16話:無料では抱けません
月が替わった最初の土曜日。マンションを出ると、朝の空気は秋の終わりを感じさせるほど冷たかった。
鹿島先輩から家の事情を聞いて五週間弱。後見人への相談から始まり、候補探し、内見、契約確認と順番に片づけ、ようやく引っ越しの日を迎えた。
その五週間で変わったのは住居だけじゃない。俺と鹿島先輩の関係も、最初の頃とはずいぶん違っている。
試験明けに買った時、一緒にシャワーを浴びようと誘われた。あの頃からベッドの上でも遠慮がなくなり、こちらの出方を待っていた頃が嘘のようだ。
女を買うのは俺が楽しむためだが、相手まで楽しんでくれるなら文句はない。嬉しい変化ではあるけど――考えるのは、引っ越しが片づいてからでいい。
「こっちの箱、そちらの部屋へお願いします」
鹿島先輩が玄関先で業者へ指示を出す声に迷いはない。大物の運搬は任せ、俺たちは荷物の確認と小物の整理に回る。
結局、新居に決まったのは四人で見て回ったなかで一番感触のよかった古い賃貸マンションだ。俺のマンションから徒歩十分ほどなので、何かあっても対応しやすい。
自惚れでなければ今後も頼られるだろう。信頼されている実感はあるからな。面倒ではあるけど、暇つぶしと思えば苦にもならない。
作業を進め、夕方にはカーテンが掛かり、寝床と食卓も使える状態になった。
「腹減りましたね。いい時間じゃないですか?」
「今日はお弁当でも買う? 柚木ちゃんも食べていってよ」
お誘いは受ける。だが、新しい家で暮らすのは鹿島先輩一人ではない。なら、家事も三人で分けるべきだろう。
台所へ運んでおいた買い物袋を掲げてみせる。
「引っ越し祝いってわけじゃないですが、材料を買ってあるのをお忘れなく。今後のためにも颯太くんに作り方を叩き込んでおいたほうがいいでしょう」
「俺ですか?」
きょとんとする颯太くん。ただの男子中学生なら放置するけど、そうもいかない。
「鹿島先輩一人に料理まで押しつけるつもりかい?」
「いえ……でも、姉ちゃんのほうが上手いし……」
「上手い奴だけにやらせていたら、いつまでも上手くならないだろ」
ここは強引に押し切ってしまえばいい。鹿島先輩へ視線を送ると、苦笑しながら頷いた。家主の許可も出たわけだ。
作るのは豚肉と野菜の炒め物、それから味噌汁。男の料理というものを教えてやるぜ!
「いいか颯太くん。男の料理はこう作るんだ!」
「柚木さん女じゃん」
「女でも男心を持っている奴はいるってこと!」
「意味分かんないんですけど!?」
文句を言いながらも、颯太くんは俺の見本と指示に従い肉と野菜を炒めていく。俺は隣で味噌汁を作りながら危なそうな時だけ口を挟む。初めてにしては上出来だ。
「いいね。うまくできたじゃん」
「思ったより簡単でした」
「なら次から週に一回か二回、夕食当番を担当しなよ」
「勝手に決めないでくださいよ」
「颯太、お願いしてもいい?」
「……分かった」
姉に頼まれれば素直に承諾か。助け合い精神にあふれた家族愛は実に素晴らしい。
……一家の支えである鹿島先輩を金で買っている俺が、家族愛を語るのも大概だな。
料理を食卓へ並べると美羽ちゃんは素直に兄の料理を褒め、鹿島先輩も次を期待していると笑う。照れながら食べる颯太くんへ、次なら丼物が簡単だと教えておいた。
引っ越し初日の食卓。家族の団欒に混じっても誰も不思議に思わない――俺もずいぶんと入り込んだものだな。
◇
翌日、昼前に鹿島先輩と駅前で待ち合わせた。
昨日の帰り際、今度は普通に遊ばないかと誘われたからだ。以前にも好きに誘っていいと言ったし、断る理由はない。
新居では三人ともよく眠れたらしい。颯太くんは夕食どころか朝食まで作ろうとして、目玉焼きの黄身を一つ潰したそうだ。
「食べられるなら成功ですよ」
「本人は悔しがってたけどね。――本当にありがとう。引っ越しだけじゃなくて、颯太に料理まで教えてくれて。美羽も色々と意識しているみたいだし」
