最初の銅貨
朝一番に行こうと決めたのに、門が開く前から、もう列ができていた。
野菜を積んだ荷車。鶏の籠を背負った女の人。羊を三頭連れた少年。俺はその最後尾について、頭の中で何度も練習した。
名前。どこから来たか。何をしに来たか。
生まれを聞かれたら、どうする。適当な村の名前をでっち上げることも考えたが、俺はこの国の村の名前を一つも知らない。でっち上げた村がたまたま実在して、その村の人が後ろに並んでいたら目も当てられない。
正直に言おう。言えることだけを。
*
机の前に座っていたのは、二十歳くらいの若い男だった。茶色の髪を短く刈って、袖口にインクの染みがある。帳面から顔を上げて、俺を見た。
「お名前と、ご用件を」
知らない音なのに、意味が届く。問題は、俺の声が向こうに届くかどうかだ。
「ユウ、です。仕事を探しに来ました」
若い門番は、羽根ペンを動かしかけて、止まった。
「ユウ。……姓は?」
「ありません。いや、あるにはあるんですが、たぶん、ここでは意味がないというか」
通じた。通じたけれど、余計なことを言った。門番の眉がわずかに寄った。
「どちらから」
「北の森から来ました。生まれた場所を証明できるものは、何も持っていません。すみません」
門番はしばらく俺の顔を見て、それから外套と靴と、何も持っていない手を見た。
「……森で、何か事故に?」
事故には遭った。ただし、たぶんこの人の想像とは全然違う場所で。
「そんなところです」
門番は小さく頷いて、帳面に何かを書きつけた。俺には読めない、曲がりくねった文字だった。
「旅人の受付簿に記録しました。名はユウ、出身不詳、身元を示す書類なし、目的は仕事探し。これはあなたの身元を保証する記録ではありません。この町に来た、という記録です。町の中で揉め事を起こさなければ、それで構いません。北門のカイです。何か困ったら、門番か衛兵へ」
カイ坊だ。危うく声に出しそうになって、飲み込んだ。
ちょうどその時、門の外から馬が一頭、軽い足取りで入ってきた。乗っているのは日に焼けた男で、左の二の腕に青い布を巻いている。男は馬上からカイに声をかけた。
「北の街道、異常なし。昨日の雨で、旧道の分かれ目はぬかるんでる」
俺が目で追っていると、カイが言った。
「隊商街道の巡回員です。道で困ったら、あの青い腕章を探してください」
*
門をくぐると、音が押し寄せてきた。
石畳を叩く車輪。呼び込みの声。どこかで鍋を叩く音。森の音しか聞いていなかった耳に、町の音は大きすぎた。人がいる。こんなにたくさん。
どこかのパン屋の匂いが流れてきて、足がそっちへ向きかけた。腹は減っていない。それに、一文無しだった。
門のすぐ近くに、広場のような場所があった。荷車が何台も止まって、男たちが麻袋や木箱を下ろしている。真ん中で、腕組みをした大柄な男が声を張り上げていた。
「おい、その樽は奥だって言ってんだろ! ……ああもう、手が足りねえ!」
声が門まで届くほど大きい。足が勝手にそっちへ向いた。
「あの、手伝えることはありますか」
四十代くらいの、首の太い男は、俺を上から下まで見た。
「荷運びの経験は」
「引っ越しの手伝いなら、何度か」
嘘ではない。大学時代、友人の引っ越しで冷蔵庫を三階まで運んだことがある。
「……そこの麻袋。持ってみろ」
麦の入った麻袋だった。軽い。軽すぎて片手で持ちかけて、慌てて両手に戻した。普通の人が普通に持つ重さが分からないので、周りの男たちを真似て、肩に担いで前かがみになった。
「よし。あの荷車から、こっちの倉庫まで。昼までやってみろ。俺はガストン。ここの荷役頭だ」
*
昼までのつもりが、日が傾くまで働いた。朝いちばんの荷は、俺が門で受付簿に書かれ、町の音に立ちすくんでいる間にもう片づいていたから、半端な時間からの日雇いだ。
麻袋を運んだ。木箱を運んだ。ほかの男たちが二人がかりで転がす樽が一つ、荷車の脇で止まっていたので、俺は一人で抱えて倉庫へ運んだ。
戻ってくると、荷揚げ場が静かになっていた。樽を転がしかけていた二人組が、棒を持ったまま口を開けている。
「……おい。あれ、塩漬けの樽だぞ」
「中身、入ってんのか」
