帝国崩壊
その日の朝。
私はいつもの時間に食堂へ向かった。
毎朝の日課。
朝食を食べ、新聞を読み、書庫へ向かう。
それが最近の生活だった。
だが、その日は違った。
「新聞は?」
侍女は困ったように頭を下げる。
「まだ届いておりません」
私は思わず時計を見る。
もう届いていてもおかしくない時間だ。
「遅れているの?」
「……分かりません」
珍しい。いや。初めてだった。
ここ数か月、一日も欠かさず届いていた新聞が来ない。
私は窓の外を眺める。
屋敷の外は静かだ。だが静かすぎる。
朝食を終えた頃。
屋敷の門が慌ただしく開く音が聞こえた。
馬が激しくいななく。使用人達が走る。
何かあった。
私は杖をつきながら廊下へ出る。
侍女が慌てて駆け寄ってきた。
「お嬢様!」
「何があったの?」
侍女は周囲を確認し、小声で答えた。
「首都で大変なことが起きているそうです」
「大変なこと?」
「詳しくは……まだ……」
噂。伝令。商人。話が入り乱れているらしい。
誰も正確な情報を持っていない。
昼になる頃には、噂はさらに増えていた。
「首都で大規模な暴動が起きた」
「軍が市民側についた」
「皇帝陛下が首都を離れた」
「政府が機能していない」
どれも確証はないが、どれも否定もできない。
私は窓際で腕を組む。
「情報が混乱している……」
前世でも何度も経験した。
国家が混乱すると最初に壊れるのは情報だ。
噂だけが一人歩きする。
そして、一つだけ確かな事実があった。
新聞が届かない。私は静かに呟く。
「新聞社が襲われた……?」
あるいは印刷所。配送網。鉄道。
どこかが止まったのだろう。情報は戦争でも革命でも最優先で狙われる。
新聞は国民へ情報を届ける手段だ。
だからこそ。真っ先に影響を受けてもおかしくない。
午後。
母が私達姉妹を居間へ呼んだ。
表情は硬い。
これまで見たことがないほど緊張している。
妹も異変を感じているのか、いつになく静かだった。
母は私達を見回す。
そしてゆっくり口を開いた。
「今日から当分の間」
少し間が空く。
「屋敷の外へ出てはいけません」
妹が驚く。
「どうして?」
母はすぐには答えなかった。
何と言えばいいのか迷っているようだった。
やがて。
「世の中が少し騒がしくなっているの」
優しく言う。
だがその声には不安が滲んでいた。
「お買い物も?」
「ええ」
「庭は?」
「庭までなら構いません。でも門の外は駄目です」
妹は素直に頷いた。私は黙って母を見つめる。
その表情だけで十分だった。
これはただ事ではない。
夕方。
屋敷の使用人達も落ち着かない。
廊下では小声で話し合う姿が見える。
商人が来ない。郵便も来ない。
伝令も遅れている。
いつもの日常が少しずつ崩れていた。
私は書庫の窓から外を眺める。
遠くには何も見えない。
煙も。炎も。
ここは静かなままだ。それなのに、帝国のどこかでは、大きな何かが起きている。
そんな気配だけが伝わってくる。
夜。
私は一人で地図を広げた。
首都。ルーキ軍港。主要都市。鉄道。
これまで新聞で追い続けてきた場所を指でなぞる。
騒擾。ストライキ。軍港炎上。首都の混乱。
全てが繋がっていた。
私は静かに息を吐く。
「とうとう……始まったのね」
まだ正式な知らせはない。
帝国がどうなったのかも分からない。
だが外交官として培った勘が告げていた。
もう元には戻らない。
国家が崩れる時は、一瞬ではない。
小さな亀裂が積み重なり。
ある日突然、それが誰の目にも見える形になる。
その日がついに訪れたのかもしれなかった。




