職人を守れ
ハイパーインフレが始まってから数週間。
領地にも少しずつ影響が出始めていた。
その日、私は鍛冶屋の工房を訪れていた。
親方は難しい顔で帳簿を眺めている。
「どうしました?」
私が尋ねると、親方は大きくため息をついた。
「鉄の値段ですよ」
帳簿を私へ差し出す。
昨日の仕入れ値。今日の仕入れ値。
そして今日の午後に届いた新しい価格。
全て違っていた。
私は思わず眉をひそめる。
「一日で、こんなに……」
親方は苦笑する。
「朝決めた値段じゃ、夕方には赤字です。かと言って値上げすれば、お客も困る。もう何を信用していいのか分かりません」
私は静かに帳簿を閉じた。
やはり来た。物価だけではない。
商売そのものが成り立たなくなり始めている。
領館へ戻ると、私は父と母、執事を集めた。
「一つ提案があります」
父が頷く。
「聞こう」
私は地図ではなく、領内の物資一覧を書いた紙を広げた。
「領内だけでも、鉄や木材の価格を一定にしませんか」
執事が少し驚いた表情を見せる。
「価格を固定するのですか」
「はい」
私は頷く。
「領家が間に入り、備蓄している鉄や木材を一定価格で職人さん達へ供給します。そうすれば毎日値段に振り回されずに済みます」
父は腕を組んだ。
「領家が差額を負担することになるぞ」
「分かっています」
私は静かに答える。
「でも、職人さん達が仕事を止めてしまえば、領地全体が止まります。橋も直せません。農具も作れません。馬車も修理できません。職人さんを守ることは、領地を守ることです」
部屋が静まり返る。
やがて母が口を開いた。
「私は賛成です」
父もゆっくり頷いた。
「やろう」
数日後。
領館へ鍛冶屋、木工職人、馬車職人、商人達が集められた。
父が前へ立つ。
「今日から、領内で必要となる鉄や木材は、伯爵家が一定価格で供給する」
会場がざわつく。
一人の鍛冶職人が手を挙げた。
「途中で値上がりしてもですか」
父は頷く。
「契約した価格は守る。急な値上げはしない」
今度は木工職人が尋ねる。
「逆に値下がりしたら?」
私は微笑んだ。
「その時は、もちろん安くします。利益を出すためではありません。皆さんが安心して仕事を続けられるようにするためです」
職人達は顔を見合わせる。
しばらく沈黙が続いた後、一人の親方が深く頭を下げた。
「助かります」
その一言に続き、他の職人達も次々と頭を下げた。
帰り道。
鍛冶屋の親方が私へ話しかけてきた。
「これなら安心して注文を受けられます。毎日値段が変わると、お客さんにいくら請求すればいいか分かりませんでしたから」
私は頷いた。
「安心して仕事をしてください。仕事が止まらないことが一番大切です」
数日後。
市場では不思議な噂が流れ始めた。
「シュタインベルク領では鉄の値段が変わらないらしい」
「木材も安定しているそうだ」
「職人も安心して仕事をしている」
その話は商人達によって近隣の領地へも広がっていく。
私はその噂を聞き、小さく笑った。
「この仕組みが他の領地へ広がらなくても構わない」
執事が首を傾げる。
「よろしいのですか」
私は頷く。
「大切なのは制度じゃありません。安心です。伯爵家が最後は皆を見てくれている。そう思っていただければ、それだけで十分です」
執事は穏やかに微笑んだ。
「信用、でございますね」
「ええ」
私は窓の外を見る。
市場では今日も職人達が働いている。
鍛冶屋の炉には火が灯り。
木工所では木を削る音が響く。
馬車職人は荷車を修理している。
私は静かに呟いた。
「お金だけでは、人は安心して働けない。最後に人を支えるのは、信用なのよ」
その日、シュタインベルク領では、新たな制度が始まった。
それは価格を守る制度であると同時に、人々の暮らしと信頼を守る制度でもあった。




