17.三重奏
カルラはアルを伴って森の中を進む。調査の目的上、地図を見る必要はない。アルの耳を頼りに、二人は静寂の中を歩いていく。アルの先導に従っていけば、主要道からは逸れ、およそ人の手が入っていない獣道に出た。森の影は一層深まって、木漏れ日の光もやや頼りない。足元には拳大の石がゴロゴロ落ちていて、歩きづらいことこの上ない。森の中の植生は、特に変わったものはない。王都でも時折見かけるような雑草や、見覚えのある草花がほとんどだ。道の先の方に視線をやるが、薄暗くてよく見えない。しばらく歩いてもまるで景色が変わらないので、気晴らしにアルに話しかける。
「何か変化はあった?聞こえ方とか、音量とか」
カルラの問いにアルはゆるゆると首を横に振った。
「森の入り口で聞いた時と、特に変わりはない。ただこっちの方から聞こえていることは間違いなさそうだ」
アルが指さす先は、相変わらず鬱蒼とした森の道だった。少し違うところといえば、先ほどの獣道とは違い、地面が踏み固められていることだ。人の往来があるのだろうか。こんな森の奥まったところで?奥に進むほどに、木漏れ日の光は小さくなっていく。真昼の眩しさが消えていく。まるで大きな怪物の口に誘われているかのようだった。依然として静かな森の中では、あらゆる音を聞き分けることができた。カルラたちの足音、枝や葉を踏みしだく音、そして木の葉の擦れ合う波の音。静かな世界でしか聞くことのできない、名前のない響きがあった。
「ここだ」
ふいにアルが立ち止まる。カルラは周囲を見渡すが、特に景色に変化はない。訝しんでアルの隣まで近寄ってみれば、彼の傍には二つの岩が落ちていた。人間の頭よりも少し大きいだろうか。ところどころ角の残る白い岩だった。そのすぐそばに、花が置かれている。
「きっとお墓だわ。だからこのあたりは人の通った跡があるのね」
花の色は鮮やかで、茎や葉は瑞々しい。花屋で並ぶものと遜色はないように思える。花が手向けられてから、さほど日数が経っていないのだろう。
「誰の墓なんだろうか」
「碑銘がないからわからないけれど、大事にされていることは確かでしょうね」カルラはところで、とアルに向き直る。
「ここだ、って、この中から例の音が聞こえるの?お墓よ?」
「ああ。中、というより下か?」
アルはしゃがみ込み地面に耳を近づける。連れられるようにカルラもしゃがみ込んだ。やはり墓周辺の地下から、音が聞こえてくるようだ。それを確かめるためには、ここを掘り起こさなければならないだろう。しかし墓荒らしのような真似は気が引ける。いくら任務のためとはいえ、墓所を踏み荒らしていい理由にはならない。しかし墓を理由に、任務を放棄することもできない。どうしたものかと悩んでいると、アルが墓の裏の茂みの方で、何かを探している様子が見えた。
「アル?何を探しているの?」
「入口だ」
当然のように答えるアルに、カルラははっとさせられる。そうだ。もし音源が地下にあるとするならば、それを用意した何者かが使った抜け道があってもおかしくない。むしろ周囲に掘削の跡らしきものが見当たらない以上、その可能性は高いだろう。疑問もなく地面を掘り起こそうとしていた自分が恥ずかしくなった。
「よく思いついたわね。もう少しで私、取り返しのつかないことをするところだったわ」
「ああ。この場所は大事にされていると、さっきお前が言っていたからな」
カルラも一緒になって茂みを漁っていると、幹の太い木の根元に樹洞が見えた。洞の中は暗くて、深くて、黒いインクで塗りつぶされているみたいだった。顔を近づけてみると、かすかに風の流れを感じ取ることができる。
「この洞、どこかに繋がっているのかしら」カルラの呟きに、アルはきっとそうだと言って、洞に耳を澄ませる。
「今までで一番近い。この先に音の正体があるはずだ」
その言葉を聞いて穴に入ろうとしたところを、アルに引き留められる。
「俺が先に入ろう。この穴がどこまで続いているかわからないし、落ちた先が安全とも限らない」
護衛の任を全うしようとするアルに、カルラはすぐに頷くことはできなかった。その沈黙の源が苛立ちなのか、自尊心なのか、あるいはもっと別の何かなのか。自分自身でもよくわからなかった。自分の心の内にあるもののはずなのに、色も形も見えてこないのだ。胸の奥で燻る靄のような何かを鎮めようと、カルラはブリジットの言葉を思い出した。アルは護衛という役目がなければ、ただの部外者だ。アルが護衛としてカルラを守ってくれるというのなら、その立場を守るのがカルラの役目なのだ。そう言い聞かせて、アルの提案を飲み込む。
