紙幣の価値
橋が完成し、領地の復興は少しずつ軌道に乗り始めていた。
帰還兵は働き。市場には荷車が戻り。
商人達の表情にも少しだけ余裕が見え始めている。
そんなある朝。
私は新聞の経済欄を開き、思わず手を止めた。
『新紙幣発行開始』
その見出しを見て、小さく息を吐く。
「始まったわね……」
まだ物価は大きく上がっていない。
町も普段通りだ。だが、それは表面だけだった。
私は市場へ向かった。
いつものように店を見て回る。
パン屋。布屋。石炭屋。どこも営業している。
そんな中、古くから商売を続ける商人達の会話が耳へ入った。
「最近、金貨より紙幣で払いたがる客が増えたな」
「うちもだ」
「わざわざ金貨を残して紙幣を出すんだから、不思議なもんだ」
一人の年配商人が苦笑する。
「紙幣を持ってるのが不安なんだろ」
私はその言葉に足を止めた。
やはり市場は正直だ。
帰りの馬車の中。
私は窓の外を眺めながら考える。
「信用が揺らぎ始めてる……」
まだ誰も騒いでいない。新聞も楽観的だ。
だが、人は価値が下がると思う物から使い始める。逆に、本当に価値があると思う物は手元へ残す。市場とはそういうものだった。
私は前世で何度も見てきた。
経済は数字だけではない。
人の心理でも動く。
屋敷へ戻ると、私は父の書斎を訪ねた。
「お父様」
「どうした」
私は新聞を机へ置く。
「少しだけ資産の持ち方を変えたいのです」
父は記事へ目を通す。
「紙幣のことか」
「はい」
私は頷いた。
「食料や農具へ替えた判断は正しかったと思います。ですが、これから先、領外との取引もあります。その時の備えとして、少しだけ地金を持っておきたいのです」
父は腕を組む。
「地金か」
「はい」
私は静かに説明する。
「利益を出すためではありません。もし紙幣の信用が大きく落ちた時でも、領地を守る最後の備えです」
父はしばらく考え込んだ。
やがて静かに口を開く。
「全部を替えるつもりではないのだな」
「もちろんです」
私は首を横に振る。
「必要最小限だけです。市場を混乱させるような買い方もしません」
父は小さく笑った。
「そこまで考えているなら反対する理由はない」
「執事へ手配させよう」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
数日後。
執事が報告書を持ってきた。
「お嬢様。ご依頼の件でございます」
私は目を通す。
購入したのは、ごくわずかな量の地金。
領家の資産から見れば、本当に小さな額だった。
執事は尋ねる。
「これでよろしいのでしょうか」
私は微笑む。
「十分です。使わずに済むなら、それが一番ですから」
執事も静かに頷いた。
「確かに、その通りでございます」
夜。
私はノートを開く。そして一行だけ書き加えた。
『信用は、ゆっくり失われ、最後には一気に崩れる』
まだ、この国の経済は動いている。
商人も商売を続けている。
人々も普通に暮らしている。
だからこそ、多くの人は気付かない。
本当に危険なのは、崩れてからではない。
崩れる前に、どれだけ備えられるかだ。
私は窓の外の夜空を見上げた。
どうか、この備えが無駄になりますように。
その願いとは裏腹に、国の経済は静かに、そして確実に、不安定な未来へと歩み始めていた。




