第二百三十話 忘却の彼方へ
「梨奈……」
呟くように小さく梨奈の名前を呼ぶ梨奈の母親の声が、病室の空気を震わせ耳に届いた。
以前、梨奈から聞かされた両親との思い出話や、短い時間ではあったが一緒に過ごした梨奈の両親の様子から、梨奈は生まれた時から大切に大切に育まれてきたのだろうということは容易に想像できた。
痣もなく、小さな傷跡一つ残されていなかった梨奈の綺麗な身体を思い出す。
理不尽な理由で、消えることのない傷を刻み付けられた梨奈を案ずる両親の怒りは察するに余りあった。
俺は謝罪の言葉を飲み込み、代わりの言葉を口にした。
「今は、医療技術も格段に進歩していると聞きます」
この場で、俺の問題に梨奈を巻き込み、傷を負わせてしまったことについて梨奈の両親に謝罪の言葉を述べて頭を下げるのは違うような気がした。
梨奈の両親が求めているのは、そういうことではないのだと俺は肌で感じていた。
「香田医師とも相談する必要はあると思いますが、形成外科の治療を受ければ、傷痕は完全にとはいかなくても綺麗に治せるはずです」
話しながら、俺は頭の中に自分の両親や真衣さんの顔を思い浮かべていた。
梨奈が怪我を負った原因の一端は自分たちにあると主張していた両親や、梨奈に庇われた真衣さんは、梨奈の身体に残った傷痕を目にする度に古傷を抉られるような痛みを覚えるのではないだろうか。
何より俺自身が、いつまでも亡霊のように美咲が憑いて回り、今回の問題を過ぎ去った過去のものとして処理できないのではないかという心配もあった。
俺の目を見据える梨奈の父親の目を正面から見返し、俺ははっきりと告げた。
「明日にでも、香田医師に時間を取ってくれるようにお願いしてみます」
「自分の身体に傷が残っていれば、嫌でも目に付く。その度に、思い出さなくてもいいことを思い出していては、梨奈もいつまで経っても気持ちの整理がつかないだろう」
俺は、梨奈の父親の言葉に黙って頷いた。
それから、気掛かりだったことについて尋ねた。
「怪我の後遺症については、何か言っていましたか」
たとえ、傷痕は綺麗に治ったとしても、何らかの後遺症が残ったままでは梨奈の心に影を落とすことになりかねない。
一旦は鎮まっていた胸の鼓動が、緊張で俄かに速まり出した。
「それについては、大丈夫なようだ」
俺を安心させるように、『大丈夫だ』と言って頷いた梨奈の父親から目を逸らさず、俺は話の続きを促した。
「感覚が鈍っている様子は見られるが、手や指の機能そのものには問題はなさそうだということで、軽いリハビリをすれば元通りに使えるようになると言ってもらえた」
リハビリは必要でも元に戻ると知り、身体から力が抜け、俺は大きく息を吐き出した。
その途端に、どっと安堵の汗が滲み出た。




