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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一章 一度目の人生と、四人の子供

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きつね、さん?

「なんだ、てめえは」


痩せた男が言った。大柄な男は答えを待たなかった。女の子の腕を掴んだまま、空いた手を腰の剣へ伸ばす。


それより先に、影が動いた。


ここは昼でも暗い森だった。木の根元にも、藪の下にも、濡れた落ち葉の裏にも、影はいくらでもあった。俺が思うより早く、それは地面から起き上がっていた。


黒い帯が、大柄な男の手首に巻きつく。剣の柄を握った指を、一本ずつ外していく。抜けかけた剣が帯に絡め取られて、宙を滑り、斜面の上の太い木の根元へ突き立った。もう一本の帯が、女の子の腕を掴んでいる指をこじ開けた。女の子が、泥の上に尻もちをつく。


痩せた男が、懐から短い刃物を抜いた。それも、抜いたところで止まった。手首から肘まで、影がぐるりと覆っていた。刃物は男の指を離れて、剣と同じ木の根元へ飛んでいった。


二人の足首に、影が絡みつく。そのまま女の子から引き離し、斜面の上の木の幹へ引きずり上げて、腕ごと押しつける。木の影と、男たちの影が、ひとつに縫い合わされた。


「な、なんだこれは、おい、ほどけ! 俺たちが誰の仕事をしてると――」


痩せた男がわめいた。その声が森に響くたびに、泥の上の女の子の肩が跳ねた。


口元に、細い帯を一本。


声が止まった。息はできるように、鼻はふさがない。男は目を剥いて、くぐもった音を出すだけになった。


時間にすれば、たぶん十も数えないうちのことだった。


*


俺は女の子のほうへ向き直った。


女の子は、泥の中に座り込んだまま、俺を見ていた。さっき「たすけて」と動いた唇が、今は固く結ばれている。


一歩近づくと、女の子は後ずさった。手と尻で泥を掻いて、ずるずると。


「大丈夫、もう――」


手を差し出しかけた。


女の子が、両腕で頭を抱えた。


小さな身体が、ぎゅっと丸まった。泥に汚れた肘の間から、震える指が見える。殴られる時の、身構え方だった。


俺は手を引いた。


そうだ。この子から見たら、俺は何だ。大人の男だ。背の高い、知らない男だ。しかも、たった今、影を動かして、大人二人を木に縛りつけた。この子を追いかけてきた男たちと、俺と、何が違う。どこで見分けろというのだ。


足を止めた。それ以上、近づかなかった。


ゆっくりと、しゃがんだ。目の高さを下げる。それでも、女の子との距離は五歩ほどあった。女の子は頭を抱えたまま、腕の隙間から、俺の手を見ていた。手だけを。


言葉では、届かない気がした。大丈夫だと言うのは簡単だ。でも、さっきの男たちだって、この子に何か言い聞かせてここまで連れてきたのだろう。


小さくなれば、どうだろう。


この大きな身体を、目の前から消せたら。見下ろす大人ではなく、もっと低い、もっと小さなものになれたら。


黒い獣が急に現れたら、余計に怖がらせるかもしれない。分からない。分からないけれど、今の俺のままでいるよりは、ましな気がした。


その前に、斜面の上の木へ、もう一度だけ意識を向けた。もがいている二人の頭に、影を頭巾のようにすっぽりかぶせる。息ができるように鼻先だけは空けて、目の前も耳のまわりも、厚い影で覆った。木まではここから二十歩ほどある。男たちは自分のくぐもった唸り声と、幹のきしむ音に包まれている。小声なら、まず届かない。


肩から水袋を下ろして、麻袋と一緒に足元に置いた。


「……驚かせたら、ごめん」


小さく言って、形をほどいた。


*


目線が、すとんと落ちた。


濡れた落ち葉の匂いが、急に近くなる。前足が泥に沈む。俺は伏せるように身体を低くして、それ以上、何もしなかった。


尻尾だけが、勝手に動いた。


背中の後ろで、ふさりと揺れる。俺が止まっても、一拍遅れて、もう一度揺れる。止めようとすると、かえって大きく揺れた。


女の子の腕の隙間で、目が動いた。俺の手があった場所から、黒い前足へ。前足から、耳へ。耳から、揺れる尻尾へ。


頭を抱えていた腕が、ほんの少し下がった。


雨上がりの森は静かだった。葉の先から、しずくが落ちる音だけがする。ひとつ、またひとつ。そのひとつが、ちょうど俺の鼻先に落ちてきた。


「けふっ」


くしゃみが出た。


女の子の肩が、びくりと跳ねた。それから、跳ねた肩が、ゆっくりと下りていった。耳のそばまで上がっていた肩が、元の高さに戻っていく。


女の子は、腕を下ろした。


泥だらけの顔が、まっすぐ俺を見ていた。頬の泥に、涙の通った筋が二本、白く残っている。琥珀色の目が、まんまるに見開かれていた。瞬きもしない。俺も動かなかった。どれくらいそうしていたのか分からない。木の上で、鳥が一度だけ鳴いた。


