25話:変わってしまった売る理由
小春から一円で売ると言われてから、数日が過ぎた。
『今日、柚木ちゃんの家に行ってもいい?』
昼休みに鹿島先輩から届いたのは、そんなメッセージだ。
『いいですよ。何かありました?』
『引っ越してからのお金のことで、少し相談したいの』
それなら断る理由はない。放課後に部活へ顔を出し、鹿島先輩と一緒に俺のマンションへ帰る。
少し前までは先輩を買うために一緒に歩いた道ではあるけど、今日は真面目な話で終わりそうだ。
実際に話す内容は鹿島家の家計簿に関すること。鹿島先輩から見せられたデータを確認していく。
「まだ一か月分には足りませんけど、今のところ想定内ですね」
リビングのテーブルへ領収書を広げ、ノートパソコン上の数字と照合しながら引っ越し後の支出を確かめていく。
家賃と管理費、水道光熱費、通信費。引っ越した直後なので日用品の出費は多いが、毎月続くものではない。新居での暮らしが落ち着けばさらに数字は安定するだろう。
「食費、もう少し減らしたほうがいいかな?」
「必要ありません。三人分なら不自然な額ではないですよ。颯太くんも料理を続けてますよね?」
「最低でも週に一回は作ってくれてるわ。美羽も一緒に手伝うようになったしね」
「なら十分です。先輩が疲れた日まで無理に自炊して、続かなくなるほうが困りますからね」
古いマンションの売却も後見人と不動産会社の間で進んでいる。税金や諸費用を引いた金額はまだ確定していないが、今の家賃なら慌てて売る必要もない。
引っ越す前に組んだ予測から大きく外れた数字は一つもなかった。
「結論としては問題ありません。今の暮らしを続けて大丈夫ですよ」
「本当に?」
「数字を見て言っています。何か大きな変化があれば別ですけど、今から食費を削るような状況ではありません」
鹿島先輩は安堵したように息を吐く。
まだまだ心配性なところが残っているようだけど、人間そんな簡単に変わるはずもないか。
「柚木ちゃんに大丈夫って言われると、やっぱり安心する」
「そのために確認したんでしょう? また気になることがあれば持ってきてください」
「うん。ありがとう」
これ以上削る項目も急いで動かす金もない。家計の話には結論が出たし、このまま帰って貰ってもいいだろう。
でも、なんだ? 鹿島先輩は帰ろうとはしない。空になったカップを両手で包み、何かを切り出す機会でも待つように黙っている。
「まだ何かあります?」
「……柚木ちゃん、前に言ったよね。売っていないものは買えないって」
「ああ、その話ですか。言いましたが何か?」
「だから今日は……売りに来たの」
意味を取り違える余地はない。
あの夜、鹿島先輩は無料でいいと言った。俺が断ると、もう売りたくないとも言った。
それで一区切りになったはず。なのに、今度は自分から売ると言い出してくるとは……
「お金には困っていないはずでは? あと、売りたくないって言ったのは鹿島先輩です」
「そうだね。困ってないし、あの時は本当に売りたくないと思った。お金で繋がる関係なんて歪だし、嫌だったから……」
「なら、どうして売るんです?」
小春から色々言われて、俺が目を背けていた部分があることを今は自覚している。
だから、鹿島先輩が何を言いだすか予想はつく。だとしても――本人の口から聞いておきたい。
鹿島先輩はカップから手を離し、俺をまっすぐに見る。
「――柚木ちゃんと、また一緒にいたいから」
「……普通に遊ぶだけなら、今でも付き合いますよ」
「それだけじゃなくて……また、ああいう時間を過ごしたいの」
言い切ったあと、先輩の頬に赤みが差した。それでも視線は逸らされない。
「柚木ちゃんはお金を受け取らないのが嫌なんだよね?」
「まあ、そういうことになりますね。でも、お金が欲しいからじゃなくて、私に買わせるために金を受け取るんですか?」
「うん。変かな?」
「変でしょそりゃ」
「そうね。変だね。でも、お金を貰わないと柚木ちゃんと寝られない……そうでしょ?」
――英子先輩が買ってくれるなら、一円で。
こんなところで小春の言葉が重なった。やっぱり、そうなるか……鹿島先輩まで、金ではなく俺との関係のために体を売ると言っている。
