暗号文
その日の夜。
ラインは一人、自室の椅子へ腰掛けていた。
机の上には、冷めたコーヒーが置かれている。
しかし、一口も手を付けていなかった。
あれは……記者の勘ってやつかしら?
ローデンの件。
証拠は何一つ残していない。
奪った手帳も、その日のうちに燃やした。
凶器も処分した。誰にも見られていない。
これで何も問題は……そこまで考えた時、ウス・ライの言葉が頭をよぎる。
『どんな秘密でも、必ず誰かが続きを追う』
ラインは目を閉じる。
誰か追う?ウスが?
いや、違う。追うつもりなら、わざわざ私へ忠告などしない。
むしろ黙って調べるはずだ。
なのに奴は来た。何故だ。何故、わざわざ。
ラインはゆっくり立ち上がる。
部屋の中を歩き回りながら考える。
忠告……何のために?
証拠は残していない。
そのはずだった。
「……待て」
足が止まる。
「違う。私は証拠を残していない」
「私が、だ」
その瞬間、背筋を冷たいものが走った。
「お嬢様の過去……」
領都の役所。学校の卒業記録。
教会の洗礼台帳。そして、当時を知る人々。
「あっ……」
思わず声が漏れる。
「私は事件の証拠ばかり考えていた。でも、お嬢様の過去は、そのままだ」
ローデンは領地まで足を運んでいた。
卒業した年齢。経歴。そこを調べていた。
つまりこれから先も、同じことを考える人間が現れるかもしれない。
ラインは頭を抱えた。
「このことを遠回しに言ってきたの……?」
しばらく考え、苦笑する。
「だったら、はっきり言いなさいよ……」
しかし、すぐに首を横へ振る。
「……いや。言えるわけないか」
もし勘違いだったら。
もし誰かに聞かれていたら。
ウス・ライ自身が危険になる。
「下手をすれば……俺も川へ浮かぶ」
そう考えたのだろう。ラインは深く息を吐く。
「ありがとう……とは言えないわね」
だが、忠告は受け取った。
今すぐ動かなければならない。
机の引き出しを開ける。便箋を取り出す。
「電報……」
すぐに首を振る。
「駄目!目立ちすぎる」
手紙。
「これも読まれたら終わり」
しばらく考え込んだ末、ラインの表情が変わる。
「そうだ」
小さく笑う。
「軍の暗号」
それも、自分たちの部隊だけで使っていた独自暗号。
「それなら……閣下なら解読できる」
ペンを取り、迷いなく書き始める。
一見すれば、意味の分からない数字と記号の羅列。しかし、それはグラウベへ向けた緊急連絡だった。
『過去の記録に注意』
『関係資料の確認を願う』
『詳細は後日』
書き終えたラインは封を閉じる。
「これなら大丈夫」
翌朝一番で、信頼できる伝令へ託そう。
ラインはようやく椅子へ腰を下ろした。
今回、自分は一つ学んだ。
戦場では敵は目の前にいる。
だが政治の世界では違う。
敵は、人の記憶の中にも古い記録の中にも潜んでいる。
そして、そんな見えない危険を最初に嗅ぎつける者もいる。
「記者……」
ラインは静かに呟いた。
「思っていた以上に、厄介な相手ね」




