27話:ただの親友は嫌
真琴が泊まり込みの勉強会を始めてから、六日目の金曜日。
ダイニングテーブルの上には教科書と問題集、赤字の増えたノートが積み重なっている。日曜日に大荷物を抱えてやってきた真琴は、学校から一緒に帰っては俺の部屋で勉強し、そのまま泊まる生活を続けてきた。
中間試験の前にも似たような一週間を過ごしている。ただ、あの頃から二人の距離はずいぶん変わった。止まったと思った真琴とのキス――これがまた再開されたからだ。
真琴の心境にどんな変化があったのかまでは分からない。でも、何かを察したような雰囲気を感じ取ることはできた。
俺のマンションの中だけに留まりはするけど、真琴にまるで遠慮はない。
すでに小春と莉理さんとの関係は変わってしまったんだ……真琴だけを拒否するというのは、それもまたおかしい。だから俺も親友の一言では片づけにくい関係を曖昧なまま受け入れている。
それでも勉強会そのものは前回と変わらない。小遣いの増額が懸かっているだけあって、真琴は苦手な英語からも逃げずに六日間を乗り切っている。
「これで終わり。あとは土日に自分で確認して、月曜に備えるんだな」
最後の問題へ丸をつけ、赤ペンを置く。真琴は大きく伸びをしながら、椅子の背へ身体を預けた。
「やっと解放された。英子、先生向いてるんじゃない?」
「教えても理解しない奴を相手にするのは嫌だよ。真琴くらいならまだ面白いけどな」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
時刻は午後八時を過ぎている。夕食は済ませてあるし、真琴の荷物も玄関脇へまとめてあった。
ここから映画でも見始めれば、また泊まると言い出しかねない。試験前の最後の土日まで遊びに使わせるのは、さすがに本人のためにならないだろう。
問題集を閉じようとした俺の手へ、真琴の指が重なる。
「ねえ。帰る前にキスしない?」
「なんで?」
「したいから。駄目?」
実に簡潔だ。分かりやすくてある意味では助かる。
あとは俺がどうしたいかだな。今さら断りたいとも思わないし――
「いいよ」
その瞬間、真琴が身を乗り出してきた。息遣いと唇に触れる感触――時間としては一瞬で、すぐに離れたものの真琴は満足してはいなさそうだった。
俺の反応を確かめてから椅子を寄せ、今度は頬へ手を添えてくる。
「どうせなら、今日は違うキスしたい」
「……たまってるのか?」
「さあね。でもキスしたくてたまらないから、したいだけ」
「同じことを言い直しただけじゃないか」
「じゃあ、こういうのは?」
真琴は俺を立たせ、壁際まで押してきた。背中が壁へ触れたところで片手を顔の横につき、もう片方の手で顎を持ち上げる。
先日、真琴に付き合って見た恋愛映画の一場面だ。退屈な映画だったが、このクライマックスだけは見どころがあった。
でもまあ、それを女二人で再現していると思うと少し笑えてくるけど。
「映画の真似かよ」
「似合ってるでしょ?」
「役が逆じゃないか?」
「英子を押さえつけるなら、こっちで合ってる」
言い切るなり唇が重なる。
さっきより長く、角度を変えて何度でも――映画の再現にしては熱が入りすぎているが、俺も人のことはいえない。押されるままでは癪なので腰へ腕を回すと、真琴は嬉しそうに目を細める。
こいつが勉強の褒美だけを欲しがっているわけではない。それくらいは俺にも分かっている。
ただ、真琴は俺が絶対に嫌がる一線を知っている。だから恋人になれとも、ほかの女を切れとも言わない。唇を重ねながらも、ときおり目を開けてこちらの反応を窺い、拒めば止まれるだけの距離を残していた。
それなら、俺も止める理由がない。
「次は?」
「なに? いきなり乗り気じゃん」
「ここまでやったんだ。最後まで付き合ってやるよ」
「なら、場所を変えよっか」
手を引かれ、寝室へ連れていかれる。真琴はベッドの縁まで来ると振り返り、俺の肩を押した。
背中からベッドへ倒れ込む。間を置かず覆いかぶさってきた真琴に唇を塞がれ、胸元へ置かれた手が服の上から形を確かめてくる。
腰から脇腹へゆっくり手が滑ってくるけど――その先へ踏み込む様子はない。俺の反応を眺めては口づけ、熱が上がれば少し手を止める。
