林道を走る子
夜明け前に森の寝床を出て、北へ歩いた。
前の晩に降った雨で、道はところどころぬかるんでいた。北門から延びる踏み固められた道を進むと、両側の木がだんだん密になっていく。人の手が入った森だというのは、すぐに分かった。下草が刈られていて、切り株が並び、木の幹に刻み目がつけてある。
麻袋から見本を出して、何度も見比べながら歩いた。
葉の裏が白い。細かい毛が生えている。それらしい草は、意外とあちこちに生えていた。しゃがみ込んで裏返す。白い。毛もある、と思う。見本と並べる。たぶん同じだ。たぶん。
次の株を裏返す。これも白い。ただ、さっきのより毛が少ない気がする。気がするだけかもしれない。
三つ目の株の前で、俺はしばらく唸っていた。
区別がつかない。目はいいほうだと思うと言った手前、少し恥ずかしかった。目がいいのと、見分けられるのとは、どうやら別の話らしい。
採るのは帰りにしよう、と決めた。今日の目的は区域の端を確かめることだ。それらしい株の場所だけ、近くの木の形と一緒に覚えておく。
覚え方は、前の人生で営業先への道を覚えたときと同じにした。目印ごとに、勝手に名前をつけるのだ。幹が二股に分かれた木は「ピースの木」。根元に苔の丸い塊がある岩は「肉まん岩」。三つ目の、白いのか白くないのか分からない株の隣には、腰の曲がった木が立っていたので「課長」と名づけた。課長の前には、帰りにもう一度寄る。
名前のついた目印が四つになったところで、腹は少しも減っていないのに、肉まんが食べたくなった。
*
日が高くなる頃、赤い布が見えた。
腰ほどの高さの木の杭に、色の褪せた赤い布が巻きつけてある。少し先にもう一本。その先にもう一本。木々の間に、点々と赤い印が続いていた。
ここが端だ。
布の端がほつれて、風が吹くたびにひらひらと揺れていた。
見ていると、右手がぴくりと動いた。
動くものに飛びつきたい、というあの衝動だった。人間の姿でも出るのか。俺は右手を外套の中に突っ込んで、杭から一歩離れた。二十八歳の男が、町の境界杭の布にじゃれついているところを誰かに見られたら、トマさんの紹介も、エッダさんの「嘘をついているようには見えない」も台無しになる。
杭に沿ってしばらく歩いた。杭の内側は、下草が刈られて、歩きやすい。外側は、羊歯と藪が伸び放題で、地面が北に向かって緩やかに下っている。
トマさんは、この先に古い林道があると言っていた。今は誰も使わない。行く理由もない。
杭の前で立ち止まって、北を見た。
この方角を、ずっとずっと行くと、たぶん俺が目を覚ました森に着く。空から見た時、町は森の南の外れにあった。石を四つ並べた、あの場所。もし林道が北へ延びているなら、いつか、歩いてあそこまで行ける道になるかもしれない。
採るわけじゃない。見るだけだ。どこに道があるか知っておけば、間違って区域の外に迷い込むこともない。
そう自分に言い訳をして、杭の外へ一歩出た。
*
藪をかき分けて、斜面を下った。
外側の森は、内側よりずっと暗い。木の背が高く、枝が重なって、昼なのに夕方のようだった。濡れた落ち葉が、足を出すたびにずるりと滑る。人間の足で歩くより、狐の脚のほうが楽だろうなと思ったが、変わるほどのことでもなかった。
小一時間ほど歩いただろうか。木々の間に、細長い空き地のようなものが見えてきた。
道だった。
荷車一台がやっと通れるくらいの幅で、両側から木の枝が覆いかぶさっている。轍の跡が深く刻まれて、そこに雨水が溜まっていた。古い道だ。けれど、轍のひとつは新しかった。泥の縁が、まだ崩れていない。
誰も使わない道を、誰かが最近、使っている。
その時、北のほうから声が聞こえた。
怒鳴り声だった。男の声だ。言葉ははっきり聞き取れない。続いて、何かが藪を突っ切る音。枝が折れる音。小さくて軽い、ぱたぱたという足音。その後ろから、重い足音が二つ。
俺は木の陰に身を寄せた。
何が起きているのか、分からなかった。この国の人間同士の事情を、俺は何も知らない。子供が親から逃げているだけかもしれない。盗みを働いて追われているのかもしれない。俺が知らないだけで、何かの決まりごとなのかもしれない。
分からないまま、足が音のほうへ向いていた。
*
林道から少し外れた、斜面の下だった。
女の子が走っていた。
肩くらいまでの栗色の髪が、泥で額に張りついている。服は膝の上まで泥だらけで、片方の足だけ靴を履いていなかった。何度も転んだのだろう、腕にも頬にも、泥の筋がついていた。
その後ろから、男が二人。
一人は大柄で、腰に短い剣を下げている。もう一人は痩せていて、斜面の上から、苛立った様子で声を張り上げていた。外套の前を押さえる指に、指輪が光っていた。
「そっちだ、回り込め!」
大柄な男が、斜面を斜めに駆け下りた。女の子の前に回り込む。女の子は方向を変えようとして、濡れた落ち葉に足を取られた。
腕を掴まれた。
「やだっ……! はなして、はなしてっ!」
細い腕が、大きな手の中でもがいていた。女の子が身体をよじる。その拍子に、顔がこちらを向いた。
目が合った。
木の陰にいる俺を、女の子は見た。泥だらけの顔の中で、目だけが大きく見開かれていた。琥珀色の目だった。
唇が動いた。
「……たす、けて」
声はかすれていて、ほとんど音になっていなかった。それでも、言葉は俺に届いた。
痩せた男が、ようやく斜面を下りてきた。息を切らしながら、女の子を見下ろす。
「手間をかけさせやがって。……おい、顔はやめとけ。傷がついたら値が下がる」
大柄な男が、女の子の腕を引いた。女の子が泥の中に膝をつく。
「大事な商品だ。脚なら、あざくらい構わん。もう走る気が起きない程度にしとけ」
商品。
その言葉が、知らない音のまま、意味だけを連れて胸に落ちてきた。
大柄な男が、空いているほうの手を振り上げた。女の子が身体を丸めて、頭を抱えた。
俺は木の陰から出ていた。
「やめろ」
自分の声が、思ったより低く出た。
二人の男が、同時に振り向いた。大柄な男の手が、振り上げたまま止まっている。痩せた男の指輪が、薄暗い森の中で鈍く光った。
泥の斜面を三歩下りて、俺は男たちの前に立っていた。




