記憶の混乱
廊下から慌ただしい足音が近付いてくる。
一人ではない。何人もの足音だ。
そして――勢いよく扉が開いた。
「ヴィーダーベレ!」
女性が飛び込むように部屋へ入ってきた。
年齢は三十代半ばほどだろうか。
美しい金髪。青い瞳。上質なドレス。
その後ろには先ほどの侍女と医者が続いている。私は思わず固まった。
誰だ……?
少なくとも知り合いではない。
避難民の中にもいなかった。
停戦交渉の関係者でもない。
そもそも日本人ですらない。
完全に西洋系の顔立ちだった。
女性はベッドへ駆け寄ると、私の手を両手で握った。
「ヴィーダーベレ! 本当に良かった……!」
その目には涙が浮かんでいる。
今にも泣き出しそうだった。
ヴィーダーベレ……
つまり――この身体の名前なのだろう。
だが納得できない。
待て待て待て。私は四十代だぞ。どう見てもこの人の娘じゃないだろ!
頭の中で冷静に整理する。
外交交渉でもそうだった。
混乱した時ほど事実を並べる。
感情ではなく情報だ。
目の前の女性。三十代半ば。
私をヴィーダーベレと呼ぶ。
周囲も当然のように受け入れている。
つまりこの女性は――母親。
その可能性が最も高い。
あり得ない。しかし周囲の反応を見る限り、それ以外の説明が付かない。
女性は私の額へそっと触れる。
「まだ痛む?」
心配そうな声だった。
その表情に嘘はない。
少なくとも、この女性は本気で私を娘だと思っている。
ならば、今必要なのは否定ではない。
情報収集だ。私はゆっくり口を開く。
「お……お母様……」
かすれた声だった。
女性の身体が震える。
「ヴィーダーベレ……!」
涙が一粒こぼれ落ちた。
いやいや。そんなに感動されても困る。
私は状況を確認したいだけなのだ。
「私……記憶が……」
そこで咳き込む。
「ゲホッ……ゲホッ……」
「無理しないで!」
「水を!」
部屋が一気に慌ただしくなる。
私は呼吸を整えてから続けた。
「記憶が……混乱しておりまして……」
女性の表情が曇る。
医者も眉をひそめた。
「怪我の影響かもしれませんな」
「覚えていないの……?」
私は申し訳なさそうな顔を作る。
外交官時代に何度も使った表情だった。
相手を警戒させず、情報を引き出すための顔。
「申し訳……ありません……」
女性は首を横に振った。
「謝らなくていいのよ」
そう言うと、私の手を強く握る。
「生きていてくれただけでいいの」
その言葉に偽りはなかった。
私は小さく息を吐く。
どうやら当面の方針は決まった。
記憶喪失。
これが今の私にとって最も都合が良い。
知らないことを聞いても不自然ではない。
失言をしても誤魔化せる。
そして何より――今の状況を調べる時間を稼げる。
私は天井を見上げた。
知らない部屋。知らない家族。
知らない名前。ヴィーダーベレ。
その名前を頭の中で繰り返す。
そして初めて、ある考えが脳裏をよぎった。
……まさか?
だが、その結論を認めるには、まだ情報が足りなかった。




