第32時限目 親恩(しんおん)のお時間 その4
「あ、ありがとう、萌ちゃん」
「別に良いわよ」
「あ、後はへ、部屋に帰るだけ、だから、大丈夫、だよ」
寮に戻って、玄関の縁に腰掛けた繭ちゃんが萌にそう言ったけれど。
「駄目よ。繭の部屋は2階なんだから、階段の上り下りもその足では大変でしょう? むしろいっそのこと、今日は私の部屋に泊まってもいいわよ?」
「だ、大丈夫! ま、全く足をつけない、わけじゃない、から」
繭ちゃんが首を横にぶんぶんと振る。
ここまで意思表示する繭ちゃんも珍しい気がする。
「そうやって無理して、また転んだらどうするの?」
そのやり取りを見ていたら、私は思わず、
「何か、過保護なお母さんみたい」
と言葉を零してしまった。
「誰が過保護よ。怪我したら心配もするでしょう?」
萌がちょっとむすっとした表情になった。
「気持ちは分かるけど、一旦は繭ちゃんを部屋まで連れて行こう」
「う、うん。あの、私のお部屋まで、お願い」
まだ言いたいことはありそうだったけれど、繭ちゃんの言葉を優先させ、萌は再び繭ちゃんに肩を貸した。
私も3人分の荷物を持っているから、そのまま2人の後ろをついていく。
繭ちゃんの部屋は丁度私の部屋と真逆で、2階の1番奥の部屋だから、壁に手を付けながら歩くとしても距離が結構ある上に、階段を上り下りするときには確かに足に負担が掛かるから、萌が心配するのも分からないでもない。
とはいえ、萌が言っていた「私の部屋に泊まればいい」というのは少しばかり話が飛躍している気がするけれど。
繭ちゃんの部屋の中も比較的質素だけれど、机の上には少し大きめの花瓶があり、そこに生花が何本か挿してあった。
花の名前はちょっと私では……あ、いや、あの真っ赤な鶏冠みたいなのは……えっと、名前の通り鶏頭だった気がする。
「とにかく、何かあったら呼んでいいから」
「う、うん、ありがとう」
「いいわね?」
念押しする萌が先に、続いて私が繭ちゃんの部屋を出た。
「……あれくらい言っても、多分あの子は手伝ってって言わないのよね……」
萌はふぅ、と小さく溜息を漏らす。
「繭ちゃん、気を遣うタイプだしね」
「そう、だから繰り返し、ちゃんと困ったら連絡しなさいって言っているのよ。もし、本当に階段を降りるときに転げ落ちたりしたら、今度は足を捻るだけじゃ済まないんだから」
「それは……そうだね」
ただ、おそらく繭ちゃんは他人にヘルプを出すよりも、最悪這ってでも自分でどうにかしちゃうんじゃないかというのが正直なところ。
「だから、ああやって“過保護”なことを言わないといけないのよ」
隣を歩く萌がそう言って、鼻を鳴らす。
「あ……ごめんなさい」
思ったよりも萌が傷ついているようだったから、私は頭を下げて謝った。
「……いえ、言いたいことは私も分かるわ」
足を止めて腕を組んだ萌が、視線を床に逸らす。
「でも、正直あの子とは幼馴染だから、困っていたら助けてあげたいのよ。お互い、あまり友人と呼べる相手が多くなかったからね。ああいや……ここ数年、繭はかなり友人というか、後輩から慕われているようだけれど」
「ああ、あれは……慕うというよりもむしろ教祖様に近いような……」
「ふふっ、それもそうね」
私の言葉に頬を緩ませた萌。
しかし、幼馴染……そういえばそうだっけ。
やっぱり、萌と繭ちゃんが幼馴染というイメージがないけれど、そうやって何となく強い繋がりが感じられて――
「――ちょっと羨ましいな」
「唐突に……何が羨ましいのよ」
私の言葉に、目を瞬かせて、私の方を見る萌。
「あー、えっと……私には幼馴染と言えるような相手が居ないから……そういう関係ってちょっといいなって」
小学校と中学校は同じ校区で、見知った顔自体はある程度あったのだけれど、中学の寮ではあの騒がしさにあまり慣れず、高校受験では二見台に行ったことで、中学までの知り合いとはほとんど離れてしまったから、今も繋がりがある相手はほぼ居ない。
……高校まで同じだった子が全く居ないわけではないのだけれど、彼女は私を目の敵にしているから、可能な限り会いたくない。
「別に、大していいものでもないけれど」
「それでも、幼馴染が居ない人にとってはいいなって思うんだよ」
「ふーん……。準は姉妹とか兄弟とか居るの?」
少し思案した後、萌がそう尋ねたから、
「うん、妹が1人」
と私は答えた。
「それなら、私はそれが羨ましいわ。妹か弟が欲しかったもの」
「そうなんだ。別に居ても……って、ああ、なるほど」
私の答えが、さっきの萌と同じことに気づいて、私は苦笑した。
「そういうこと。持つものは持たざるものの心は分からないって話。まあ、幼馴染は生まれと違って後から出来るものだけれど、それでも親の引っ越しとか、私たちでどうにか出来ないものもあるから、幼馴染の関係が続くかどうかは運みたいなところもあるわよ」




