第百五話 波紋
用事があっても仕事中には滅多なことで電話を掛けてこない母が、俺の返事も聞かず一方的に言うだけ言って電話を切ってしまうということは、今までに一度もないことだった。
呆気にとられて手に持っていた携帯電話を眺めていると、遅れて追い付いて来た思考が母の行動の異常さを把握した。
自分のデスクで報告書を作成していた俺は何があったのか気になり、席を立って休憩室へ行き父に電話を入れた。
「……母さんからは、何も言ってきていないが、それは、妙だな……」
俺から事情を聞いた父も、何も知らなかったようで少し考え込んでいた。
「とにかく、仕事が終わったらすぐに帰って母さんと話してみるから、お前も仕事を終えたら、家へ来ればいい」
俺は『分かった』と応えて電話を切ったが、何か悪意のあるものがひたひたと近付いて来ている予感がしていた。
急いで報告書を仕上げ定時を少し過ぎた頃に退社した俺は、一度マンション『ベルフラワー』に帰り自分の車を運転して実家へ向かった。
久し振りに帰った実家だったが、中へ入り両親の様子を一目見ただけで俺の悪い予感が当たったことを悟った。
ダイニングルームの食卓の上には手付かずの夕食がそのまま残され、父は眉間に皺を寄せ、母は肩を落とし向かい合って椅子に座っていた。
俺は、何も聞かずにこのまま回れ右をして帰りたい衝動に駆られ溜息が出た。
だが、そのまま帰ったところで問題が解決するとは思えず、俺は黙ってダイニングルームへ入りテーブルの上に用意してあった急須を手に取り、蓋を開けて電気ポットからお湯を注ぎ三人分の湯飲み茶碗にお茶を淹れた。
その間、誰も口を利こうとせず、お茶を入れる『こぽこぽ』という音だけが響いていた。
父と母の前にお茶の入った湯飲み茶碗を置き、俺は空いている席に座ってお茶を一口すすり自分の前に湯飲み茶碗を置いた。
テーブルと湯飲み茶碗が触れ合う『コトッ』という音がし、俺は覚悟を決めて何事もなかったように二人に問い掛けた。
「それで、話って、何」
俺の問い掛けに母が俯いたまま俺に一度視線を走らせた後、下から覗き込むように父を見た。
母の視線を受け止めた父は大きく息を吐き出した後、母を見据えたまま口を開いた。
「父さんが出掛けるのを見計らったように、父さんが出掛けてから程なくして、樫山専務の娘が黒木という弁護士を連れて訪ねて来たそうだ」
「弁護士」
どうしても結婚話を承諾しない俺を説得するために、美咲が俺の実家を訪ねて来るというからめ手を用いることは理屈では分からなくなかった。
だが、その場合でも初めは美咲一人か、両親あるいは父か母のどちらかを伴い話の筋を通すものではないのかと考えた俺は、なぜ最初から美咲が弁護士を連れて来たのか理解が及ばなかった。




