34話:遠慮はここまで
毎日通っている学校までの道が、今日はやけに長い。
隣の明子は昨夜より口数が少ない。校門が見えたところでマフラーへ顎を埋めた。自分の受験より落ち着かないとは、俺も重症だな。
入試のため在校生は自宅学習だ。見慣れない制服の受験生が案内板の前に集まっている。
「あっちで受付だな」
「……うん」
計算の符号に気をつけろ、分からない問題で止まるな――言いたいことはまだいくらでもある。
だが、それは散々言ってきた。今さら詰め込んで頭を混乱させてもしょうがない。
「終わったら連絡しろ。迎えに来る」
「お姉ちゃん、家にいる?」
「ああ。ここで待ってたら邪魔だろ」
「そうじゃなくて……うん。分かった」
明子はバッグの持ち手を握り直し、受験生の列へ歩いていく。一度だけこちらを振り返ったので手を上げてやると、ようやく少し笑った。
俺にできるのはここまでだ。
そう割り切ったはずなのに、家へ戻ってからもスマホが気になる。試験中に連絡など来ないと分かっていても、何度も画面を見た。
学校の課題も洗い物も済ませゲームを起動する。でも対戦中に連絡が来たら困ると思って結局閉じる。一人用のゲームもあるくせに、何を言い訳しているんだか……
昼前になって、ようやく明子から通知が届いた。
『終わった!』
その一行に、深いため息が出た。親の気持ちが今分かった。結構くるもんだなこれは――
『今から行く。朝のところで待ってろ』
◇
校門の外で見つけた明子は、こちらに気づくなり小走りで寄ってきた。
「どうだった?」
「数学、最後のほうが分かんなかった」
いきなりそれか。嫌な汗が出そうになるが、まずは続きを聞こう。
「ほかは?」
「できたと思う。見直しもしたし、教えてもらった図形の問題も出たよ。ちょっと違ってたけど」
「解けたのか?」
「うん。たぶん」
その『たぶん』が気になるが、校門の前で答え合わせを始めてもしょうがない。昨日まで一緒にやったことを試験でも使えたなら、まずは上出来だろう。
「よくやったじゃん。最後まで頑張ったな」
俺に褒められて明子が嬉しそうに笑う。つられて笑いそうになるが――まだ結果は出てないんだぞ!
とはいえ試験はもう終わっている。今さら詳しく聞いたところで、答案を書き直せるわけでもない。
なら気持ちを入れ換えようか。明子のバッグを持ってやり、まずは落ち着いて飯でも食わせることにした。
「腹減っただろ。何が食いたい?」
「パスタ」
「ならどこかに食べにいくか」
「お姉ちゃんが作ったの食べたい」
「そうか。なら帰るぞ」
部屋へ戻ると、明子はすぐ母さんに電話をかけた。
パスタ用の湯を沸かしながら準備していると、さっきと同じ『たぶん』が聞こえてくる。俺だけじゃなくて母さんまで不安にさせるなよ……
電話を代わってくれということで俺から母さんに無事に終わったことを伝える。
昼食のあとに帰すと話をつけていると、横から明子が俺の袖を引いた。
「今日も泊まっちゃ駄目?」
「一泊の予定だっただろ。というか明日の授業はどうするんだよ?」
「……むぅ」
「私は不機嫌仕草で意見を変えるような人間か?」
「……思わない」
「分かっているならよろしい」
まあ、明子もやってみただけだろう。とにかく母さんに夕方までには返すと伝える。
「――ほら、スマホ。泊まるのはまた今度でいいだろ。今日は飯食って帰れ」
「泊まるのは諦めるけど、もっと一緒にいたいよ……お姉ちゃん、帰すの早くない?」
「別にやることもないし、受かったなら嫌ってほど一緒にいられるさ」
「駄目だったら?」
「……諦めろ」
「そんなー!」
明子が俺に抱き着きながら文句を言ってくる。
でもまあ、これも姉妹同士のじゃれ合いだ。昼食を作ってやれば満足そうに俺のパスタを食べている。
ソファで食休みしていると、ここでも抱き着いて来るんだから本当に甘えん坊だな。
……まあ、今日くらいはいいか。
◇
駅の改札を前にして明子が俺に振り返る。名残惜しく、まだ話し足りないらしい。
「お姉ちゃん、合格したらすぐ連絡するね」
「落ちてても連絡しろよ。そこは隠すな」
