10話:買うのはやめない
翌日の放課後、鹿島先輩に案内されたマンションは俺が想像していたより立派だった。
学校の最寄り駅から一駅離れた住宅地にあり、駅から歩いてすぐだ。エントランスにはオートロックと管理人。颯太くんと美羽ちゃんの学校にも通いやすく、三人の子供を育てる家として選んだのなら悪い立地ではない。
今でも三千万円ほどの価値があるという話にも納得できる――しかし、問題は両親がいなくなったあともここへ住み続けるのが最善かどうかだ。
「ただいま」
玄関が開くと、廊下の奥から男の子が顔を出す。
「おかえり。姉ちゃん、その人?」
「柚木英子です。鹿島先輩には部活でお世話になっています」
「弟の颯太。向こうにいるのが妹の美羽よ」
ソファからこちらを窺っていた女の子も遠慮がちに頭を下げた。
この子たちが鹿島先輩の弟妹か――可愛い子たちじゃないか。颯太くんはモテそうな顔立ちをしているし、美羽ちゃんも将来が期待できるな。
まあ、可愛かろうが俺のやるべきことは変わらない。手土産の菓子箱を渡し、礼儀正しい後輩として本題へ入る。
「では資料を見せてください」
「ええ。そこに座っていてちょうだい」
食卓に着き、少し待つと資料が並べられる。通帳の写し、財産目録、家計簿、マンション関係の書類などだ。
俺も鞄からノートパソコンを取り出し、分かる数字から表へ入力していく。最初こそ横で見ていた弟妹二人も数字の山にはすぐ飽き、颯太くんは自室へ、美羽ちゃんはテレビを見始めた。
鹿島先輩と確認しながら見ているけど、資料は思ったより整理されている。日々の家計を疎かにしていたわけではないようだ。
毎月の生活費、年単位の支払い、両親が亡くなった直後にしか出ていない金――そこへ遺族年金などの収入を足せば、何が毎年続く支出なのか見えてくる。
一時間ほどで作れたのは、あくまで粗い試算だ。それでも、先輩が最も恐れていた部分には答えを出せる。
「結論から言えば、すぐに困る状態ではありません。両親が亡くなってから減った五百万円には一度きりの支出がかなり混じっています」
通常年だけを抜き出した表へ切り替え、鹿島先輩にも見えるよう画面を向ける。
「今後の赤字は、後見人の説明どおり年に百万円前後でしょう。預貯金三千万円が、これからも五百万円ずつ減り続けはしません」
鹿島先輩の肩が目に見えて下がる。少しは安心したかと思ったけど、画面を見つめる目にはまだ不安が残っているようだ。
「颯太と美羽が大学へ行っても?」
「二人とも私立へ進み、一人暮らしまで始めるなら見直しは必要です。進路が決まるまでに考える時間はありますよ」
全ては条件次第だ。それに制約の中で将来の進路が変わるなんて普通のことだからな。両親の死は悲劇だと思うけど、それも新しく加わった制約に過ぎない。
――まあ、流石に俺でもそこまでは言えないけど。だから少しでも建設的な提案をする。
「もっと余裕を残したいなら食費や光熱費を細かく削るより、このマンションをどうするか考えたほうが効果は大きいですね」
「引っ越すってこと?」
「選択肢の一つです。今のまま住み続ける。売却して安い住居へ移る。ここを貸して、その収入で新居の費用を補う。実際に可能かどうかは後見人へ確認しないと分かりませんけど」
「でも、ここはお父さんとお母さんが買った家だから……」
「思い出に金を払うのが悪いとは言いません。ただ、住み続けるために毎年いくら払うのかは知っておくべきです。そのうえで残したいなら、それも選択でしょう」
売却や賃貸の実務は後見人の仕事であり、俺たちだけで決める話ではない。今日は三案と粗い収支表を見せ、鹿島先輩自身が比較したいと伝えるところまでで十分だ。
「少なくとも、家計が破綻する心配から無理にバイトを増やす必要はありません」
鹿島先輩はすぐに答えず、美羽のいるリビングへ目を向けてから、また俺の目を見る。
