第百六話 胸騒ぎ
「樫山専務が雇った、弁護士だそうだ」
「それで」
父の説明で『樫山専務が雇った弁護士』だと知り、耳を塞いでしまいたい感情が沸き起こった。
しかし、ここで逃げては両親に自分の問題を押し付けることになると、俺は自分の感情を強引に捻じ伏せ父に話の先を促した。
「まあ、端的に言えば、お前が樫山専務の娘を弄んで子供まで作ったのだから、責任を取るように言われたらしい」
「それで」
父の話は俺にも予測はついたが、それだけの話で弁護士が乗り込んで来るとは思えず、俺はさらに話を続けるように言った。
父は、そこでまた息を吐き出す。今度は細く長く重みを感じさせるものだった。
俯いていた母が、背中を丸め頭を落とした。
父が母に据えていた視線を外し、俺の方を見て再び話し始めた。
「お前とも話していたが、母さんには監査委員会へ訴え出てから事情を告げるつもりだったから、何も知らなかった母さんはまんまと丸め込まれて、二人の話を鵜呑みにしてしまったらしい」
樫山専務との問題を父に相談して以来、父は俺を心配して時間を見つけては連絡を入れてくれていた。
俺はその度に近況を話していたが、母には父と相談し、余計な心配を掛けないように何も知らせずにいた。
だが、監査委員会へ訴えるとしたら、このまま何も話さないという訳にはいかないだろうと、監査委員会が俺の訴えを受け付けた後で事情を話すことにしていた。
厳しい表情を崩そうともせず説明を続ける父と、縮こまるようにその身を硬くする母の姿に、俺は悪い予感しかせず慎重に問い掛けた。
「何が、あったんだ」
父は一度、母の様子を確かめるように見た後、俺の方を向き眉間に寄せていた皺を深くして応えた。
「黒木弁護士が差し出した念書に、署名と捺印をしたそうだ」
母の肩が『ピクッ』と小さく震えた。
嫌な胸騒ぎがしていた。
「念書って……。いったい、何が書いてあったんだ」
「母さんが、必ずお前を説得して、責任を持って樫山専務の娘と結婚させ、子供の父親としての責任を果たさせる、というようなことが書いてあったそうだ」
“最悪だ”
父の言葉を聞いた俺の頭の中に、その言葉が浮かんだ。
「冗談だろ……」
両親の様子から、父が言ったことは本当にあったことなのだと俺は本能で感じ取っていたが、信じたくない思いが勝り言葉が零れ落ちていた。




