きつね、さん?
「なんだ、てめえは」
痩せた男が言った。大柄な男は答えを待たなかった。女の子の腕を掴んだまま、空いた手を腰の剣へ伸ばす。
それより先に、影が動いた。
ここは昼でも暗い森だった。木の根元にも、藪の下にも、濡れた落ち葉の裏にも、影はいくらでもあった。俺が思うより早く、それは地面から起き上がっていた。
黒い帯が、大柄な男の手首に巻きつく。剣の柄を握った指を、一本ずつ外していく。抜けかけた剣が帯に絡め取られて、宙を滑り、斜面の上の太い木の根元へ突き立った。もう一本の帯が、女の子の腕を掴んでいる指をこじ開けた。女の子が、泥の上に尻もちをつく。
痩せた男が、懐から短い刃物を抜いた。それも、抜いたところで止まった。手首から肘まで、影がぐるりと覆っていた。刃物は男の指を離れて、剣と同じ木の根元へ飛んでいった。
二人の足首に、影が絡みつく。そのまま女の子から引き離し、斜面の上の木の幹へ引きずり上げて、腕ごと押しつける。木の影と、男たちの影が、ひとつに縫い合わされた。
「な、なんだこれは、おい、ほどけ! 俺たちが誰の仕事をしてると――」
痩せた男がわめいた。その声が森に響くたびに、泥の上の女の子の肩が跳ねた。
口元に、細い帯を一本。
声が止まった。息はできるように、鼻はふさがない。男は目を剥いて、くぐもった音を出すだけになった。
時間にすれば、たぶん十も数えないうちのことだった。
*
俺は女の子のほうへ向き直った。
女の子は、泥の中に座り込んだまま、俺を見ていた。さっき「たすけて」と動いた唇が、今は固く結ばれている。
一歩近づくと、女の子は後ずさった。手と尻で泥を掻いて、ずるずると。
「大丈夫、もう――」
手を差し出しかけた。
女の子が、両腕で頭を抱えた。
小さな身体が、ぎゅっと丸まった。泥に汚れた肘の間から、震える指が見える。殴られる時の、身構え方だった。
俺は手を引いた。
そうだ。この子から見たら、俺は何だ。大人の男だ。背の高い、知らない男だ。しかも、たった今、影を動かして、大人二人を木に縛りつけた。この子を追いかけてきた男たちと、俺と、何が違う。どこで見分けろというのだ。
足を止めた。それ以上、近づかなかった。
ゆっくりと、しゃがんだ。目の高さを下げる。それでも、女の子との距離は五歩ほどあった。女の子は頭を抱えたまま、腕の隙間から、俺の手を見ていた。手だけを。
言葉では、届かない気がした。大丈夫だと言うのは簡単だ。でも、さっきの男たちだって、この子に何か言い聞かせてここまで連れてきたのだろう。
小さくなれば、どうだろう。
この大きな身体を、目の前から消せたら。見下ろす大人ではなく、もっと低い、もっと小さなものになれたら。
黒い獣が急に現れたら、余計に怖がらせるかもしれない。分からない。分からないけれど、今の俺のままでいるよりは、ましな気がした。
その前に、斜面の上の木へ、もう一度だけ意識を向けた。もがいている二人の頭に、影を頭巾のようにすっぽりかぶせる。息ができるように鼻先だけは空けて、目の前も耳のまわりも、厚い影で覆った。木まではここから二十歩ほどある。男たちは自分のくぐもった唸り声と、幹のきしむ音に包まれている。小声なら、まず届かない。
肩から水袋を下ろして、麻袋と一緒に足元に置いた。
「……驚かせたら、ごめん」
小さく言って、形をほどいた。
*
目線が、すとんと落ちた。
濡れた落ち葉の匂いが、急に近くなる。前足が泥に沈む。俺は伏せるように身体を低くして、それ以上、何もしなかった。
尻尾だけが、勝手に動いた。
背中の後ろで、ふさりと揺れる。俺が止まっても、一拍遅れて、もう一度揺れる。止めようとすると、かえって大きく揺れた。
女の子の腕の隙間で、目が動いた。俺の手があった場所から、黒い前足へ。前足から、耳へ。耳から、揺れる尻尾へ。
頭を抱えていた腕が、ほんの少し下がった。
雨上がりの森は静かだった。葉の先から、しずくが落ちる音だけがする。ひとつ、またひとつ。そのひとつが、ちょうど俺の鼻先に落ちてきた。
「けふっ」
くしゃみが出た。
女の子の肩が、びくりと跳ねた。それから、跳ねた肩が、ゆっくりと下りていった。耳のそばまで上がっていた肩が、元の高さに戻っていく。
女の子は、腕を下ろした。
