32話:世界で一番大切なもの
小さな手が、俺の人差し指を握っていた。
まだ自分の手だって小さいのに、明子の指はそれよりずっと細い。少し動かせば抜けそうだったが、起こしてしまう気がして俺は寝ている妹の顔を覗き込んでいた。
これは前世の記憶が少しずつ戻ってきた頃の話だ。あの手の小ささだけは妙にはっきり覚えている。
俺は基本的に自分の命が一番大切だと思っている。自分を大切にできない奴が他者を思いやれるなんて思わないからだ。
それが今度の人生では、自分より優先すべき存在ができてしまった。
明子が泣けば気になる。笑えば嬉しい。俺を見つけて手を伸ばしてくるだけで、やっていたことを放り出してその手を掴んでしまう。
成長してからも大差はない。食べるのが遅いと手を貸し、転びそうになると先に支え、母親からは明子が自分でやるのを待ちなさいと何度も注意された。
そのくせ明子には、俺より立派な大人になってほしいなんて考えているのだから我ながら勝手なものだ――
◇
「お姉ちゃん!」
改札を出た途端、黒髪を揺らして明子が駆け寄ってきた。
足を止めるかと思えばそのまま飛びついてくるので、鞄を足元へ下ろして抱き留めてやる。
「危ないだろ。人もいるんだから」
「それはちゃんと見てたよ。おかえり!」
「ああ、ただいま」
ほぼ一年ぶりに見る濃い茶色の瞳が、俺を見上げて笑っている。
「少し背が伸びたか?」
「伸びたよ。連絡はしているでしょ!」
「目で見るのとは違うだろ」
髪も伸びたし、コートに合わせたマフラーも見覚えがない。俺と似た顔立ちでも明子のほうがずっと愛嬌がある。
少し離れて見ようとしたら、腕を掴み直された。
「何で離れるの?」
「もっと全身を見たいと思ったんだ。いきなり抱き着かれたからな」
「駄目! それはあとでいいでしょ。今は一緒に歩くの!」
「仕方ないな。じゃあいくか」
「うん!」
鞄を拾い上げるのを待って、明子が空いているほうの手を取ってくる。
姉妹揃って手を繋いで歩くのは気恥ずかしいけど……まあいい、好きにさせてやろう。
◇
実家に戻ると母さんが学校からの資料をテーブルに持ってきた。
父さんも明子の希望は聞いているらしい。まず学校の先生へ相談し出願条件を確かめる。元の志望校も残して考えるという話になっているようだ。
「英子も自分の学校があるんだから、全部引き受けなくていいからね」
「分かってる。まずは勉強を見てから考えるよ」
明子が欲しがっているのが高い服や鞄なら買って渡せば済むんだがな。試験の点数となると、さすがに代わりに稼いでやれない。
「明子。部屋で答案を見せてくれ」
「こっち」
「場所くらい分かるよ」
家の中だというのにまた手を掴んでくる。別に逃げないんだから、もう少し落ち着いてくれ。
明子の部屋の机には模試の答案と問題集が揃えてあった。小さなテーブルのそばには座布団が二つ置かれている。俺が座るところまで準備済みか。
腰を下ろすと、明子は今朝解いた問題から見せてきた。
「これで合ってる?」
「ああ。途中式もちゃんと書けてるな」
向かいで嬉しそうにする明子を見ながら、俺は残りの答案も広げていく。
英語は読めていても設問を取り違え、理科や社会には覚え直せば拾える点が残っている。
全部が駄目というほどでもないからかえって悩ましい。
「この間違えた問題、あとでやり直したか?」
「解説は読んだよ。赤で直してあるでしょ」
「じゃあ、もう一回やってみて」
答えが見えないように紙を重ねる。明子は問題を読んで式を書きかけ、そこで鉛筆を止めた。
「……最初ってどうするんだっけ」
「求めたいものはどれだ?」
「こっちの数」
「それを文字にしてみろ。もう片方はどう書ける?」
問題文を指すと明子は小さく頷いて続きを書く。そこからは自分で計算し、答えまで辿り着いた。
「できるじゃないか」
「今のは教えてもらったからでしょ」
それもそうだ。最初の一手を教えたのは俺だからな。
さらに何問か確かめていく。易しいところで止まる一方、面倒な計算はできる。解説を読めば式は追えるからその場では分かった気になるんだろう。
うちの高校へ安全に受かるには、ちょっときついぞ……
教えてやること自体はできる。だが、俺が隣にいない時間はどうする? 真琴みたいに考え方を掴めばあとは一人で進められるタイプとも違う。
「明子。学校から帰って毎日ちゃんとやれるか?」
「やるよ」
「私が来た日だけ頑張っても駄目だぞ。分からなくなったところを放っておいたら次も同じことになる」
「分かってる。……でも、何からやればいいか分からないんだもん」
明子は答案の端を指で押さえた。めくろうとしていた次のページにも赤字が並んでいる。
頑張っているのは分かる。でも、同じことをするだけで学びがないのでは意味が薄い。
「ほかの問題も解いてみろ。それを見てから考える」
「どれ?」
今のと同じ解き方を使う問題とその前に習う基本問題を選ぶ。どこまで戻れば自力で解けるんだ?
