⒚芋虫男
「解ったわ。あの壁の壁画、あれはこの魔法陣と照応していたのよ」カルラは壁画と魔法陣を交互に指さして続ける。
「魔法陣の欠けた部分と、壁画が、ぴったりと一致するわ」
カルラの指の動きに合わせて、アルもまた視線を動かした。合点がいったのか、一拍置いて深く頷きを返した。地面に描かれた魔法陣は、おおよそ円形を成しているがところどころ欠損している。外円も中心部も、無作為にパーツが失われているのだ。一方の壁画は、それ単体では何の形とも断言できないものだった。しかし今ならわかる。その形容しがたい模様は、魔法陣から切除された残りの術式だったのだ。
「つまり、壁画のあれを魔法陣の空白にうまく書き写せば、魔法陣を復元できるというわけだな」
そう呟いた後にアルははて、と首を傾げる。
「いや逆か?床の魔法陣を壁に書き写すべきか?」
アルの疑問はカルラも考えていたことだ。復元するのがどちらであれ、一つの魔法陣が再生されることには変わりない。どちらでもいいのか、どちらかが正解なのか。ほとんど最終局面に行きついたところで、二人はまたしても難題にぶつかる。
「私は壁の方を復元するべきだと思うの。ほら、さっきあなたが壁の向こうから音が聞こえるって言っていたでしょう?地面の魔法陣からは何も感じないのなら、壁の方が可能性が高いんじゃないかしら」
カルラの推察にアルはすぐには頷かなかった。微かに眉根を寄せ、何やら考え込んでいるようだった。カルラは彼の返事を待つように、壁に描かれた魔法陣のかけらに目線を向ける。損傷している部分が大きいだけに、修復作業は困難を極めるだろう。書き写すといっても、少しの綴り間違いも許されない。長い時間と、集中力が求められる作業だ。二人がかりで取り組んだとて、日が暮れるまでに終わるだろうか。
「本当に片方だけでいいのか」
アルの呟きに、カルラの脳の深いところで何かがうずく気がした。
「この魔法陣は鏡の性質があるんだろう。お前は水鏡の魔術だと言ったが」
違和感が加速する。霧が形を持って自分の前に立っているみたいな感覚だ。
「鏡の呪文がもう一つあった場合は、どう解釈するべきなんだ?」
霧は、掴めるほどに、実態を伴った。
「照応だわ」
さっきも同じことを言ったけれど、と付け加える。
自分で口にしていたのに、今の今まで気がつかなかった。
「二つの魔法陣を、誤りなく復元する必要があるのかもしれない」
この二つの魔法陣は鏡合わせの存在、と仮定することができる。
でも何かがおかしい。何かを見落としている気がする。
「ねえ、アル。今から独り言を言うわ。考えを整理するために呟くだけだから、何か気になることがあったら遠慮なく止めてね」
アルが頷いたのを見届けて、カルラは詩を諳んじるかのように語り始めた。
「この魔法陣の先にペイルランスが暴走している原因、あるいはその手掛かりがあるかもしれない。これは私たちの推測ね。そして魔法陣は二つとも復元しなくちゃいけない。魔法陣には古代文字が使われている。古代文字を扱える人間はそう多くない。でもペイルランスが暴走を始めたのが近年のことなら、魔法陣が作られたのも最近ってことになる。作ったんじゃなくて、手を加えただけかもしれないけど。でも少なくとも、この魔法陣を解読して復元できる人がいたということになる。でもそれだと、この劣化具合はおかしい。たかだか数年で、人の立ち入れないようなこの場所で、原形をとどめないほど損傷するなんて何か変だわ。もしかしてこれは壊れたんじゃなくて…」
瞬間、視界が大きく傾く。足先が何かにぶつかった感覚と、急速に近づいてくる地面。顔面衝突だけは避けようと、カルラは身をよじった体勢で受け身を取る。
「いた…何かに躓いた?」
確かめるように足元を見てみれば、そこには白い塊があった。先ほどまではこんなものはなかったように思う。魔法陣を除けば、ここは自然のままに遺棄された洞窟だったのだから。その白いものは布であるようだった。布自体は薄いようだが、丸めてあることでそこそこの厚みを成している。自分が躓く程度には。広げたらきっと、相当幅を取るに違いなかった。五里霧中を暗中模索するこの状況において、この布を調べることに躊躇いはなかった。布を束ねている紐をほどき、地面に大きく広げる。