一度通らなかった方法に固執しないのは鹿島先輩らしいとも言えるか? ゲームではそういうことを躊躇せずにやるタイプだ。
鹿島先輩が欲しいのは五万円ではなく、その先にある時間であるとすれば――その選択は合理的だろうさ。俺に対して、言い訳を許すってことなんだから。
鹿島先輩は席を立ち、テーブルを回って隣に改めて座った。
「前と同じ五万円なら、柚木ちゃんは私を買いたい?」
買いたいかどうかだけなら迷う余地はない。
「……面倒なことを考えなくていいのなら、買いたいですね」
「そっか、面倒……そうだよね。でも、いいの――」
鹿島先輩が俺の手首を取り、自分の胸へ押し当てた。
制服越しに柔らかな感触が伝わる。押し当てたのは先輩なのに、馴染んだ形を確かめるように指を動かしたのは俺のほうだ。
鹿島先輩は手元ではなく、俺の顔を見ている。呼吸の変化も視線の揺れも、見逃さないつもりらしい。
やがて、俺の手首を掴んでいた指が離れた。
自由になったことは分かっている。このまま手を離すほうがいいことは分かっている。
それでも手を引けない。久々に鹿島先輩に触れたような、そんな感覚……まるで本能に突き動かされるように、俺の手は勝手に動く。
「……やっぱり」
「……何がです?」
「触っているだけじゃないよね。手に力、入ってる」
「先輩が触らせたんですよ」
「もう、押さえてないよ」
鹿島先輩が俺の内側を覗き込むように、わずかに顔を寄せてくる。
「私のこと、欲しかった?」
以前の先輩ならこんな聞き方はしなかった。俺の出方を待ち、触れられるままになっていた人だったはずだ。
なのに今は――俺の反応を確かめて逃げ道を塞いでいる。
「……ずいぶん意地の悪い聞き方を覚えましたね」
「柚木ちゃんに教えてもらったの」
少し嬉しそうに笑われてしまえば、もう誤魔化しようがない。
最後に先輩を買った夜、俺たちは朝まで何度も身体を重ねた。あれで終わりにしたのは欲しくなくなったからじゃない。先輩が売らないと言ったからだ。
「颯太と美羽には、今日は友達の家へ泊まるって伝えてあるの。明日の朝まで帰らなくても大丈夫」
「最初から準備してきたんですか?」
「断られたら帰るつもりだったよ。でも、一度はちゃんと言おうと思ってた」
家計の相談は本物だ。そのうえで、俺と一緒にいたいという希望も持ってきた。
――俺は先輩の身体が欲しい。あの夜の続きを楽しみたい。
欲求のままに動いてもいいなら、迷う理由なんてない。
ただし、以前の関係とはもう違う。先輩が何を求めて金を受け取るのか、その理由が変わってしまっているからだ。
金では片づかないものまで一緒についてくる。面倒だとは思う。それでも……俺は鹿島先輩を求めずにはいられない。
こんな時なのに、小春の言葉が頭に浮かんだ。
――先輩って、空っぽな人ですよね。
……そうだ。俺は空っぽだ。だから目の前に欲望を満たす何かがあれば、それに飛びついてしまう。
たとえ俺が忌避していた関係になるとしても、今は鹿島先輩との関係を切りたくない。
「分かりました。五万円で買いますよ」
「本当に?」
「先輩が売ると言ったんでしょう。今さら驚かないでください」
ようやく胸から手を離し席を立つ。現金を置いてある引き出しから五万円を出してきて、それを封筒へ入れてからまた鹿島先輩の元へ。
「これを受け取ったら、今夜は先輩を買います」
「うん。それでいい」
鹿島先輩は迷わず封筒を受け取り、鞄へしまった。
最初の十万円を手にした時にあった怯えも迷いもない。代わりに浮かんだのは、望んだ答えを引き出した人間の笑顔だ。
「これで、また一緒にいられるね」
「今夜は、ですけどね」
「今はそれでいいよ」
金を挟めば分かりやすくなるはずだった。ところが今は、その金を使って俺の決めたルールの内側へ入り込まれている。
――それでも買うと決めたのは俺だ。ここまで分かって手を伸ばしたのだから、あとで面倒になっても自業自得だろう。
「先輩から売ったんですから、いままでしなかったことも……しますからね」
「ええ。そのために受け取ったの」
今夜は先輩が売り、俺が買った。それが俺に言い訳を与えるためであろうとも目をつぶる。
俺は鹿島先輩を――求めているのだから。