「この三問だ。今度は途中で教えないぞ」
「分かった。だから見ててよ」
「見てると口を出したくなるからな。終わってから見せろ」
不満そうな顔をしながらも明子は問題集を自分の前へ引き寄せた。
その間に俺はノートパソコンを開き、実家から通える塾を調べる。途中から入れるかは問い合わせないと分からないが、やるなら個別指導だな。
餅は餅屋だ。分からないところまで戻って教えるのは任せ、足りないところを俺が補えばいい。金はあるんだから、俺だけで抱え込むこともない。
あとは、教わったことを一人で解けるようにする練習か……その反復をゲームにできないか?
AIにコードを書くのを手伝わせ、正解した分だけ先へ進めるようにする。間違えた問題は日を置いてまた出せば、空き時間に繰り返し解けるだろう。
「明子、勉強に使えるタブレットってあったか?」
「ないよ。スマホじゃ駄目?」
「問題と説明を一緒に見るには小さいだろ」
「何か買うの?」
「まだ考え中。邪魔して悪かったな。今はそっちを優先してくれ」
端末代など惜しくもなんともない。過去問を目安に、明子が解けるところから始める受験ゲームを作ってみるか。詰まった問題を残しておけば個別指導でも使えるかもしれない。
「できた」
差し出されたノートを確かめると三問とも式と答えが合っている。
「よし。これは自分でできたな」
「ね?」
「でも、入試ではもう少し難しいのも出るぞ。これで安心するなよ」
「お姉ちゃん、厳しくない?」
「受かりたいんだろ?」
明子は文句を引っ込めたが、ノートは俺の前へ出したままだ。できた三問まで取り消したつもりはないんだがな。答えに丸をつけて返してやる。
「個別指導の塾も探してみようと思う。あとで母さんと相談しよう」
「塾に行ったら、お姉ちゃんはもう見てくれないの?」
「見るよ。私が帰ってこられない日も教えてもらうためだ」
「……それなら行く」
勉強のためなんだから、そこを条件にするなよ。
使えそうな教材を調べていると、明子がノートを持って横へ回り込んできた。隣に腰を下ろすなり体を寄せてくる。
「……なんだよ」
「お姉ちゃんの匂いがする……」
「そんなに臭いか? 風呂には入ってるんだけどな」
「違うよ! 帰ってきたなって思っただけ」
「さっきからずっといるだろ」
「そういうことじゃないの!」
言いたいことは分かるし、俺だって会えて嬉しい。でもな、受験が気になって仕方ないんだよ。
「今日はいつまで見てくれるの?」
「明子のやる気が続く限りずっとだ。気分転換の散歩くらいはするけどな」
「うん。頑張るね!」
いい返事はする。しかし俺に抱き着く体勢に変化はない。
「ほら、離れろって。勉強するんだろ」
「……あとちょっと」
俺に甘えたいのは分かるが、前途不安だぞこれは……




