戦争未亡人
市場から戻って数日。
私は新聞を読む時間が減っていた。
理由は簡単だった。
市場で見た光景が頭から離れない。
特にあの親子。
配給の列に並んでいた母親と少年。
私は何度も新聞へ視線を落とした。
戦況。戦果。英雄。勲章。
だが、そのどこにも彼らはいない。
当然だ。記事になるような存在ではない。
戦争の歴史は将軍や政治家の名前を残す。
だが、その裏で苦しんだ無数の人々は残らない。
私は窓の外を見つめた。そしてふと思う。
「実際に話を聞いてみたいわね」
数日後。
私は再び市場へ出ていた。
今度は買い物が目的という名目だった。
本当の目的は別にある。
人の話を聞くこと。
数字だけでは分からないものがある。
外交官時代に何度も学んだことだった。
市場を歩いていると、前回見かけた女性を見つけた。
同じ少年を連れている。
私は近くの店で足を止めた。
女性はパンを見ている。
だが結局、一番安いものを手に取った。
私は思い切って声を掛ける。
「美味しいのですか?」
女性は少し驚いた顔をした。
貴族の娘が話し掛けてくるとは思わなかったのだろう。
「え?」
「そのパンです」
女性は苦笑した。
「美味しいかどうかより、買えるかどうかですね」
私は思わず言葉を失う。
その言葉には妙な重みがあった。
しばらく話をすると、女性はエマという名前だった。少年はルーク。今年七歳になるらしい。
そして夫は軍人だった。
「だった?」
私が尋ねる。
エマは少しだけ視線を落とした。
「去年の冬です」
短い言葉だった。それだけで十分だった。
戦死。
そういうことだろう。
私は黙った。何と言えばいいのか分からない。
前世でもそうだった。
遺族に掛ける言葉など存在しない。
ルークが母親の服を引っ張る。
「お母さん」
「なあに?」
「お父さんって強かったの?」
エマは微笑んだ。
今度は本当の笑顔だった。
「あの人は強かったわ。兵隊さんだったもんね」
「そうね」
「じゃあ英雄?」
エマは少しだけ考える。
そして。
「ルークのお父さんだったわ」
そう答えた。
私はその言葉に息を呑んだ。
英雄。勲章。武勲。
そんなものではない。
彼女にとって夫は夫だった。
この子にとって父親だった。
それだけなのだ。
しばらくして親子は去っていった。
私はその背中を見送る。
新聞には英雄の記事が載っている。
だが残された家族の記事はない。
どれだけの家族がいるのだろう。
どれだけの母親が。どれだけの子供が。
どれだけの妻が。
同じ思いをしているのだろう。
私は空を見上げた。青空だった。
戦争など存在しないような穏やかな空。
だが現実は違う。
前線では今日も誰かが死ぬ。
そして後方では誰かが待ち続ける。
帰らない人を。
屋敷へ戻った後も、私はエマの言葉を思い出していた。
「ルークのお父さんだったわ」
その一言が頭から離れない。
前世で見た避難民達。この世界で見た親子。
違う国。違う時代。違う世界。
それでも変わらない。
戦争は国家同士が戦うものではない。
最後に傷付くのは、いつだって人なのだ。
私は机の上の新聞を閉じた。
そして静かに呟く。
「だから私は……」
そこから先の言葉は出なかった。
まだ何もできない。ただの十二歳の少女だ。
戦争を止めたいという思いだけは、前世よりも強くなっていた。