一人が残りの樽の栓を叩いた。ごん、と詰まった音がした。入っている。ガストンさんは何も言わずに腕組みをほどき、次の樽を俺のほうへ転がしてよこした。その次も。昼を過ぎる頃には、荷車の樽が、なぜか全部俺の前に並んでいた。
二つ目の樽からは、わざと時々立ち止まって息をついた。
疲れはしなかった。けれど、汗をかいているふりは、少し疲れた。
荷車が空になると、ガストンさんが俺を手招きした。
手のひらに、硬いものが落ちてきた。
茶色っぽい、小さな丸い金属。表に何かの模様が刻まれている。一枚、二枚、三枚。ガストンさんの指が、一枚ずつ数えながら俺の手に置いていく。
「十八枚。銅貨十八。出遅れた初日にしちゃ、上出来だ」
樽よりずっと軽いはずなのに、手のひらの上で、それはずしりと重かった。
「財布もねえのか」
ガストンさんが呆れた顔をして、腰の物入れから、くたびれた革の小袋を出した。口紐の端がほつれている。
「古いやつだ。やる。明日も来るなら、朝の鐘の後だ。荷が来ない日もあるがな」
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
*
広場の角に、小さな祠があった。
屋根のついた木の箱の中に、手のひらほどの古い像が六つ並んでいる。鳥の形をしたもの。丸い甲羅を持ったもの。角のある四つ足の獣。像の前の燭台で、短い蝋燭が一本燃えていた。
奥の、一番暗い場所にも一体あった。蝋燭の煤で真っ黒になっていて、何の形なのか、俺には分からなかった。
角のパン屋から、籠を抱えた白い前掛けの店主が出てきた。祠の前で足を止め、軽く頭を下げて、口の中で何か呟いていく。
「六柱さま、今日もよろしく」
そう聞こえた。
六柱。六つの像。この町の人たちが、毎日頭を下げる何か。
俺は祠の前で、見よう見まねで頭を下げた。何をよろしくすればいいのかは分からない。ただ、今日一日がこの町で無事に終わりそうなことに、誰かに礼を言いたかった。
*
パン屋の棚には、まだ少しパンが残っていた。
拳ふたつ分くらいの、丸くて小さなパン。表面がこんがりと茶色い。
「ひとつ、ください」
「三枚ね」
革の小袋から、銅貨を三枚。一枚ずつ数えて渡すのに、どきどきした。千円札を出すのに何も考えなかった頃が嘘のようだ。
隣の屋台の大鍋では、豆と根菜と塩漬け肉が煮えていた。
「一杯、四枚だよ」
四枚を渡して、椀を受け取った。
広場の端の、荷揚げ場の石段に腰を下ろした。夕陽が石畳を橙色に染めている。荷車の男たちが、それぞれ家へ帰っていく。
パンを割った。
湯気が、ふわっと立ち上った。焼いてから時間が経っているはずなのに、中はまだほんのり温かかった。外側の皮はぱりっとしていて、中はふわふわで、割った面から、麦の甘い匂いがした。
一口かじる。
噛む。皮が香ばしくて、中がほんのり甘くて、少しだけ塩が効いている。噛めば噛むほど、甘さが増していく。
汁物を一口すする。熱い。豆がほくほくして、根菜が柔らかくて、塩漬け肉から出た脂が、表面に小さな丸を作っていた。
パンを汁にひたして、もう一口。
美味かった。
森の橙色の実も美味かった。でも、これは違う。
この椀と、このパンは、俺が今日働いて、ガストンさんにもらった銅貨で買ったものだ。麻袋を担いで、樽を運んで、汗をかくふりをして、手に入れた。
腹は減っていなかった。この身体は、食べなくても困らない。それでも、一口ごとに、胸の奥のほうまで温かいものが落ちていった。
前の人生で、初めてアルバイトの給料をもらった日のことを思い出した。駅前のラーメン屋で、一番高いチャーシュー麺を頼んだ。あの時も、美味かった。味より、自分で払ったという事実が美味かった。
それと同じだ。いや、たぶん、あの時より美味い。
パンの最後のひとかけらで、椀の底に残った汁を拭った。行儀が悪いかと周りを見たら、隣で同じことをしている荷役の男がいた。樽の栓を叩いた男だった。目が合って、男がにやりと笑った。
「あんた、明日も来いよ。樽が溜まると、俺の腰が死ぬ」
俺も笑った。
革の小袋を開けて、残りの銅貨を手のひらに出した。
十一枚。
指で一枚ずつ数えた。もう一度数えた。十一枚。昨日の俺は、一枚も持っていなかった。
ほつれた口紐を、二重に結んだ。夕闇の中で、祠の蝋燭が明るく見え始めた。




