母の沈黙
得た情報だけでの結論は、どうにも頭から離れなかった。
もちろん確証はない。
新聞だけで判断するのは危険だ。
それは外交官時代に何度も学んだ。
だが戦線の後退。増える精神論。
減る広告。悪化する物資不足。
全てを並べると、一つの仮説が浮かび上がる。
帝国は劣勢なのではないか?
私は窓の外を眺めながら小さく息を吐いた。
そして思う。考えていても仕方がない。
聞けばいい。
その日の午後。
母が見舞いに来ていた。
最近は毎日のように顔を出してくれる。
母親としては当然なのかもしれない。
私にはまだ少し不思議な感覚だった。
「体調はどう?」
「だいぶ良くなりました」
「それは良かったわ」
柔らかい笑顔。優しい声。
その様子だけ見れば、どこにでもいる母親だった。
今日は別の話がある。
私は少し間を置いてから口を開いた。
「お母様」
「なあに?」
「一つ聞いてもいいですか?」
母は頷いた。
私は真っ直ぐ母を見る。
「私達は勝っているのですか?」
空気が止まった。
本当に時間そのものが止まったように感じた。
母の笑顔が消える。
言葉も消える。ただ静寂だけが残った。
私は何も言わず待った。
数秒。いや、もっと長かったかもしれない。
やがて母が口を開く。
「どうしてそんなことを聞くの?」
質問で返された。
私は内心で確信に近いものを感じる。
少なくとも即座に「勝っているわ」とは言わなかった。
「新聞を読んでいて気になったのです」
嘘ではない。
実際、それが理由だった。
母は私を見つめる。
何かを考えているようだった。
そして小さく息を吐く。
「難しいことを考えなくていいのよ」
優しい声だった。
だが答えではない。私は黙ったまま母を見る。
母もそれ以上は言わない。
沈黙が続く。その沈黙こそが答えのように思えた。
しばらくして母が話題を変えた。
妹のこと。屋敷のこと。
私の体調のこと。どれも穏やかな話だった。
だが戦争の話だけは出てこない。
まるで避けているようだった。
私はそれ以上追及しなかった。
追い詰めても意味はない。
今必要なのは情報だ。
勝ち負けの議論ではない。
やがて母は席を立った。
「無理はしないでね」
「はい」
「本ばかり読んでいると目に悪いわ」
思わず苦笑する。
母親らしい言葉だった。
母も少し笑い、そして扉へ向かうが部屋を出る直前。ふと足を止めた。背中を向けたまま。
窓の外を見つめながら。
小さく呟く。
「早く終わってほしいわね……」
その声は、私に向けたものではなかったのかもしれない。
自分自身への言葉。
あるいは遠く離れた誰かへの願い。
私は閉まった扉を見つめる。
勝っている。
その言葉は最後まで聞けなかった。
聞けなかったこと自体が、一つの答えだった。
私は窓の外へ視線を向ける。
夕日が屋敷を赤く染めている。
美しい光景だった。だからこそ思う。
この静かな景色の向こうで、今も誰かが戦っているのだと。
そしてその戦争は、母が願うほど簡単には終わりそうになかった。




