止まらない物価
橋の補修が終わり、領地は少しずつ活気を取り戻していた。
市場には人が戻り始めている。
商人も以前より笑顔が増えた。
帰還兵も仕事を得て、少しずつ生活を立て直し始めている。
領地だけを見れば、順調だった。
その朝、新聞が届くまでは。
私は書庫で新聞を開き、いつものように経済欄から目を通す。すると、小さな表が目に留まった。
主要都市物価推移
私は思わず身を乗り出す。
パン。石炭。布。食用油。
どれも先月より値上がりしていた。
急激ではない。ほんの数パーセント。
だが、その数字を見た瞬間、私は静かに呟いた。
「始まったわね……」
母が不思議そうに私を見る。
「何が始まったの?」
私は新聞を差し出した。
「物価です」
母は記事を読む。
「少し高くなっただけじゃない?」
私はゆっくり頷く。
「今は、です」
そして窓の外を見る。
「でも、一度市場が動き始めると、人の心理も動きます。値上がりする前に買っておこう。今のうちに備えよう。そう考える人が増えれば、需要がさらに増えます」
私は新聞を閉じた。
「そうなると、また物価が上がる」
母は黙って聞いている。
「市場は、人の不安でも動くんです」
午後。
私は市場を見に行った。
以前と同じように店は開いている。
だが、少し違う。
パン屋では一人の女性が多めにパンを買っている。布屋では店主が申し訳なさそうに言う。
「来月はもう少し高くなるかもしれません」
石炭屋では、
「今のうちに買っておこう」
そんな声が聞こえてくる。
私は静かに周囲を見回した。
まだ混乱ではない。
だが、不安は確実に広がっている。
幸い、我が領は比較的落ち着いていた。
食料は早い段階で備蓄した。
種子も肥料もある。農具も確保した。
領民も慌てて買い占める様子は少ない。
母の説明と、早めの準備が功を奏していた。
それでも、領外から来た商人は首を振る。
「首都じゃ小麦粉が売り切れる店も出始めた」
「布も品薄だ」
「皆、買いだめしてる」
私は小さくため息をつく。
「やっぱり始まったか……」
市場とは、生き物だ。
命令一つで止められるものではない。
一度、不安が広がれば、人は「自分だけは困らないように」と動く。
その行動が、さらに市場を揺らしていく。
私は心の中で呟いた。
「そうそう市場をコントロール出来るはずがない」
「一度滑り出すと、どんどん悪化するわよ……」
屋敷へ戻ると、新しい夕刊が届いていた。
私は何気なく最後のページをめくる。
小さな政治欄。
そこには、短い記事が載っていた。
『臨時政府、新たな紙幣発行を決定』
『復興事業および賠償金支払いの財源確保を目的とする』
私はその記事を見つめたまま動けなかった。
「……決めたのね」
復興には資金が必要だ。
その現実は分かる。
市場が不安定になり始めた、このタイミングで紙幣を増やす。
それは火種へ油を注ぐようなものだ。
私は静かに新聞を閉じる。
前世で見てきた国々の記憶が、鮮明によみがえる。
物価は、ある日突然暴騰するわけではない。
小さな値上がりから始まる。
人々の不安。買いだめ。紙幣の増発。
信用の低下。
その一つひとつが積み重なり、やがて誰にも止められない流れになる。
窓の外では、夕日が町を赤く染めていた。
その静かな景色とは裏腹に、国の経済は、ゆっくりと危険な坂道を転がり始めていた。




