市場
「市場へ行きたい?」
母は露骨に眉をひそめた。
「まだ駄目よ」
予想通りの反応だった。
私は椅子に座りながら苦笑する。
怪我人。十二歳。記憶喪失。
反対される要素しかない。
「歩く練習にもなります」
「駄目です」
即答だった。
「医者にも安静にと言われているでしょう?」
「だいぶ回復しました」
「駄目です」
強い。
外交交渉ならここで別の角度から攻める。
私は少し考えた。そして。
「外の空気を吸いたいのです」
母が黙る。
「ずっと屋敷の中です」
さらに沈黙。
「少しだけでは駄目ですか?」
数秒後。母は大きなため息を吐いた。
「……本当に少しだけよ」
私は内心で小さくガッツポーズをした。
数日後。
私は侍女と護衛を伴い、領都の市場へ向かっていた。馬車の窓から街並みを眺める。
石造りの建物。赤い屋根。
行き交う人々。見慣れない世界。
それでも人々が生活しているという点では前世と変わらない。
やがて市場へ到着した。
馬車を降りる。久しぶりの人混みだった。
思わず足を止める。
様々な声が飛び交っている。
商人。買い物客。子供達。活気はある。
だがどこか違和感があった。
最初に気付いたのはパン屋だった。
店先には確かにパンが並んでいる。
だが小さい。
前世なら半分ほどの大きさだろうか。
しかも値段は高い。
客達が不満そうに話している。
「また値上がりだ」
「仕方ないさ」
「小麦が入らないんだからな」
私は黙って聞く。
新聞で読んだ内容と一致する。
次は肉屋。
こちらはさらに分かりやすかった。
商品が少ない。
並んでいるのは骨付き肉が少々。
加工肉が少々。それだけだ。
店主が肩をすくめている。
「軍へ優先だからな」
そんな言葉が聞こえた。
私は小さく息を吐いた。
やはり食料は軍へ回されている。
靴屋も同じだった。
新品がほとんどない。
代わりに修理品が山積みになっている。
擦り切れた靴。継ぎ接ぎだらけの革靴。
客も修理を依頼する人ばかりだった。
「新しい革が手に入らなくてね」
店主の愚痴が聞こえる。
私は市場をゆっくり歩いた。
新聞では見えなかったものが見えてくる。
疲れた顔。値段を見て諦める人々。
節約の話。不足の話。
誰もが生活の苦しさを抱えている。
そして、ふと目が止まった。
一人の女性だった。
まだ若い。二十代後半だろう。
その手を小さな男の子が握っている。
二人は配給らしい列に並んでいた。
男の子が母親へ尋ねる。
「お父さんはいつ帰ってくるの?」
女性は少しだけ笑った。
「もう少しよ」
優しい声だった。
だが、その目は笑っていない。
私は思わず立ち止まった。前世でも見た。
何度も避難民キャンプ。紛争地帯。
戦争未亡人。行方不明者の家族。
残された人達。あの時と同じ目だった。
男の子は続ける。
「次のお祭りまでには帰ってくる?」
女性は答えなかった。
代わりに子供の頭を撫でる。
それだけだった。私は視線を逸らす。
胸の奥が重い。新聞には載らない。
戦果にもならない。
だが、戦争が本当に傷付けるのはこういう人達だ。私は前世で嫌というほど見てきた。
そしてまた見ている。
世界が変わっても。時代が変わっても。
戦争が奪うものは同じだった。
帰りの馬車の中。
私は窓の外を眺めていた。
市場は活気があった。人々も生きていた。
だが決して豊かではない。
そして新聞で感じた違和感は間違っていなかった。
「新聞は嘘じゃなかった」
私は小さく呟く。
少なくとも物資不足は本当だ。
生活も苦しくなっている。
だが、同時に分かったこともある。
「本当に苦しい部分は書いていないのね……」
戦争は数字ではない。
地図でもない。戦況報告でもない。
そこに暮らす人々の生活そのものだ。
私は窓の外を見つめた。
この国は今、確実に疲弊している。
そしてその代償を払っているのは、最前線の兵士だけではなかった。




