第百十話 理に適わぬ要求
俺はこれまでの経験から、黒木弁護士のペースに乗せられては確実に面倒事を増やすことになると判断して俺の方から話を切り出した。
「私を呼び出したのは、どういったご用件なのでしょうか」
父からの電話では、黒木弁護士が俺と直接話さないうちは話を済ますことはできないと言い続けているとは聞いていたが、具体的な内容は知らされていなかった。
「これを、見ていただけませんか」
俺の問い掛けに、黒木弁護士は自分の前に置いてあった一枚の書類を父の隣に座った俺に差し出してきた。
差し出されたものを受け取って確かめると、それは母の署名と捺印がしてある『念書』だった。
そこに書かれていた内容も、父から聞いていた通りのものだった。
「そこに書かれている通り、尚哉さんのお母様は樫山美咲さんを大層気に入られたようで、尚哉さんと美咲さんの婚姻を強く望まれているというお話は、既にお聞きになられて……」
「尚哉には、何も知らせていないと何度も申し上げたはずです」
「新井さん。あなたの奥様は、樫山美咲さんと尚哉さんの婚姻を確約されているのですよ。尚哉さん自身のお考えを、尋ねることは当然ではありませんか」
俺が念書に目を通し終え黒木弁護士に念書を返すと、俺に話が通っているものとしてその先に話を進めようとした黒木弁護士を父が止めた。
俺との約束を守り、俺には何も知らせていないのだと告げた父を黒木弁護士が諌めた。
母が美咲と会った翌日、父は樫山専務に断りの連絡を入れたが取り合ってもらえず、黒木弁護士と話すように言われたと父から伝えられていた。
その後、言われた通り黒木弁護士と話したところ、念書を盾に取り父の言い分は聞いてもらえず、黒木弁護士との話し合いは平行線を辿っていたため俺がこの場に呼び出されていた。
俺は黒木弁護士の態度から、俺の前で両親に揺さぶりを掛け追い詰めようとしているのだと感付いた。
おそらくは、動揺した両親を庇おうとする俺から何らかの言質を取り、さらに樫山専務や美咲にとって有利な状況を作り上げようとしているのだろうと予測を立てた俺は、黒木弁護士が意図的に言葉の意味を取り違えることができないように、はっきりと拒否の言葉を口にした。
「私には美咲さんと結婚する意思は微塵もなく、父親が誰なのか分からない子供の父親になる気など、毛頭ありません」
「そう、ですか……。それだと、困ったことになりますねぇ」
俺の拒否の返答に黒木弁護士は母に視線を止めて、俺が承諾の返事をしないと母が困ることになると告げた。
そして、その視線を俺に向けると本題を口にした。
「樫山家では、あなたのお母様からの念書を受け取ったことで、美咲さんとあなたの新居となる新築のマンションを購入し、そこに備え付ける家具なども買い揃えて、既に多額の金子を消費してしまっているのですよ。ですから、お母様の早とちりで自分は関係ないとは、いかないということは、お分かりいただけますね」




