荷馬車の四人
斜面を登る前に、俺は女の子に言った。
「人の形に、もどるよ。さっきの、おにいさんに」
狐の口で、できるだけゆっくり。女の子は、俺の首から手を離して、半歩ぶん身を引いた。
「……また、きつねさんに、なれる?」
「なれる」
女の子はしばらく俺を見ていた。それから、こくりと頷いた。
「じゃあ、いい」
形をほどいて、目線が上がる。女の子は一歩下がったが、それ以上は下がらなかった。俺は足元の水袋と麻袋を拾って肩にかけ、なるべく背を丸めて立った。
人の姿のまま、男たちの頭の覆いを外す。それから、木に縫いつけていた二人の影を、幹から引き剥がした。手首と足首はまとめたまま、地面すれすれに浮かせて、斜面の上へ運ぶ。痩せた男が、口の帯の下で何かうなった。
「俺の後ろを歩いて。あの二人には、近づかなくていいから」
女の子は、俺と男たちを見比べて、俺の後ろについた。手をつなぐほど近くはない。三歩ほど後ろ。それでいい。
途中、泥の中に小さな靴が片方、半分埋まっていた。拾って、泥を払って、差し出す。女の子は目をまるくして受け取り、濡れたままの靴に、泥だらけの足をぎゅっと押し込んだ。
*
荷馬車は、林道のゆるい坂の途中で、後ろへ傾いていた。
幌のついた古い車だ。左の後輪が、轍の水たまりに車軸近くまで沈んでいる。馬が一頭、首を垂れて雨上がりの空気に鼻を鳴らしていた。
車輪の横に、男が二人いた。一人は棒で泥を掻き出していた年配の男。もう一人は、さっきの大柄な男と同じような剣を下げている。
剣の男が、浮かんだ仲間を見て顔色を変えた。剣を抜いて、こちらへ走ってくる。
三歩目で、足首に影が絡んだ。前のめりに倒れる。剣は泥の上を滑って、俺の足元で止まった。影で拾い上げて、近くの木の根元に突き立てた。倒れた男の手首と足首を、さっきの二人と同じようにまとめる。
年配の男は、棒を放り出して両手を上げていた。
「お、俺は御者だ。馬を引いてただけで――」
「動かないでください」
それだけ言った。男は動かなかった。
荷台の幌が、内側からめくれた。
男の子の顔が覗いた。十二、三歳くらい。痩せていて、眉が太い。目を細めて俺を睨んでいる。その後ろに、もう二つ、小さな頭が見えた。
「ベン!」
俺の後ろから、女の子が飛び出した。
「ミア……! お前、なんで戻ってきたんだよ! 逃げろって――」
男の子は、女の子と、浮いている男たちと、俺を、順番に見た。最後に俺のところで目が止まった。
「……そいつ、誰だ」
女の子は、首をかしげて考えた。
「きつねさん」
「は?」
男の子の眉が、思い切り寄った。
正しい。何も間違っていない。けれど、今この場で、それ以上に分かりにくい説明はなかった。
「……あとで、ちゃんと説明する」
俺が言うと、男の子は余計に疑わしそうな顔をした。それでも、荷台から飛び降りてはこなかった。後ろの二人の前から、動かなかった。
*
車輪をどうするか、俺には分からなかった。
前の人生で、ぬかるみにはまった車を押したことはある。ただし、それは軽自動車で、エンジンがついていた。
「どうやって出すんですか。手順を教えてください」
御者は目をしばたたいた。俺が自分で知っていると思っていたらしい。
「……車の尻を少しでも持ち上げて、輪の下に石か枝を噛ませる。それから馬に引かせる。荷が重いと、後ろから押す奴がいる」
「荷は」
「ガキ……子供が三人と、水樽と、食い物の袋だけだ」
「子供たちは、先に降りてもらいます」
男の子が二人の子供を荷台から下ろした。小さな女の子と、そばかすのある男の子。この子がロッタで、こっちがペトだろう。ロッタは、降りるなり泥だらけの女の子に抱きついて泣き出した。ペトは、何も言わずに二人の横に立った。
その間、御者の足首には、細い影を一本だけ巻いておいた。逃げようとすれば分かる程度に。
車の後ろの影を、車軸の下へ潜り込ませる。持ち上げる。重い。麻袋よりも、樽よりもずっと重い。それでも、車の尻はゆっくりと泥から浮いた。御者が慌てて、太い枝と平たい石を輪の下へ押し込む。