「そういうこと言わないで!」
「結果がどうでも、ちゃんと話は聞くって意味だよ」
明子が口を閉じ、少しして頷く。
「……うん。分かった。じゃあ帰るね」
「気をつけてな」
改札を通った明子が二度振り返り、そのたびに手を振る。階段の向こうへ消えるまで待って俺も駅を出た。
やれやれ。終わったか。発表も手続きも残っているけど、これで楽になった。
部屋へ戻り、明子が使っていたクッションをソファの端へ寄せる。腰を下ろして、皆に終わったと知らせておくことにした。
『妹の受験、ひとまず終わったよ。さっき帰した』
返信はすぐに来る。一番は真琴か。
『お疲れ! どうだった?』
『本人はそこそこできたらしい。結果はまだだけどな』
『そっか。今から行っていい?』
なるほど。早い者勝ちってことで狙っていたなこれは。
少し笑ってしまうけど、俺も真琴と過ごせるなら嬉しいから気持ちはわかる。
年末からろくに遊べていないしな。俺も誰かと話したい気分だ。
『いいぞ。暇になったところだ』
◇
「お疲れ、受験生のお姉ちゃん」
玄関を開けると、真琴はコンビニの袋を持ち上げた。
「私が受けたわけじゃないんだけどな」
「でも、ずっと教えてたじゃん。ほら、甘いもの」
受け取った袋には二人分の菓子が入っている。俺が好きなものをちゃんと選んでいるのがこいつらしい。
「妹ちゃん、緊張してた?」
「朝はな。帰りはよく喋ってたよ」
「英子は?」
「何が?」
「緊張」
「……多少は」
「あはは。英子でもそうなるんだ」
隠してもしょうがないので認めると、真琴は妙に嬉しそうに笑った。人の気苦労がそんなに面白いか。
飲み物を用意して隣へ座る。俺が菓子の袋を開ける間、真琴はテーブルの端に残った中学生向けの教材を眺めていた。
「妹ちゃん、頑張ったんだね」
「ああ。最初はどうなるかと思ったけどな」
「なら、受かってるといいね」
「本当にな」
散々付き合った以上、どちらでもいいとは言えない。明子がいなくなっても、結局考えているのはそれか。
真琴はそんな俺の顔を見ていたが、やがて自分のカップを置いた。
「これで妹さんの用事は終わり?」
「ひとまずな。結果はまだだけど、私が教えられることはやった」
「そっか。じゃあ、遠慮しなくていいよね?」
明子のことを聞いていた時とは少し違う声だ。俺が返事をするより先に、真琴はソファの上でこちらへ向き直った。
返事の代わりに、真琴の手が俺の頬へ触れる。そのまま顔を寄せられ――唇が重なった。
驚くほどのことではない。明子の受験の間は真琴とはまともに二人きりになっていなかったからな。
そう考える間にも二度目が来たので、今度は俺から受け止める。
「ずっと我慢してたんだから、これくらい……いいでしょ?」
「……そうだな。もう妹は帰ったんだから自由にしていいさ」
俺の返事に真琴はさらに嬉しそうに笑っている。そして親指だけが動き、俺の唇の端をなぞった。
「なら自由にするね。英子も私としたかった?」
「……したかったよ。これで満足か?」
俺が買っている女たちにはそれぞれの良さがある。
だから真琴としたいか、したくないかで言ったら当然したいに決まっている。そんなこと真琴も分かっているだろうにな。
「うん。かなり」
「この前まで百合だレズだって言葉遊びしてた奴が、随分と開き直ったな」
「いいじゃんレズで。英子はどうなの? 友達同士でレズセックスするのは嫌い?」
最後の問いだけ、真琴は耳元で囁いた。
こいつ……完全に誘っているな。俺がこういうこと言われるのを好きだろうと見切って、あえて言っているんだ。
「……その質問、私が嫌いじゃないって知ってて聞いてるだろ」
「うん。知ってる」
なら、これ以上は問答を続けるだけ無駄だ。
明子のことで我慢させたのは事実だし、俺だって真琴を遠ざけたいわけではない。向こうが遠慮をやめるなら、こちらだけ行儀よく座っている理由もない。
真琴の顎へ指をかけ、今度は俺から唇を重ねる。
久々に味わう女は真琴だったが――やはり俺は女を抱くのを止められそうにないと改めて思った。