「好きで手伝っているだけですから、気にしなくていいですよ」
「好きで、か……」
何かを確かめるような言い方だ。どんな意味で拾ったのかは、おおよそ察しがつく。だが、わざわざ訂正して話を広げる気もない。そのままにしておこう。
「だから、今日は気にせず楽しみましょう」
そう言って駅ビルを見て回り、鹿島先輩の希望でゲームセンターにも寄った。部活と同じく対戦では容赦なく負かされ、休憩に入ったカフェでは勝ち誇った顔で俺のミスをあれこれ指摘される。実に厄介なオタク気質だ。
夕食の店も二人で決めた。今回は割り勘ということで学生御用達の格安店。特別なことは何一つしていないけど、先輩は終始機嫌がいい。
休日に女と待ち合わせて遊び、飯を食い、そのまま自分のマンションへ連れ帰る。やっていることだけなら、ほとんどデートだな。
もっとも、昼間に先輩と遊ぶことと、夜に先輩を買うことは別だ。部屋へ着いた頃には八時を過ぎている。今からなら、まだ十分に楽しめるだろう。
しかし、鹿島先輩の資金問題には片がついた。このまま受け取ってくれるだろうか? 五万円を入れた封筒をいつものようにテーブルへ置く。
「受け取りますか?」
鹿島先輩は少し迷ったあと、封筒を鞄へしまった。
金を受け取った以上、ここからは俺が買った時間になる。
◇
ひとしきり楽しんだあと、枕元の時計は十一時を回っていた。
暖房を入れていても汗が引けば少し肌寒い。鹿島先輩は隣で横になったまま身体を寄せてくる。
「ねえ、柚木ちゃん」
「何です?」
「次から、私……お金をもらわなくてもいいけど?」
これからも関係を続けたいというのなら好都合――なのだが、無料となれば話は違う。
「それは駄目ですよ」
「どうして?」
「昼間は先輩に誘われて遊んだだけ。そして夜は私が先輩を買った。そこを区別しているだけです」
「私は分けなくてもいいよ。今日みたいに遊んで、そのままでも……」
「私が嫌なんです。先輩を買いたい時には今までどおり五万円を払います」
「昼間はお金なんてなくても一緒にいてくれたのに、こういう時だけ必要なんだ」
「こういう時だからです。分かるでしょう?」
「……分かりたくない」
身体はくっついているのに、妙に遠い話をしている気分になる。
「それに私は……もう売りたくない」
「そうですか」
「……それだけ?」
「先輩が売らないなら買えません。残念ですけどね」
無料でもいいと言われて断り、売らないと言われれば惜しむ。我ながら、これはどうなんだとは思う。
だが、ここを混ぜたら俺が一番嫌う曖昧な関係になる。
「柚木ちゃんって、変なところで真面目よね」
「金を払って線を引くのが私の信条なので」
「本当に……分かってないの?」
「何がです?」
「――もういい」
背中を向けられるかと思ったが、鹿島先輩は俺の胸元へ額を押しつけてきた。
……とぼけているのは、ばれているかな。ここまでされて分からないほど鈍くはない。
はぁ……どこで間違えたんだか。千夏さんとは後腐れなく終われた。それを基準にしたのが誤学習の始まりだったようだ。
だからといって、ここでスタンスを変える気もない。
恋愛は面倒だから金を払って性欲を発散する――そう決めて始めたんだ。今さら……変えられるかよ。
「……もう遅い時間ですね。今夜はどうします? 明日は休みですけど」
「――泊まるわ。今日の五万円は受け取ったんだから、朝までは付き合う」
「朝まで、ですか」
「……柚木ちゃんが望むなら」
昼間から俺と過ごしたがり、一度終わったあとも離れようとしない。鹿島先輩が俺へ向ける感情は、最初の頃とは明らかに変わっている。
ただ、先輩が今日の五万円を受け取ったのも事実だ。今夜だけはその事実に甘えてもいいだろう。
身体を起こして距離を詰め、そのまま鹿島先輩の胸へ顔を埋める。待っていたように、俺の背中へ腕が回された。
今はすべて後回し――朝までは、まだずいぶんと時間が残っているのだから。