女の子の首が、ほんの少し、傾いた。


「……きつね、さん?」


かすれた、小さな声だった。


俺は、ゆっくりと一度だけ頷いた。


狐の姿の俺に、誰かが話しかけたのは、初めてだった。森で一人きりだった頃、この姿の俺は、誰にも呼ばれなかった。鳴いても、返ってくるのは鳥の声だけだった。


女の子はまた黙った。それから、斜面の上の木に縫いつけられた男たちを見て、足元に置いた水袋と麻袋を見て、俺を見た。


「さっきの……おにいさん?」


もう一度、頷いた。


女の子の唇が、何か言いかけて、閉じた。


俺は、前足の上に顎を乗せた。地面にぺたりと伏せる。これ以上低くはなれないところまで。耳も、後ろへ倒した。


待とう、と思った。


来なくてもいい。来なかったら、このまま、この距離で、次の方法を考えればいい。


女の子の手が、泥を掴んだ。


指に力が入るのが見えた。泥が、指の間からはみ出す。女の子は、その手を支えにして、膝を立てた。


片方の膝が、前に出た。


それから、立ち上がった。靴を履いた右足と、靴の脱げた左足で。泥に汚れた裸足が、落ち葉の上で、少し震えている。


一歩。


左足が、泥に沈んだ。女の子はそこで止まった。止まって、自分の足元を見て、俺を見た。


俺は動かなかった。耳だけが、勝手に女の子のほうを向いた。こればかりは、どうしようもなかった。


泥に沈んだ裸足へ、前足が出かけた。


止める。顎を、前足の上に戻した。俺は息だけをしていた。


二歩。


さっきより、迷いが短かった。


三歩。四歩。


女の子は、俺のすぐ前で、しゃがみ込んだ。腕を伸ばせば届く距離。泥と、汗と、知らない土地の匂いがした。近くで見ると、思っていたよりずっと小さかった。


膝の上で、女の子の両手が、握ったり開いたりしていた。


「……さわっても、いい?」


俺は伏せたまま、頭を少しだけ前に出した。


女の子の手が伸びてきた。


冷たい指だった。泥でざらざらしていて、小刻みに震えていた。その指先が、俺の耳と耳の間に、そっと触れた。


触れて、すぐに離れた。


女の子は、自分の指を見た。泥のついた指先に、黒い毛が一本くっついていた。それから、もう一度、手を伸ばした。今度は、首の後ろの毛に。指が毛の中に沈んで、ゆっくりと、一度だけ撫で下ろした。


「……やわらかい」


ほとんど息のような声だった。


指の震えは、まだ止まっていなかった。それでも、女の子の手は、俺の首の上から離れなかった。


*


女の子の顔が、急に変わった。


「あ」


手が止まる。目が、林道のほうを向いた。


「みんな」


声が、さっきよりはっきりしていた。


「ばしゃに、まだ、みんないるの。ロッタと、ペトと、ベン。ロッタ、まだ七つで、すぐ泣いちゃうの。ベンが、扉があいたとき、いまだって言ったの。だから、わたし、はしって、でも」


言葉がどんどん速くなって、途中で絡まった。女の子は唇を噛んで、俺の首の毛を、ぎゅっと握った。痛くはなかった。


ほかに、まだ子供がいる。


この子は、自分が逃げ切ったことより先に、それを言った。


俺は喉の奥で、言葉の形を作った。大きな声は出せない。出せたとしても、出したくなかった。


「……うん」


女の子が、びくっと手を離した。


「しゃべった」


「すこし、だけ」


かすれた、小さな声だった。女の子は目をまるくしたまま、俺の口元を見つめていた。


「たすけに、いこう」


俺がそう言うと、女の子は、しばらく何も言わなかった。


それから、泥だらけの手の甲で、泥だらけの頬をこすった。余計に泥が広がった。本人は気づいていないようだった。


「……こっち」


小さな指が、斜面の上を指さした。


その向こうに、林道がある。指の先は、まだ少し震えていた。でも、まっすぐだった。


斜面の上の木では、二人の男が幹に縫いつけられたまま、もがいていた。頭の覆いも、手足の影も、俺が狐になってから一本もほどけていなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。明日から毎日更新します。

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