物々交換
朝、市場を歩いていると、いつもとは違う光景が目に入った。
パン屋の前で、一人の女性が困ったような顔をしている。
「お金じゃ駄目ですか?」
パン屋の主人は申し訳なさそうに首を横へ振った。
「悪いな……今日の分は、薪と交換なんだ」
女性は背負っていた薪を下ろし、それと引き換えにパンを受け取る。
私はその様子を黙って見つめていた。
「始まったのね……」
さらに市場を歩く。
今度は布屋の前だった。
「卵十個で、この布を譲ってくれないか?」
「いいでしょう」
少し値段を相談し、お互い納得したところで交換が成立する。
その隣では農具屋が、
「小麦一袋なら、この鍬と交換できますよ」
と声を掛けていた。
市場には紙幣を持っている人もいる。
だが、それよりも物を持っている人の方が商売しやすくなっていた。
私は執事と一緒に市場を歩く。
執事が静かに話した。
「以前では考えられない光景でございます」
私は小さく頷く。
「でも、現実としては当然なのよ」
執事が首を傾げる。
「当然……ですか」
「ええ」
私は歩きながら説明する。
「通貨は信用があるから使われるの。この紙幣なら、明日も同じ価値で使える。そう思えるから、皆がお金を受け取るのよ」
私は市場を見回した。
「でも、その信用が無くなると話は別。明日には価値が下がる紙幣なんて、誰も持っていたくない」
執事は納得したように頷く。
「だから物と交換するのですね」
「その通り」
私は微笑んだ。
「通貨の信用がなくなると、人は物で価値を測るようになるの」
帰り道。
父も市場へやって来た。
物々交換の様子を見て、驚いた表情を浮かべる。
「ここまで広がっていたか」
私は頷いた。
「紙幣を持っていても安心できませんから」
父は静かに腕を組む。
「しかし、不便だな」
「ええ」
私は苦笑する。
「パンが欲しい人が薪を持っているとは限りません。卵が欲しい人が布を必要としているとも限りません。物々交換は、お互いの条件が合わないと成立しません」
父は感心したように頷いた。
「なるほど。だから通貨が生まれたのか」
「そういうことです」
私は答えた。
「通貨は便利だから使われているんじゃありません。信用されているから使われているんです」
屋敷へ戻ると、私は共和国の地図を眺めていた。首都では物価が毎日のように変わる。
地方都市でも同じ現象が始まっている。
紙幣は刷られ続けている。
その一方で、人々は紙幣を信用しなくなっていた。
私は小さく呟く。
「まあ、現実としてそうなるわよね……」
前世でも歴史の本で読んだ。
通貨の信用が失われると、人は金や銀、そして物そのものへ価値を求める。
今、この国でも同じことが起きている。
私は窓の外を見つめた。
「通貨に信用が無くなった……」
静かに息を吐く。
「これは当面、続くわね」
一度失われた信用は、簡単には戻らない。
紙幣を刷るだけでは、決して解決しない。
私はノートを開き、新たな一文を書き加えた。
『通貨とは紙ではない。信用そのものである』
その一文は、共和国が直面している問題の本質を、何よりも端的に表していた。




