第百九話 招かれざる伏兵
両親と話した後、遅い時間ではあったが知らせるなら早い方がいいだろうと思い、実家を出てすぐに車を道路の脇に停めて達樹に電話を入れた。
「……念書を、取られたのか……。それは、盲点だったな……」
「樫山専務の娘が、猫を被っていたらしくて、すっかり騙されてしまったようなんだ」
「そうだろうな……」
俺の話を聞いた達樹の口調は重く、会話が続かなかった。
お互いに何を語ることもなく過ぎて行く時間は、俺の中に新たに宿った不安を色濃くさせた。
「向こうの魂胆が分からない状況で、あれこれ言ってみたところでどうしようもないだろ。今は、向こうの出方を待つしかないな」
沈黙を息苦しく感じ始めた頃、達樹が溜息混じりに言葉を紡いだ。
「やはり、それしかないか……」
もっと他に何か方法はないのかと言外に匂わせた俺に、達樹から一転して厳しい言葉が発せられた。
「無駄に動くなよ。黒木弁護士は、間違いなくお前が動くと読んでいるはずだ。動いて隙ができれば、僅かな隙であっても必ず付け込まれる。黒木弁護士は、その機会を虎視眈々と狙っている。俺なら、確実にそうする」
梨奈との結婚式までの予定を考え、ウエディングドレスを身に纏った梨奈の姿を想像し、近い将来に訪れる幸せな日々に思いを馳せていた昨日とは打って変わって、明らかに状況が悪化したことに焦りを感じていた俺は達樹の言葉にハッとした。
『念書』という言葉がキーワードとなって、そうだとは知らないままに黒木弁護士の張った罠に嵌まり掛けていたのだと気付かされた。
もう少しで取り返しのつかない状況に陥るところだったと悟った途端に背中が冷え、俺は達樹の助言に従い向こうから何か言ってくるまでは静観していることにした。
そして、カレンダーも残すところ最後の一枚となった十二月一日。
俺は父から呼び出され、自分で車のハンドルを握り実家へ出向いた。
父からの電話で黒木弁護士が訪ねて来ることは聞かされていたが、俺が実家に着いた時には既に和室で両親と黒木弁護士が座卓を挟んで向かい合っていた。
和室の中に入った俺を父が渋い表情のまま黒木弁護士に紹介すると、黒木弁護士は一見、柔和に映る微笑みを浮かべて自己紹介した。
「樫山さんからお話を伺って、ぜひ一度お会いしたいと思っていたのですが、なかなか機会に恵まれず、やっと願いが叶いました。弁護士の黒木と言います。樫山さんの代理を務めさせていただいています」
父と同年代に見える黒木弁護士は物腰も柔らかかったが、俺は厄介な相手だと直感した。
四葉環境株式会社に営業マンとして勤め、世界各地の取引相手と相対してきた俺には、一点の曇りもなく室内の照明を反射しているレンズの填まった眼鏡をかけ、一分の隙もなくスリーピースを着こなし姿勢を保っている様子から、黒木弁護士が俺に見せている姿は計算ずくされたものなのだと読み取れた。
現に同席している父は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、母は青褪めて唇を固く引き結んでいた。




