26話:たかが呼び方、されど呼び方
窓の向こうが白み始めても、どちらからも眠ろうとは言い出さなかった。
さすがに身体が言うことを聞かなくなり、ようやく終わりにしてベッドへ転がる。薄いカーテンを透かした朝の光が、乱れた寝室をぼんやりと照らしていた。
「また……朝になっちゃったね」
「前もそうでしたよ」
「そうだけど。あの時は、これで終わりだと思ってたから」
「今回は違うんですか?」
「また売るって決めたもの。柚木ちゃんが買ってくれるならね」
隣で鹿島先輩が笑う。
前と今回で違うのは朝まで続いたことではない。前は最後の一夜になるはずだった。今は次があることを先輩自身が認めている。
「楽しかった?」
「はい。かなり」
「そっか」
鹿島先輩は自分が満足したかより、俺の返事を聞いて表情を緩めている。
恋愛は面倒だと思っていた。いや、今でもそう思っている。なのに買えるという言い訳で先輩を買ってしまったんだ。
自分自身を制御しているとは、とてもじゃないけど言えないよな……
まあ、今はいいか。前に鹿島先輩を抱いた時以来の充足感がある。それだけは真実だ。でもまぁ……より深い仲になってしまったとも言えるけど。
「先輩って、昨夜までは処女だったんですね」
「いきなり何?」
「いえ、ただの雑談です」
「雑談、ねぇ……まあいいけど、今まで気づいていなかったの?」
鹿島先輩が流し目で俺を見ている。
いきなり処女だなんだと話し出した俺が何を言うのか気になるようだ。
「気づいていましたよ。だから避けていたんですが、やりたいことをやるからには避けて通れません。昨夜は余計に気を使いました」
「私の処女を奪った感想がそれなの? ずいぶんな評価ね」
「処女だから特別だとは思っていませんから。そういう相手も初めてではありませんし、自分の経験もあります」
「経験? 男性経験はないんでしょ。相手は女の子?」
「相手はいませんよ。自分でぶち抜きました。せっかくの処女を誰かにくれてやるのも癪ですからね」
鹿島先輩は口を半端に開けたまま、俺の顔を見つめてくる。
「自分でって……本当に自分でしたの?」
「はい。だって自分の体なのに、他人にまかせるなんて変じゃないですか。一回限りの経験ですが、なかなか面白かったですね」
あの時は痛みより、未知を自分で確かめる興奮のほうが強かった。
でも、一度知ってしまえば興味も薄れる。俺にとって処女とはその程度のものだ。
「……思っていた以上に変な子みたいね、柚木ちゃんって」
「今になって気づいたんですか?」
「そんなわけないじゃない。改めてそう感じただけ」
鹿島先輩は俺を見つめたまま、何か言おうと迷っているようだ。
「……ねえ、英子って呼んでもいい?」
どうやら呼び方を変えたくて、それで迷いが出ていたらしい。
わざわざ許可を取ろうとするあたり、まだ俺との距離感を計りかねているんだろうな。
「いいですけど、どうしたんですか突然?」
「ずっと柚木ちゃんだったから、名前で呼びたくなっただけ」
鹿島先輩は俺の顔を見たまま、確かめるように口を開く。
「――英子ちゃん。どうかな?」
「呼び捨てじゃないんですね。年下相手に遠慮することないのに」
「そっちのほうが可愛いから。それに、私のことも名前で呼んでよ」
……ここまで来て名前の呼び方を躊躇する意味もないか。気にしていると言っているようなもんだしな。
「――莉理先輩」
「もっと近い感じがいい」
「注文が多いですね」
先輩をつけては駄目だったらしい。となると、あとは一つくらいしかない。
「なら、莉理さんでどうです?」
「うん。それがいい」
鹿島先輩――改め、莉理さん。
そう呼びかけただけで嬉しそうに笑っている。たかが呼び方を変えただけで、思った以上の反応が返ってきたな。
さらに莉理さんは満足そうに身体を寄せて来て、俺の肩口へ額を預けながら名前を呼んでくる。
「英子ちゃん」
「何ですか、莉理さん」
「呼んでみただけ。あと、お昼までは寝ててもいいかな?」
「いいですよ。私も眠いですからね」
「うん。なら一緒に寝ましょ。お休み……英子ちゃん」
「はい。おやすみなさい」
朝まで起きていた身体に莉理さんの体温が心地よい。
これ以上考えるのは起きてからでいい。莉理さんの寝息を聞きながら、今度こそ目を閉じた。
◇
次に起きた時には午後二時を回っていた。
昼までなら寝ててもいいとは思ったものの、これはどう考えても寝すぎだろう。
「一日、ほとんど終わっちゃったね」
「自分で泊まったんですから、私のせいにしないでくださいよ」
「そんなこと言ってないでしょ」
莉理さんは笑いながら颯太くんへ連絡を入れ、シャワーを浴びて身支度を整える。俺も遅い昼食を用意することにした。
「あり合わせでいいですか?」
「英子ちゃんが作ってくれるなら、何でも」
「名前で呼べばサービスが増えると思ってません?」
「思ってないわ。最初から十分なサービスが出るじゃない」
返ってくる軽口はいつもと同じだ。俺も肩の力を抜き、適当に作った昼食を二人で食べてから玄関まで見送る。
「また相談してもいい?」
「家計ならいつでもどうぞ」
「それ以外もね」
「……内容によります」
「そっか。なら期待しておくわ。じゃあまたね――英子ちゃん」
「はい。また部活で――莉理さん」
扉が閉じると、部屋へ一人分の静けさが戻ってくる。
五万円で買ったのは昨夜だけだ。それなのに玄関で交わした「英子ちゃん」と「莉理さん」は、もう次に会う時の呼び方になっている。
呼び方がひとつ変わっただけ……それで困ることはないはずだ。今さら取り消すのも馬鹿らしい、でも――俺は自分に課したルールを破ったのか? それともただの日常の延長?
……気にしても仕方ない。半端に余ってしまった午後はどうするか考えるか。
寝室へ戻り、充電器につないだスマートフォンを手に取る。眠っている間に届いた通知の中に、真琴からのメッセージがあった。
『また勉強会しない?』
続けて送られてきた文を開く。
『前の中間、英子に教えてもらったおかげで成績よかったんだよね。お小遣いも上げてもらえたし、次も狙いたい!』
二学期の期末試験まではもう一週間ほどしかない。前回と同じ手順を踏むなら確かにそろそろだろう。
『いいよ。いつからやる?』
送信すると、ほとんど間を置かず既読がつく。
『明日から! 泊まりでよろしく!』
「忙しい奴だな……」
思わず笑いが漏れる。
また勉強を見て、飯を食わせて、しばらく生活の面倒まで見ることになる。相変わらず遠慮がないけど、断る気にはならない。
真琴との距離まで何も変わっていないとは思わない。キスをするようになり、親友だけでは片づけにくいものも増えた。
――だとしても、届いた文面はいつもの真琴だ。
その気安さに、今は少しだけ助けられた。




