第百十四話 大切な一枚
達樹には、前もって黒木弁護士と会うことを伝えていた。
その際、達樹の方から『遅くなっても構わないから、家で待っている』という言葉を貰っていた。
実家を出てすぐに『これから向かう』と達樹に連絡を入れ、暫く一人で車を走らせていると、樫山専務や美咲に対する憎しみが沸々と腹の底から沸き立った。
俺は今日まで真剣に仕事と取り組み、ただ梨奈だけをひたすらに愛し、梨奈と共に歩む時間が永遠に続くことを願っていただけだった。
身の丈に合わない出世を望んだことなど一度もなく、美咲に好意を覚えたこともなければ勘違いされるような素振りも見せはしなかった。
それなのに、今は梨奈との結婚も危うくなりかけ、両親が苦労して手に入れ長年住み慣れた家さえも取り上げられそうになっている。
前を走る車が交差点に近付くと信号が青から黄色に変わり、そのまま交差点を通り抜けて行った。
すぐに信号が赤に変わり、交差点の手前で停止した俺の目に、暗い夜道を進んで行く前の車の赤い色を灯したテールランプが尾を引くように遠ざかっていく様子が映っていた。
「くそっ」
どうにも鎮まりそうにない腹立たしい思いを、自分の車のハンドルに拳で打ちつける。
その弾みでクラクションが鳴った。
クラクションを鳴らす必要もないところで鳴った音に慌てて周りを見渡し、俺は今、車を運転している途中だったと思い出した。
気分を換えようとカーナビを操作してラジオをつけた途端、思い出の曲が流れて来た。
梨奈と初めて会った翌日、梨奈をテーマパークに誘いこの車で一緒に出掛けた。
その時には、まだ俺と梨奈の間には距離があり、緊張しながら助手席に座る梨奈の気持ちを和らげようと掛けたCDに複数収録されていた曲の中の一曲が、当時の梨奈のお気に入りの曲でイントロが流れただけで『あれっ、この曲……』と分かるほどだった。
ニコニコと楽しそうに聴いている梨奈の姿を見ているだけで胸が締め付けられるほどの愛おしさを覚え、これまでに経験したことのない感覚に、俺は『相当にイカレてるな』と自分で自分に呆れていた。
その曲が終わると梨奈は躊躇いがちに『もう一度、聴きたい、なぁ』と言いながら期待のこもった瞳で俺を見ていた。
俺は即座に、『断る』という選択肢を捨てた。
それからは、梨奈がこの車に乗った時にはいつでもお気に入りの曲が聴けるようにと、そのCDを車から降ろさずにいた。
だが、俺が忙しすぎて出番は数えるほどしかなかったものの、それでも梨奈はその度に嬉しそうに満面の笑みを見せてくれていた。
信号が青に変わりラジオから流れてくるその曲を聴きながら、車を発進させると間もなく違う曲へと変わった。
俺はまだ降ろしていなかったそのCDを掛け、車を走らせながらその頃の楽しかった思い出をなぞった。




