名前だけの旅人
次の日、荷は来なかった。
その次の日は雨で、荷車が二台だけ来て、いつもの顔ぶれで手が足りた。三日目にようやく大きな荷が入ったと思ったら、ガストンさんは俺の顔を見るなり、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「今日のは組合の荷でな。帳面に名前のある奴しか使えねえんだ」
組合の帳面に名前を載せるには、泊まっている宿と、身元を請け合ってくれる人がいる。それから、帳面の欄に自分の名前を書けること。
俺には宿がない。請け合ってくれる人もいない。名前は、この国の字で書けない。
「腕はいいんだがなあ」
ガストンさんは心底惜しそうに言ってくれた。それだけで、だいぶ救われた。
「一度、神殿で聞いてみな。旅の奴の相談に乗ってくれる机がある」
この三日間、俺は町の外の森で夜を過ごしていた。眠らなくても平気な身体なので、宿代を払うのがもったいなかった。食べなくても平気な身体なので、食事も抜いた。革の小袋の銅貨は、十一枚のまま一枚も減っていない。
減ってはいないのだが、パン屋の前を通るたびに、足が勝手に遅くなった。三日目には、店主に「今日は買わないの」と声をかけられた。買わない男が毎日店の前で速度を落としていくのは、たしかに不気味だったと思う。
*
四日目の朝、ガストンさんに教わった通り、町の真ん中にある神殿へ行った。
白い石の大きな建物だった。天井の高い広間の奥で、誰かが祈っている。手前の壁際には、木の板が立てかけてあって、紙が何枚も留めてあった。
人が何人か、その紙を眺めていた。仕事の募集らしい。
俺も眺めた。
読めなかった。
心のどこかで、期待はしていたのだ。言葉の意味が分かるなら、字の意味も分かるんじゃないかと。
分からなかった。曲がりくねった線が、紙の上にただ並んでいるだけだった。話し言葉は胸にほどけていくのに、文字は、どれだけ見つめてもほどけない。
「読もうか」
横から声がした。
小柄な年配の女性だった。白髪を後ろできっちりとまとめて、袖に黒い腕抜きをしている。広間の脇の机で、紙の束を仕分けていたらしい。机の上には帳面と、紐でくくった書類の山が積んであった。
「……お願いできますか」
女性は紙を端から指でたどって、町に半年以上住んでいる人、読み書きのできる人、紹介状のある人、と、六枚ぶんをひと息に読んだ。それから、ちらりと俺を見た。
「どれも持ってなさそうだね」
「持ってないです」
女性は机に戻って椅子に座った。それから、机の向かいの椅子を手で示した。俺は素直に座った。
「旅の人かい」
「はい。ユウといいます。四日前に北門から入りました。荷揚げ場で一日働いたんですが、それ以上は組合に入らないと難しいと言われて」
「お住まいは」
「森です」
女性の手が止まった。
「森で寝ています。町の外の」
「森は寝床ではありません」
真顔だった。何の冗談も含んでいない、完璧な真顔だった。そこだけ、張り紙を読み上げるような声だった。俺は反論できなかった。たしかに、森は寝床ではない。俺以外にとっては。
「北門の近くに麦わら亭って宿がある。共同の寝所なら一晩六銅貨だよ。六枚で屋根が買えるなら、安いもんさ」
話しながら、女性はさっと何枚かの紙をめくり、俺には読めない帳面に何か書きつけた。
「で、何ができるんだい」
聞かれて、考えた。
荷物を運べる。森を歩ける。何日でも平気で歩ける。目と耳と鼻が、たぶん人よりいい。影が動かせる。空も飛べる。
後半は言わないほうがいい気がした。
「重い物を運べます。森を歩くのは得意です。目はいいほうだと思います」
「森を歩くのが得意、ね」
女性は繰り返して、少し考えた。