「よし、引け」
御者が馬の手綱を引いた。馬が首を振り、蹄で泥を掻く。車輪が、ぎしりと鳴って、枝の上に乗った。
抜けた。
ロッタが、泣きながら「うごいた」と言った。
*
御者に馬を引かせ、男たちは影で運び、子供たちには俺の横を歩いてもらった。ベンが、ロッタを背負った。
林道を二百歩ほど先へ行ったところに、待避所があった。
御者の話では、昔この道で木を運んでいた頃、雨宿りに使った小屋だという。丸太を組んだ三方の壁に、板屋根が乗っている。入口に柱が二本。中は、子供四人が並んで横になれるくらいの広さだった。
空がまた暗くなってきた。
四人の男は、待避所から少し離れた、大きな木の下に座らせた。背中を幹に預けさせて、手首と足首を影でまとめたまま。枝が張り出しているので、雨はほとんど当たらない。痩せた男の口の帯は外した。外した途端に何か言いかけたが、俺がそちらを向くと黙った。
荷台を探すと、毛布が何枚かと、空の麻袋、水樽、それから黒っぽいパンと干した肉の入った袋が出てきた。御者台の下には、小さな木の箱があった。
箱の中には、油紙に包まれた紙の束が入っていた。
広げてみる。整った字がびっしり並んでいて、最後のところに赤い封蝋が押してある。
読めなかった。
何度見ても、一文字も分からない。これが何なのか、俺には言えない。
「奉公の書きつけだって、あいつ言ってた」
いつの間にか、男の子が横に来ていた。
「町のお屋敷に行くんだって。でも、道が違った。ミアが、違うって言ったんだ」
俺は紙を元の油紙に包み直して、箱に戻した。箱は、俺の横に置いた。
*
毛布を敷いて、パンを分けた。
水袋に樽の水を汲んで、差し出す。泥だらけの女の子は受け取って、自分では飲まずに、隣のロッタの口元へ持っていった。ロッタが飲み終わるのを待って、ペトに回し、それから最後に自分が飲んだ。
トマさんに無理やり持たされた水袋だった。水なんかいらないと言った俺に、森で倒れても知らんぞ、と言った。
倒れたのは俺じゃなかったが、役には立った。
パンを食べ終わる頃、男の子が俺を見た。
「で、あんた、名前は」
「ユウ」
「……ユウ」
男の子は、確かめるように繰り返した。
「俺はベン。こっちがペトで、こっちがロッタ」
ペトが、顎をわずかに引いた。ロッタは、毛布にくるまって目をこすっていた。
女の子は、膝を抱えて座っていた。泥はまだ、顔にも髪にもついている。俺と目が合うと、一度視線を落として、それから、また上げた。
「……ミア」
名前だけだった。それで十分だった。
「ミア」
俺が呼ぶと、ミアは小さく頷いた。
*
雨が降り出した。
板屋根を叩く音が、だんだん強くなる。俺は入口の柱にもたれて座った。外の木の下では、四人の男が雨を避けて身を縮めている。その向こうの林道は、もう暗くて、ほとんど見えなかった。
夜の森を、この子たちに歩かせるわけにはいかない。朝になれば、人が通るかもしれない。青い腕章の巡回員が、旧道の見回りに来るかもしれない。
それまで、ここにいればいい。俺は眠らなくても平気だ。
ベンは、入口に一番近い場所に横になった。俺と子供たちの間に。ペトは壁に背をつけて、膝を抱えたまま目を閉じた。
一番奥で、ロッタが小さな声で何か歌い始めた。
歌詞は、雨の音に紛れてよく聞き取れなかった。同じところを何度も繰り返している。たぶん、自分を寝かしつけるための歌なのだろう。俺は声をかけなかった。
ロッタの隣で、ミアが毛布にくるまっていた。
目は開いていた。
暗い待避所の中で、ミアの目が、入口の柱のほうを見ていた。俺のほうを。俺がまだ起きているかを、確かめるように。
俺は、小さく片手を上げた。
ミアは何も言わなかった。しばらくして、毛布がもぞりと動いて、ミアの目が閉じた。
ロッタの歌が、途切れ途切れになって、やがて寝息に変わった。
雨は、まだ降っていた。俺は柱にもたれて、子供の寝息を四つと、木の下の男たちの身じろぎを数えながら、朝を待った。