「底に着いたら、このロープを引っ張ってね。そうしたら私も後を追うから」
持ち合わせていたロープをアルの胴体に巻き付け、きつめに縛る。一瞬苦し気なうめき声が聞こえたが、構ってはいられない。そうしてカルラは、樹洞へと消えていくアルの背中を見送るのだった。
「気を付けてね、アル」
森が少しだけざわめいて、木の葉をひらひらと落とした。
つんざくような嘶きが響いた。それは罠にかけられたペイルランスのものだった。エインは武器を構えながら、目の前の光景に驚きを隠せずにいた。エインとブリジットは竪琴の音に誘導されたペイルランスを討伐する役割を担っていた。そこで前衛と後衛に分かれることになった。前衛はブリジット。森の入り口付近、殆ど森に踏み入った場所で彼女がペイルランスを迎え撃つ。そこから取りこぼされた個体を始末するのがエインの役目だった。しかし実際、作戦通りにはいかなかった。エインのところまで到達したペイルランスは一匹もいなかったのである。全て、余すことなくすべての個体が森の出口で倒されていた。
「すげえ、これでも隊長クラスなのかよ」
エインの独り言は、森から新たに出ようとするペイルランスの嘶きにかき消された。しかしその個体もほどなくして絶命した。ブリジットの手によって。彼女は森の出口周辺に罠を張っていた。それは鉱石を加工した細い糸によるものだった。触れるものを切り裂き、断絶させる銀の刃。それがブリジットの武器だった。彼女はその糸でペイルランスの前進を押しとどめるだけではなく、巧みな技術によって獣たちの首を切断していった。待ちぼうけを食らっているエインは、命令とは裏腹に前衛のブリジットへと近づく。近づくほどに血の匂いが辺りに充満しているのがわかった。獣と鉄の匂いが入り混じる場所で、ブリジットは両手に鉄糸を握ったまま森の奥を見据えている。
「何をしに来たエイン。後衛が持ち場を離れるな」
そう叱咤されて、エインは自分の槍の穂先を見た。磨いてから一度も傷つかず、汚れてもいない。エインの不戦の証が、午後の日差しに照らされて鈍く輝いていた。
「隊長の戦いぶりを、勉強させてもらおうと思って」
口をついて出たのはそんな言葉だった。それは半分くらい本心で、残りの半分は言い訳だった。ブリジットから遠く離れた背後で、置物のように佇んでいる自分が、少しばかり惨めだったのだ。エインのおべっかにブリジットは興味もなさそうに、そうか、と短く返した。森は静まり返っている。遠くの方に耳を澄ませても、嘶きは聞こえない。全体の個体数は調査では把握できなかったので、森の中にまだ潜んでいるのかどうかは判断がつかない。だからこうして、静寂の中、ブリジットは臨戦態勢を崩さないのだ。エインも槍を構える。
「その武器、手は痛くないんすか」
「特製のグローブをしているからな。そんなことより持ち場に戻れ。お前まで切り刻んでしまうぞ」
ぎろりと鋭い眼差しに捕らえられ、エインは半ば逃げ出すように後方へと踵を返した。その時だった。森の中からけたたましい嘶きが響いてきた。エインはすぐさま持ち場に戻り、戦闘態勢に入る。森の出口に目を凝らしていると、大きな影が出て来るのが見えた。その個体は今までのものよりも一回り大きく、その角も大ぶりだった。もしかすると、群れのリーダーなのかもしれない。ブリジットが手に巻き付けられた鉄糸を引くと、森に張り巡らされたそれがきらりと光って、行く手を阻むようにぴんと張る。突進してくるペイルランスが罠のところまで到達すれば、その鼻先から血が飛び出した。痛みに驚くペイルランスの隙をついて、ブリジットは一度鉄糸をたわませる。そして一瞬のうちにペイルランスの首元へと糸を張る。そこから瞬きの前に獣の首は落ちる、はずだった。ペイルランスの首に掛けられた糸が引き絞られた瞬間、糸はあまりにもあっけなく切れてしまった。
「エイン!」
ブリジットが振り返り叫ぶ。ペイルランスはブリジットの防御網を振り切って、こちらに猛進してきていた。エインは槍を固く握る。そうして腰を落とし、身を低く屈める。一息つくたびに、獣の輪郭が大きくなる。初陣のような不安と高揚感がエインの体を巡っていた。エインはその脚に狙いを定める。獣の脚は絶えず駆動し、定まるところがない。それでも視線を外さずに一点を見続ける。ペイルランスがエインへ飛び掛かろうと前足を大きく挙げたその隙を狙い、その巨躯の下へと体を滑り込ませる。そして一拍置くこともなく獣の後脚の腱を槍で抉り裂いた。途端にペイルランスは猛り狂い、痛みに悶えるように首を大きく振り回す。やがて地面へと倒れ伏した獣は、無傷の前足だけを、蹴る地面もなく弾かせた。その躍動すら徐々にゆっくりとしたものになっていき、ついには荒い息だけを吐くだけになった。槍の先端に着いた血を振り払い、エインは森の方を見据える。森には再び静寂が戻っていた。