普段の真琴とは違うな……遊びなら遠慮しなくてもいいのに、今夜ばかりは迷いながら進んでいるように思えた。
「――好きだよ、英子。好き」
キスの合間に落ちてきた言葉が、妙に耳へ残る。
「なんだよ、真琴。その好きって……」
「映画ではそういう場面だったし、私は英子が好き。別にいいでしょ?」
「いいけど、だからって、こんなのは……」
「恋人みたい?」
「ああ。そんな関係、私たちは望んでいないだろ?」
真琴の指先が俺の胸元で止まる。ここで否定されると思ったのに、返ってきたのは小さな頷きだった。
「うん。私も望んでない」
なら終わりだ。そう結論づけるより早く、真琴は俺の頬を撫でる。
「でも、英子は私の親友で、私も英子の親友でしょ? 一年の頃からずっと。勉強が分からない時も、男のことで困った時も、英子は面倒がらずに助けてくれたよね」
「友達だからな」
「だから好き。恋人にならなくていい。でも、ただの親友で終わるのも嫌。親友だからって我慢するのも嫌。英子が本気で嫌ならやめるけど、嫌じゃないならいいでしょ?」
ずるい理屈だ。
恋人として束縛はしない。それでもキスをして、ときには身体まで重ねる。そんなものが友人の枠へ収まるはずはない。
でも、枠からはみ出したからといって俺が嫌がる理由にもならない。
真琴は俺の親友で、こいつに触れられることを俺は楽しんでいる。名前をつけられない関係なだけで、そこまで否定する必要があるのか?
答えを出せない俺へ、真琴がもう一度口づける。
触れ方はますます際どくなり、身体も素直に熱を持つ。それでも真琴は最後の一線を越えず、長いキスのあとで俺の胸元へ額を伏せた。
「英子、嫌じゃなかった?」
「嫌なら、とっくに止めろと言ってるよ」
「そっか。なら今日はこれでいいや」
「これでいいのか?」
「今はね」
顔を上げた真琴は笑っていたが、普段の気楽な笑いより少し硬い。こいつ自身も、次にどこまで進みたいのか決めかねているらしい。
金を出すと言えば続きをできたかもしれない。だけど、それを口にした瞬間――真琴が今欲しがっているものとは別の関係へ戻る気がした。
結局、俺は何も提示できないままベッドから起き上がり一緒に玄関へ。そこで真琴へ荷物を渡す。
「土日はちゃんと復習しろよ」
「分かってるって。また月曜ね、英子」
「ああ。またな」
扉が閉じても、唇には真琴の感触が残っていた。
「俺は何を望んでいるんだ?」
恋人はいらない。親友は失いたくない。身体の関係なら金を払えばいい――
それぞれ分けて考えてきたはずなのに、真琴は親友のまま境目を踏み越え、俺もそれを心地よいと思っている。
考え続けるのが馬鹿らしくなり、スマートフォンを手に取った。連絡先から初瀬小春を探し、最後に交わしたメッセージを開く。
『私を買いたくなったら、いつでも連絡してください』
小春への不信感が消えたわけではない。また勝手な真似をすれば、その時こそ切る。
しかし、あいつは俺が空っぽなクズだと知ったうえで性欲をぶつける道具に使えと言ってきた。
別の狙いがあることも、面倒のない相手ではないことも分かっている。けど、だからと言って何の遠慮をする必要がある?
真琴の言葉へ答えを出す代わりに分かりやすい欲求へ逃げる……我ながら堪え性がない。だが、今は考え込むよりそっちを選びたい。
『買ってやる。明日、空けておけ』
一分も経たずに既読がつく。
『テスト前ですけど、土曜日ならいいですよね?』
続いて、隣町の煉瓦倉庫街で開かれる冬のクラフト&アンティーク市の案内が送られてきた。
古書や古道具、装飾品を扱う店が並び、夕方からは倉庫街のイルミネーションも点灯するらしい。
『朝から迎えに来て、一緒に回って、お昼も食べてください。ちゃんとエスコートしてくれたら、そのあと売ってあげます』
「一円でもいいと言っていた奴が、ずいぶん値を吊り上げてきたな」
呼び出したのは俺のはずなのに、買う気になった途端、条件を出してくる。ちゃっかり主導権を取りに来るとはいい度胸だ。
とはいえ、古書も古道具も俺の趣味から外れてはいない。小春と一日遊ぶこと自体も今さら拒むような話ではないし、明日は明日で楽しめそうだ。
『分かった。朝から迎えに行く』
送信すると、すぐに笑顔のスタンプが返ってきた。
明日は朝から、小春を恋人のように扱ってやる。




