根拠もない。今まで揃っている情報から、魔法陣がどこかに繋がっていると考える方が自然だ。そこまで逡巡したところで、カルラは一つ思い出した。あの欠けた文字、【霧/靄】はどう解釈するべきだろうか。意味としてはそこまで大きな差はないだろう。従って、魔法の指向性を決めるにあたっても、差異を産むとは考えづらい。だがこと魔法陣においては、どちらでもいいということは困るのだ。
「どうしたんだカルラ。眉間に皺が寄っているぞ」
アルの言葉にカルラは眉間を擦る。
「あの欠けていた文字…【霧】か【靄】かわからないものがあったでしょう。それをどう判断したものかと思って」
「そんなに拘ることなのか?どちらもあまり意味が変わらないように思えるんだが」
「その通りよ。解析するだけならそれで充分。だけど今回はそれに加えて、復元までしないといけない。魔法陣の製作者の意図を読み違えてはいけないの」
どうしたものかと天を仰ぐ。先ほどと変わらない暗い天井が見えた。そういえばこの洞窟に来てからどれほど時間が経ったのだろう。こんな地の底では、太陽の傾きもわからない。エイン達は無事だろうか。ふと視線を壁に向ける。時計を確認するかのように。こんなところに壁掛け時計があるはずもないとわかっていたのに、習慣とは恐ろしい。内心で自嘲していると、先ほどの壁画が目に入った。改めて見てみても、何が描かれているのかまるでわからない。再び地面の魔法陣に視線を落とす。その瞬間、カルラの脳裏に違和感が芽生えた。思考の海の中で、揺蕩うようにして浮かぶ泡のよう。弾けては膨らみ、膨らんでは弾けて、疑念は加速していく。
「ああ」
溜息にも似たそれは、謎が解き明かされたことを示していた。