どうやら聞きたいことが別にあるらしいが、ここでは言えない話となれば――
「……この先は、私の部屋で話してもいい?」
「そのほうがいいでしょう」
ノートパソコンと必要な資料だけを持って鹿島先輩の部屋へ移る。
机には教科書と家計簿、壁際のベッドには畳んだ部屋着。それ以上に目を引くのがゲーミングチェアと大きなディスプレイだ。色気より先にゲームが来るあたり、実に鹿島先輩らしい。
「……柚木ちゃんからもらってるお金はどういう扱いになる?」
「私からの金がなくても家計は回ります。安心材料にはなっても、家計に必要な金ではありません。ただ、一つだけ本気で忠告しておきます」
「忠告?」
「私が渡しているのは汚い金です。その自覚は持っていてください」
「払っている柚木ちゃんがそれ言うの?」
「私が言うから意味があるんですよ。二桁少なければ、学生同士のちょっとした金のやり取りで済みます。でも一回五万円、週二回なら月に四十万円です。多くの大人だって、毎月自由に使える金としては簡単に手に入りません」
放課後に俺の部屋で数時間を過ごすだけで、普通のバイトでは簡単に稼げない額が手に入る。俺は週二回でも歓迎するが、そのせいで先輩の金銭感覚まで壊れては困る。
「月に四十万円を手に入れるなら、その重さを忘れないでください。楽に得た金を自分の実力だと思い始めたら先輩は碌な大人になれません」
「何よ、それ……身体を買うのはやめないのに、私の将来は心配するわけ?」
「ええ。買うのをやめるつもりはありません。先輩が売ってくれる限り、私は喜んで買います」
鹿島先輩は何を言っているんだこいつ、とでも言いたげに俺を見つめている。その反応は正しい。それでも、ここだけは笑って流せない。
俺が飽きて手を放したあと、普通に働くことが馬鹿らしくなった先輩だけが残る。そんな壊し方をするために買い始めたわけではない。
「それと、これだけの金を受け取り続ければ税金の話も出てきます」
「贈与税?」
「贈与税でも所得税でも、今はどちらでもいいです。大事なのはこれが税金を払っていない金だということですよ。生活費として少しずつ使う程度ならともかく、まとまった額を口座へ入れたり、貯金として積み上げたりするのは危ない。扱いには気をつけてください」
鹿島先輩の視線が部屋の隅に置かれた鞄に向かう。どうやら、俺から受け取った金はあそこにしまってあるらしい。
「私の金がなくても暮らせる形は作れます。そのうえで食費や日用品に回すなら好きにすればいいです。ただ、毎月四十万円をそのまま先輩の蓄えにできるとは思わないでください」
「そこまで心配するなら、やめればいいのに……」
「それとこれとは別の話です」
「……別にできる柚木ちゃんが少し怖いんだけど?」
「私は先輩を買いたい。でも、そのせいで先輩が碌でもない大人になるのは困る。何も矛盾していませんよ」
「矛盾しかないと思うけど……」
呆れた声を漏らしたあと、鹿島先輩はノートパソコンの画面へ視線を戻した。家計の赤字を示す数字と、俺が提示した月四十万円を見比べるように、何度か目が動く。
「それでも、週二回の話は受けるわ」
「忠告を聞いていました?」
「口座には入れず、生活費の補助にする。それなら受け取ってもいいんでしょう?」
「理解しているなら私が止める理由はありませんね」
「今後もお金の扱いに関しては相談するわ。それに……柚木ちゃんは私を買いたいのよね?」
「もちろんです」
「――なら、決まりね。バイトは続けるけど、出勤は減るから部活が終わった後で……これでどう?」
「それで問題ありません。五万円を用意して待っていますよ」
先輩を怯えさせていた五百万円は毎年繰り返す穴ではない。そこまでは整理できた。
代わりに俺が月四十万円で先輩の価値観をぶち壊す恐れもある。――それでも買うのをやめる気はない。
忠告はしたのだから、あとは鹿島先輩自身の問題だ。




