3話:契約成立
カフェで別れて、その日の夜。風呂から上がってスマートフォンを見ると短いメッセージが届いていた。
『今日の話だけど、受けることにするわ。どうしたらいい?』
考える時間が欲しいと言ってから半日も経っていない。
十万円という金額は鹿島先輩にとって迷いを押し切れるだけの重さがあったらしい。
『明日、私のマンションで。近くの公園で待ち合わせましょう。場所は――』
送信してから一分もしないうちに既読がつき、ややあって『分かった』と返ってきた。
こちらが条件を提示し、相手が受け入れる。実に分かりやすい関係だ。
金を払うことと、受け取ること。この儀式には越えられない一線がある――そう考えるのは、俺の思い込みだろうか? 今までの経験では問題は起きていないが、先輩はどうだろう?
……いや、無駄な考えだな。俺は俺のスタンスとして、そうすると決めている。それだけだ。
◇
約束した休日の昼過ぎ、俺は先輩を自分の部屋に招き入れた。
「いらっしゃい、鹿島先輩」
「……お邪魔します」
これからすることを意識しているのか、部室で見せる余裕はすっかり消えていた。
薄い色のブラウスにロングスカートを合わせた服装は、昨日のカフェより気合が入っているように見える。
俺の勘違いでも構わない。今から抱く女が普段より身なりへ気を使ってきた。そう考えるだけで十分に興奮できる。
「好きなところに座ってください。飲み物でも持ってきますよ」
先輩をソファへ案内し、キッチンでウーロン茶を二人分用意する。戻ってみると、鹿島先輩は落ち着かない様子で部屋を見回していた。
「本当に一人で住んでるの? 広くないかな?」
「広いですね。でも、条件が合う部屋がなかなか見つからなくて、諦めてこの部屋に決めたってわけです」
防音とセキュリティがしっかりしていて、学校へのアクセスも悪くない。俺にとってはそれだけのマンションだ。
ウーロン茶を置いても鹿島先輩はカフェのときと同じく、グラスへ触れるだけで口をつけない。
――今から部活の後輩、しかも女に抱かれるとなれば緊張するのも当然か。
俺だけが一口飲んだところで、鹿島先輩が沈黙に耐えかねたように話し始める。
「……それで、どうすればいいの?」
「まず条件を確認しましょうか」
向かいから目を見て話せば、鹿島先輩の背筋がわずかに伸びた。
可愛い反応ではあるが、商談でもあるからちゃんと聞いていてもらわないと困るな。
「今日は途中でやめても構いません。帰りたいと言われたら、その時点でやめます」
「……なにそれ。それだとお金を貰ってすぐに帰ることだってできるんじゃ?」
鹿島先輩が探るように俺の顔を見る。
「構いませんよ。ただし、その場合は契約破棄と見なして次回から呼ぶことはありません」
鹿島先輩の目と眉がわずかに動いた。
単発でないことは説明していたが、今日のことでいっぱいいっぱいで頭が回っていなかったのかな?