泥だらけの顔が、まっすぐ俺を見ていた。頬の泥に、涙の通った筋が二本、白く残っている。琥珀色の目が、まんまるに見開かれていた。瞬きもしない。俺も動かなかった。どれくらいそうしていたのか分からない。木の上で、鳥が一度だけ鳴いた。
女の子の首が、ほんの少し、傾いた。
「……きつね、さん?」
かすれた、小さな声だった。
俺は、ゆっくりと一度だけ頷いた。
狐の姿の俺に、誰かが話しかけたのは、初めてだった。森で一人きりだった頃、この姿の俺は、誰にも呼ばれなかった。鳴いても、返ってくるのは鳥の声だけだった。
女の子はまた黙った。それから、斜面の上の木に縫いつけられた男たちを見て、足元に置いた水袋と麻袋を見て、俺を見た。
「さっきの……おにいさん?」
もう一度、頷いた。
女の子の唇が、何か言いかけて、閉じた。
俺は、前足の上に顎を乗せた。地面にぺたりと伏せる。これ以上低くはなれないところまで。耳も、後ろへ倒した。
待とう、と思った。
来なくてもいい。来なかったら、このまま、この距離で、次の方法を考えればいい。
女の子の手が、泥を掴んだ。
指に力が入るのが見えた。泥が、指の間からはみ出す。女の子は、その手を支えにして、膝を立てた。
片方の膝が、前に出た。
それから、立ち上がった。靴を履いた右足と、靴の脱げた左足で。泥に汚れた裸足が、落ち葉の上で、少し震えている。
一歩。
左足が、泥に沈んだ。女の子はそこで止まった。止まって、自分の足元を見て、俺を見た。
俺は動かなかった。耳だけが、勝手に女の子のほうを向いた。こればかりは、どうしようもなかった。
泥に沈んだ裸足へ、前足が出かけた。
止める。顎を、前足の上に戻した。俺は息だけをしていた。
二歩。
さっきより、迷いが短かった。
三歩。四歩。
女の子は、俺のすぐ前で、しゃがみ込んだ。腕を伸ばせば届く距離。泥と、汗と、知らない土地の匂いがした。近くで見ると、思っていたよりずっと小さかった。
膝の上で、女の子の両手が、握ったり開いたりしていた。
「……さわっても、いい?」
俺は伏せたまま、頭を少しだけ前に出した。
女の子の手が伸びてきた。
冷たい指だった。泥でざらざらしていて、小刻みに震えていた。その指先が、俺の耳と耳の間に、そっと触れた。
触れて、すぐに離れた。
女の子は、自分の指を見た。泥のついた指先に、黒い毛が一本くっついていた。それから、もう一度、手を伸ばした。今度は、首の後ろの毛に。指が毛の中に沈んで、ゆっくりと、一度だけ撫で下ろした。
「……やわらかい」
ほとんど息のような声だった。
指の震えは、まだ止まっていなかった。それでも、女の子の手は、俺の首の上から離れなかった。
*
女の子の顔が、急に変わった。
「あ」
手が止まる。目が、林道のほうを向いた。
「みんな」
声が、さっきよりはっきりしていた。
「ばしゃに、まだ、みんないるの。ロッタと、ペトと、ベン。ロッタ、まだ七つで、すぐ泣いちゃうの。ベンが、扉があいたとき、いまだって言ったの。だから、わたし、はしって、でも」
言葉がどんどん速くなって、途中で絡まった。女の子は唇を噛んで、俺の首の毛を、ぎゅっと握った。痛くはなかった。
ほかに、まだ子供がいる。
この子は、自分が逃げ切ったことより先に、それを言った。
俺は喉の奥で、言葉の形を作った。大きな声は出せない。出せたとしても、出したくなかった。
「……うん」
女の子が、びくっと手を離した。
「しゃべった」
「すこし、だけ」
かすれた、小さな声だった。女の子は目をまるくしたまま、俺の口元を見つめていた。
「たすけに、いこう」
俺がそう言うと、女の子は、しばらく何も言わなかった。
それから、泥だらけの手の甲で、泥だらけの頬をこすった。余計に泥が広がった。本人は気づいていないようだった。
「……こっち」
小さな指が、斜面の上を指さした。
その向こうに、林道がある。指の先は、まだ少し震えていた。でも、まっすぐだった。
斜面の上の木では、二人の男が幹に縫いつけられたまま、もがいていた。頭の覆いも、手足の影も、俺が狐になってから一本もほどけていなかった。
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