見えない戦争
総統官邸。
朝から執務に追われていたベレのもとへ、ラインが足早にやって来た。
「総統。中央銀行総裁ルマル・シハ様から至急の面会を求められ、応接室にてお待ちです」
ベレは書類から顔を上げた。
「シハさんが? 急ぎって珍しいわね。何かあったのかしら」
「内容までは伺っておりません」
「分かったわ。すぐに行く」
応接室へ入ると、ルマル・シハはすでに立ち上がって待っていた。
その表情は普段よりも険しい。
「お待たせしました」
「急なお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「それで、何があったのですか?」
シハは持参した分厚い帳簿を机へ置いた。
「旧政府の調査を進めていたところ、隠されていた債務が判明しました」
「……隠れ債務です」
ベレの表情が変わる。
「どれくらい?」
「金準備換算で約三十トン相当になります」
その言葉に、部屋の空気が一瞬で重くなった。
「……三十トン」
ベレは思わず呟いた。
共和国がようやく積み上げてきた信用を、一気に揺るがしかねない額だった。
「返済期限は?」
「半年後です」
「半年……」
ベレは額に手を当てた。
「前政府の担当者は?」
「全員に事情を聞きました」
「しかし、『そんなものは知らない』『前任者から引き継いでいない』の一点張りです。元財務大臣にも確認しましたが、責任を認める者は一人もおりません」
「証拠は?」
「かなり処分されています。完全に消された訳ではありませんが、意図的に隠された形跡があります」
ベレは静かに椅子へ深く腰掛けた。
「……なるほど」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがてベレはゆっくりと顔を上げる。
「ありがとう、シハさん。知らせてくれて助かりました。返済方法は私も含めて考えます。共和国の信用だけは絶対に失えません」
シハは深く頭を下げた。
「中央銀行としても全面的に協力いたします」
会談はそれで終わった。
ベレは重い足取りで執務室へ戻っていく。
その後ろ姿を、ラインは黙って見送っていた。
「……」
誰もいなくなった廊下。
ラインは胸ポケットから一冊の資料を取り出した。
本来なら今日、総統へ提出する予定だった情報省の調査書の一部。
表紙には、
『周辺各国国力調査』
と書かれている。
その中の一ページを開く。
――チュコ共和国。人口、工業力、鉄道網。
そして最後に記された一文。
国家備蓄金 約九十トン。
ラインはその数字を見つめた。
「九十トン……」
共和国が抱えた負債は三十トン。
チュコが保有する国家備蓄は、その三倍。
経済の専門家ではないラインにも、この数字が意味するところは理解できた。
金は国家の信用そのもの。それを失えば、国は崩れる。逆に手に入れれば、共和国は救われる。
ラインは静かに資料を閉じた。
「総統には知らせる必要はありません。総統は、この国を正しい道へ導く方です」
「だからこそ――汚れ仕事は、私が引き受けます」
その夜。
共和国親衛隊本部。
執務室には十数名の幹部が集められていた。
ラインは机の上へ一枚の地図を広げる。
「情報省の資料を」
部下が一冊の資料を差し出す。
「チュコ共和国。国家備蓄金、およそ九十トン」
幹部たちの視線が一斉に集まる。
ラインはゆっくりと口を開いた。
「我々はトリアで、多くを学んだ。民衆が立ち上がれば、国家は一夜にして姿を変える」
部屋は静まり返る。
「まずは情報収集だ。国内情勢、反政府勢力、軍、警察、政界……利用できるものは全て調べろ」
幹部の一人が尋ねた。
「総統への報告は?」
ラインは首を横に振る。
「今回は報告しない。これは親衛隊だけの任務だ」
そして地図の上に指を置いた。
「共和国の未来のために!見えない戦争を始める」
誰一人として異論を唱える者はいなかった。
全員が静かに敬礼する。
その夜。
共和国の表ではなく、誰にも知られることのない裏側で、新たな作戦が静かに動き始めていた。