「職人通りに、トマって薬師がいる。薬草を採ってくる人を探してるけど、気難しい男だよ。見分けのつかない人からは一枚も買わない。それでもいいなら」
机の引き出しから小さな紙を出して、羽根ペンでさらさらと何か書きつけた。乾くのを待って、二つに折って、俺に差し出す。
「エッダ・リースの紹介だって言いな」
受け取って、開いてみた。
読めなかった。当然だ。
「なんて書いてあるんですか」
「『この方は文字をお読みになりませんが、嘘をついているようには見えません』」
エッダさんは、紙を指さして読み上げた。それから、少しだけ口の端を上げた。
「本当のことしか書いてないよ」
俺は紙を大事に二つ折りにして、革の小袋の中に、銅貨と一緒にしまった。
*
職人通りは、神殿から坂を下った先にあった。
桶屋、鍛冶屋、革細工の店。どの店からも、木や鉄や油の匂いがする。トマ薬種店は、通りの中ほどにあった。乾いた草の匂いが、店の外まで漂っている。
中は薄暗く、壁一面に引き出しが並んでいた。天井から、干した草の束がいくつもぶら下がっている。
カウンターの奥で、痩せた男が乳鉢で何かをすり潰していた。四十手前くらいだろうか。目の下に薄い隈があって、何もかもに少し飽きているような顔をしている。
紹介状を渡すと、男はそれを読んで、鼻を鳴らした。
「エッダさんか。あの人の『嘘をついているようには見えない』は、あてになる」
それから俺を見た。
「で、薬草のことは何を知ってる」
「何も知りません」
「正直でよろしい。知ったかぶりが一番困る」
トマさんは引き出しの一つを開けて、葉を一枚取り出した。細長くて、縁がわずかに波打っている。表は普通の緑色だ。
「裏を見ろ」
裏返すと、白かった。細かい毛がびっしりと生えて、光の加減で銀色に見える。
「銀葉草。熱冷ましの煎じ薬に使う。うちで一番使う草だ。採るのは、葉の裏がこの通り白くて、毛がちゃんと生えているものだけ。似た草があるが、それは持ってくれば分かる。分からなかったら一枚も買わない」
それから、壁に掛けた板を指さした。木の板に、墨で簡単な絵が描いてある。門の形。道の線。木の印。その外側に、赤い点がいくつも打ってある。
字は読めなかったが、絵なら分かった。
「北門から出て、この道を行く。町の共有採集林だ。区域の端には、赤い布を巻いた杭が立ってる。採っていいのは杭の内側だけ。外は誰の森でもないし、その先には古い林道が通ってるが、今はほとんど誰も使ってない。行く理由もない」
「杭の内側だけ」
「そうだ。採りすぎるな。根は残せ。萎れたのは持ってくるな」
最後に、トマさんはカウンターの下から、麻の小さな袋を二つと、使い込まれた革の水袋を出した。
「見本を入れる袋と、採ったものを分けておく袋。合わせて二銅貨。水袋は古いから二銅貨でいい」
「水は、たぶん、なくても平気です」
「森で倒れても知らんぞ。採集人が水も持たずに森へ入ると、こっちが疑われる」
それ以上は言い返せなかった。革の小袋から、銅貨を四枚出した。
残りは七枚。
トマさんは、銀葉草の見本を一枚、薄い紙に挟んで、麻袋に入れてくれた。
「貸すだけだ。なくしたら弁償」
*
店を出ると、昼を過ぎていた。
麻袋の中で、見本の紙がかさりと鳴る。肩には、空っぽの水袋。小袋には、銅貨七枚と、エッダさんの紹介状。
北門へ向かって歩きながら、頭の中で、トマさんの板の絵をなぞった。北門。道。木の印。赤い杭。どこまでが内側で、どこからが外か。それを自分の目で確かめないと、採るものも採れない。今から出れば、杭に着く前に日が暮れる。
夕方、北門をくぐって外へ出る時、カイが帳面から顔を上げた。
「また森で寝るんですか」
「……今夜までは。明日からは、森で仕事です」
カイの羽根ペンが、いつもより軽く動いた気がした。