「初回と言ったでしょう。双方に問題がなければ、また提案する可能性はあります」
「途中で無理だと思って帰ったらお金は受け取れても……それで全部終わりってことね」
「はい。やめたことを責めもしません。その代わり、同じ条件でもう一度――という話もなしです」
曖昧にしてあとから気まずい顔をされるほうが面倒だ。互いに選択の結果を引き受けるからこそ取引として成立する。
鹿島先輩は俺から視線を外し、窓の向こうを見た。俺もそちらを見れば昼の光を受けた建物の壁が白く眩しい。
「……分かった。それでいい」
鹿島先輩が小さく頷く。となれば、ここからは詳細な説明だ。
「では手順を説明します。私が先にシャワーを使い、そのあと鹿島先輩に使ってもらいますが服は着直してください」
「どうして?」
「そのまま帰る選択肢を残すためです。お金を受け取るまでは何も成立していません」
「……ここまで来て、帰ると思ってる?」
少し腹を立てたような声で責められるが、これは必要なことだ。
「思うかどうかではなく、帰れる状態にしておくんですよ。直前で逃げ出してもいいってことです」
鹿島先輩は唇を結んだ。こちらを睨むような目つきから、ゆっくり力が抜けていく。
「柚木ちゃんが理屈屋だってのは知っていたけど――今日は強く実感しているわ」
「あとで揉めるより楽ですからね」
「……そうね」
何を思ったのか、先輩はほんの少しだけ笑った。
俺は立ち上がり浴室の場所を教える。新しいタオルと、未開封の歯ブラシも洗面台へ置いてある。
「なにこれ……準備よすぎない?」
「人を呼ぶならこの程度は用意しますよ」
「手慣れているってことは、当然私以外も?」
「サンプルは多くはないですが、女の扱いはそれなりという自負はあります」
「サンプルって……」
無機質な言い方には呆れたらしいが、それ以上は聞いてこなかった。
「……では、私から入ります。出るまで適当に寛いでいてください」
裸になってから浴室へ入り、普段より念入りに身体を洗う。湯気の中で肌へ触れるうち、これから女を抱くのだという実感が追いついてきた。男だった頃ならギンギンに興奮しただろうが、今はその熱と奇妙な落ち着きが同居している。
鏡に映るのは、濡れたショートヘアを頬へ貼りつかせた女だ。顔は美少女と言って間違いない。胸がそこそこなのは残念だが、それ以外の女らしいスタイルは自分でも悪くないと思う。
この姿で鹿島先輩に触れ、向こうからも触れられる。――そう思ったことで、今日一番の熱が体に宿るのを感じ取った。
シャワーを止め身体を拭いて、脱いだ私服をそのまま着直す。そしてリビングへ戻ると、鹿島先輩は棚に並べたレトロゲームコレクションを見ているようだった。
「お待たせしました」
振り返った先輩の視線が俺の濡れた髪から襟元へ下り、慌てたように顔へ戻る。
「次は鹿島先輩です。寝室の場所は分かりますね? シャワーを浴びたら鞄を持って来てください」
「……うん」
先輩は鞄をソファに置いたまま浴室へ向かい、廊下の角を曲がる直前に一度だけこちらを振り返った。
「まだ、帰ってもいいんだよね?」
「もちろん。最後に決めるのは鹿島先輩です」
「……分かった」
鹿島先輩は覚悟を決めたような顔をしてから、今度こそ浴室へ消えた。
やがて、水音が聞こえ始める。
同じ家の中で、鹿島先輩が身体を洗っている――これは思った以上に興奮するな。女にこれだけ欲情できるなら、俺もまだまだ心は男と言い張っても間違いじゃないだろう。
そんなことを考えつつ、寝室に向かい引き出しから新しい一万円札を十枚取り出す。封筒には入れずに、その場で見せるのが俺のスタイルだ。
ベッドの傍らのテーブルの上に金を置けばあとは待つだけ――浴室の扉が開く音がして、廊下を歩く足音が近づいてくる。
寝室に入って来た鹿島先輩は鞄を持ち、来たときと同じ服を着ている。だが、髪は乾かしきれておらず首筋に残った水滴がブラウスの襟へ吸い込まれていた。石鹸の香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
「鹿島先輩。これが十万円です。数えてください」
テーブルの上に置いていた札を、鹿島先輩の手に渡す。
「分かった」
鹿島先輩は札を一枚ずつ確かめる。十枚目を数え終えるまで、俺は黙ってその指先を眺めていた。
「……確かに十万円あるわ」
「結構。では、これが最後の確認です。このまま受け取り鞄にしまうか、それともテーブルの上に置くかです。置いたならそのまま帰ってください」
「鞄に入れたら?」
「――契約成立です」
エアコンの動作音が妙に大きく聞こえる。鹿島先輩の指が十万を掴んだまま動かない。湿った髪から落ちた雫が頬を伝い顎の先で揺れる。
――俺は急かさない。ここから先は先輩が決めることだ。
長い沈黙のあと、鹿島先輩は十万円を鞄の中に入れた。
「……これで、いいんでしょう?」
その瞬間、俺は鹿島先輩の手首を掴んだ。
「え」
「では、成立ですね」
身体を後ろへ倒しながら腕を引くと、鹿島先輩が短い声を上げてベッドへ落ちてくる。昼の光の中で、柔らかな布団が二人分の重みで深く沈んだ。