「これは」
そう呟いたのはどちらだったのか。二人はしばし沈黙して、目の前に現れたものを凝視した。そこに描かれていたのは魔法陣だった。先ほども出二人が修復をしようとしていたものと、まるで同じ術式のものだった。しかしただ一点だけ違うところがあった。
「この魔法陣、完成してる」
洞窟内に描かれた破損の酷いものとは違い、寸分の欠けもなく術式が刻まれていた。カルラの脳内で一つの仮説が形を成していく。靄がまとまっていくように、旋律に詩が乗るみたいに。
「魔法陣は修復されてなんかいなかったんだ。随分と昔に描かれてから、ずっと」
ようやくこの洞窟の謎が一つの線上に繋がった。黒幕(仮)は魔法陣を修復することはしなかった。代わりに、魔法陣の完成形をこの布に書き込んだ。この布さえあれば、二つの魔法陣を修復するまでもない。ただこの布を、魔法陣の上に重ねるように敷くだけでいい。あとは動力となる魔力を流し込めば、魔法陣の術式は滞りなく発動するだろう。この布はいわば携帯式の魔法陣だ。
「どうして今まで見えなかったんだ?」
「多分姿隠しの魔法がかかっていたんじゃないかしら」
「カルラが躓いた時に、魔法が解けたということか?」
「そうかもしれない。こういう魔法は物理衝撃に弱いことがあるって、本で見たことがあるもの」
問題はどちらの魔法陣に重ねるかだ。カルラとしては壁側の方が有力に思える。根拠はアルの証言だ。しかし逆に言えばそれに縋るしかないというだけ。あと一つでも、確信を得られる情報がほしいところだ。カルラが考え込んでいると、アルが遠慮がちに声をかけてきた。
「ところで、それは持ち運びができる魔法陣ということでいいんだろうか。それなら、ここに置いてあるのは変じゃないか。今まさにそうなっているように、俺たちみたいな者に見つかる可能性があるだろう」
いくらなんでも不用心じゃないかと、アルは言葉を結んだ。確かにそうだ。この布だけで魔法陣は完成しているし、用のある時だけこの洞窟に持ってくればいい。布だから当然軽いわけで、絨毯一つ抱えるよりも負担は少ないはずだ。それなのにどうして、洞窟内に隠されていたのか。持ち運べない理由があったのだろうか。
「その布に何かあるんじゃないのか」
アルの言葉に従うように布を調べるが、これといって特徴はない。魔力の残滓もなければ、魔法陣のほかに何かが描かれているわけでもない。強いてあげるとすれば、あまり質が良くないことくらいだろうか。
「持ち出せない理由が、この布じゃなくて別にあるとしたら?」
独り言だった。帰ってくる言葉はない。今の言葉はほとんど妄言のようなものだったから、それでも構わなかった。
「持って逃げられなかったんじゃなくて、そもそも逃げられなかったんじゃないか」
ふいにアルがそんなことを口にした。カルラはああと、納得する。
しかしそうなると、別の問題が浮上する。
「この布の持ち主が、まだ近くにいるのかもしれないわ」
自分で打ち立てた仮説がどうか外れてほしいとカルラは思った。こんなものを使用する人間が真っ当であるとは思えないのだ。古代文字を復元できるほどの叡智がありながら、それを隠匿し、街に被害を出している可能性さえある。もし持ち主がこの近くで身を潜めているのなら、放っておくわけにはいかない。
「とりあえずこれを壁に貼りましょう。こっちの端を持って」
アルと二人がかりで布を壁に沿わせる。壁面は凸凹としていたが、位相がかみ合えば問題はないはずだ。カルラは片手で魔方陣に魔力を流し込む。魔力が伝わった箇所から、徐々に淡く発光していく。ものの数秒で、魔法陣全体がささやかに輝きだした。直後、魔法陣の背後の壁が消えた。魔法陣をなぞるような円形に、ごっそりと。それと同時に、誰かの悲鳴が短く響いた。
「た、助けてくれ!ここで死ぬわけにはいかないんだ!」
開いた穴の向こう、小さな洞穴の中の男は芋虫のように身をよじりながら叫んでいた。




