間一髪
総統官邸。
執務室にはラジオの音声が響いていた。
『ランス国政府は、青十字支援隊への襲撃について正式に謝罪します』
『ルー地方から全軍を撤退させます』
『ルー地方は共和国へ返還いたします』
一瞬の静寂。
そして――
「やった!」
ラインが思わず拳を握る。
「勝ちました!」
官僚たちからも歓声が上がる。
「ルー地方が戻ってくる!」
「戦争にならずに済んだ!」
執務室は喜びに包まれた。
しかし、その中で一人だけ。
ベレは静かに席を立っていた。
誰にも気付かれないように執務室を出る。
廊下を歩き、人気のない場所へ向かう。
トイレの扉を閉めた瞬間だった。
「……っ!」
便器に手を付き、そのまま激しく吐いた。
「はぁ……はぁ……」
肩が震える。
冷や汗が止まらない。
水で口をすすぎ、鏡を見る。
そこに映っていたのは、総統ではなく、一人の少女だった。
「どうにか……どうにか……間に合った……」
その場に座り込み、小さく呟く。
「あと少しあと少し何かが遅れていたら……」
共和国軍はランス軍と衝突していたかもしれない。
兵士が命を落としていたかもしれない。
ルー地方の住民も巻き込まれていたかもしれない。
世界は再び戦争へ向かっていたかもしれない。
その全てが頭の中を駆け巡る。
「怖かった……本当に……怖かった……」
総統になってから初めて見せる、本音だった。
しばらくして、扉の向こうから声が聞こえる。
「総統?」
ラインだった。
「皆さんがお待ちです」
ベレは深く息を吸う。
「……はい」
水で顔を洗い、もう一度鏡を見る。
少女の表情は消え、そこには共和国総統ヴィーダーベレが立っていた。
「大丈夫。まだ終わっていません」
静かに扉を開ける。
再び総統として、皆の前へ歩き出した。
誰にも知られることなく。
あの涙も、恐怖も。胸の奥にしまったまま。