平原に逸るような音楽が響いていた。足早な竪琴の音色が、野を渡る風に紛れるようにして奏でられる。その旋律は踊り子のステップにも似て、軽やかさの中に華やかさが感じられる。ゴルディアスは手綱を引きながら、その音色に耳を預けていた。
「お前の演奏は久しぶりに聞いたが、いいもんだな」
その言葉に気をよくしたのか、ウィリアムは声を弾ませる。
「この戦いが終わったら、コンサートでも開こうかな」
ウィリアムは両手を自由にするために、ゴルディアスと背中合わせになる形で縄で縛り付けられていた。ウィリアムが暴れると、ゴルディアスの腹筋にも負担がかかるようになっていた。最悪の一蓮托生だった。
「ところで後ろを向く意味はあるのか?俺の方を見てほしいわけじゃねえが」
「竪琴の音にどこまで反応してくれるのか、奏者である僕がこの目で確かめないとね」
ウィリアムの合理的な判断に、ゴルディアスは内心驚いていた。彼のことだから、「風を後ろ向きに感じたい。そうすれば僕にとっては追い風になる」などと言うとばかりに思っていたのだ。
ゴルディアスは奏者のウィリアムと共に馬に乗り、草原の真ん中で待機していた。ペイルランスが接近してきたらすぐさま逃げられるように、手綱は握ったままだ。今のところペイルランスが追いかけてきてはいない。森の入り口に目を向ければ、ブリジットが獣たちを押しとどめている様子が見えた。あの鉄糸は、ブリジットが学生時代から愛用していた武器だ。ゴルディアスは何度かメンテナンスを頼まれたのでよく覚えている。あれはいい武器だと、ゴルディアスは思っていた。剛力ではなく技術で魔獣を倒すあれは、魔法ではないゆえに魔力を浪費しない。最後まで奥の手を温存しておけるのだ。昔よりも腕に磨きがかかっているのか、彼女は森からペイルランスが出て来ることを阻止できている。
「やっぱり森はあいつの主戦場だな」
ゴルディアスがぼやくと、ウィリアムは竪琴の手を止めずに問い掛けてくる。
「あの糸…魔獣は切れるのに、巻き付けている木や枝が無傷なのはどうしてだい?」
「ああ、俺も原理には詳しくねえが、どうやら魔力を流すことで切れなくすることもできるらしい」
枝や幹に触れる僅かな面積にのみ魔力を流すことで、魔獣だけを切り裂いているのだ。まるで蟻の目に針を刺すような精密な技術が求められる戦闘スタイルだ。誰にでもできることではない。傭兵団にだって、ここまで繊細な魔力操作をできるものはいない。
「やっぱり近衛兵になるのは引き留めるべきだったか」
「つまらないことを言うなよゴルディアス。若者の足を引っ張るなんて、亡霊にでもなりたいのか君は」
ウィリアムの言葉に、ゴルディアスは少しばかり自分を恥じた。今のは寝言だ、と言い訳をして。森の方ではエインがブリジットと話している様子が見えた。それも束の間のこと。突然遠く離れたゴルディアスたちにでさえ聞こえる嘶きが草原を震わせた。その直後に現れた個体は、遠目に見ても今までの獣たちより大きな体躯をしていた。エインが素早く陣形を立て直し、ブリジットが仕留め損ねたそれを槍の錆とした。ブリジットがペイルランスを抑えきれなかったのは、武器の消耗が原因だろう。群れの数が糸の耐久性を上回ったのだ。おそらくそれはブリジットもわかっていたことで、だからこそ戦力不足を訴えかけていたのだろう。
「これで終わり…とは思わない方がよいのだろうね」
ウィリアムの呑気な声が竪琴の音色に溶けていく。先程の個体を倒してから、森は静まり返っていた。数分が経過しても、新たな獣が現れる気配はない。それはブリジットたちも感じ取っているのか、臨戦態勢は解かないものの、まとう空気からは鋭さが薄れている。戦いが終わったとは判断できないが、一つの区切りを迎えたことは間違いないだろう。ゴルディアスはこのまま何事もなく、全てが解決するように祈った。そんな時だった。
「困ったなあ。これじゃ俺の計画も台無しか」
直ぐ近くで、男の声がした。驚いて声のする方に振り返れば、そこには中年らしき男が佇んでいた。撫でつけた黒髪が特徴的な、体格の良い男だ。
「誰だ」
ゴルディアスは腰に下げた剣に手をかけながら、男を見据える。両者の間には、夏に憧れる春の風が吹き抜けていった。




