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黒狐の精霊と、ひだまりの家 ~闇の大精霊は、小さな幸せを守りたい~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一章 一度目の人生と、四人の子供

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荷馬車の四人

斜面を登る前に、俺は女の子に言った。


「人の形に、もどるよ。さっきの、おにいさんに」


狐の口で、できるだけゆっくり。女の子は、俺の首から手を離して、半歩ぶん身を引いた。


「……また、きつねさんに、なれる?」


「なれる」


女の子はしばらく俺を見ていた。それから、こくりと頷いた。


「じゃあ、いい」


形をほどいて、目線が上がる。女の子は一歩下がったが、それ以上は下がらなかった。俺は足元の水袋と麻袋を拾って肩にかけ、なるべく背を丸めて立った。


人の姿のまま、男たちの頭の覆いを外す。それから、木に縫いつけていた二人の影を、幹から引き剥がした。手首と足首はまとめたまま、地面すれすれに浮かせて、斜面の上へ運ぶ。痩せた男が、口の帯の下で何かうなった。


「俺の後ろを歩いて。あの二人には、近づかなくていいから」


女の子は、俺と男たちを見比べて、俺の後ろについた。手をつなぐほど近くはない。三歩ほど後ろ。それでいい。


途中、泥の中に小さな靴が片方、半分埋まっていた。拾って、泥を払って、差し出す。女の子は目をまるくして受け取り、濡れたままの靴に、泥だらけの足をぎゅっと押し込んだ。


*


荷馬車は、林道のゆるい坂の途中で、後ろへ傾いていた。


幌のついた古い車だ。左の後輪が、轍の水たまりに車軸近くまで沈んでいる。馬が一頭、首を垂れて雨上がりの空気に鼻を鳴らしていた。


車輪の横に、男が二人いた。一人は棒で泥を掻き出していた年配の男。もう一人は、さっきの大柄な男と同じような剣を下げている。


剣の男が、浮かんだ仲間を見て顔色を変えた。剣を抜いて、こちらへ走ってくる。


三歩目で、足首に影が絡んだ。前のめりに倒れる。剣は泥の上を滑って、俺の足元で止まった。影で拾い上げて、近くの木の根元に突き立てた。倒れた男の手首と足首を、さっきの二人と同じようにまとめる。


年配の男は、棒を放り出して両手を上げていた。


「お、俺は御者だ。馬を引いてただけで――」


「動かないでください」


それだけ言った。男は動かなかった。


荷台の幌が、内側からめくれた。


男の子の顔が覗いた。十二、三歳くらい。痩せていて、眉が太い。目を細めて俺を睨んでいる。その後ろに、もう二つ、小さな頭が見えた。


「ベン!」


俺の後ろから、女の子が飛び出した。


「ミア……! お前、なんで戻ってきたんだよ! 逃げろって――」


男の子は、女の子と、浮いている男たちと、俺を、順番に見た。最後に俺のところで目が止まった。


「……そいつ、誰だ」


女の子は、首をかしげて考えた。


「きつねさん」


「は?」


男の子の眉が、思い切り寄った。


正しい。何も間違っていない。けれど、今この場で、それ以上に分かりにくい説明はなかった。


「……あとで、ちゃんと説明する」


俺が言うと、男の子は余計に疑わしそうな顔をした。それでも、荷台から飛び降りてはこなかった。後ろの二人の前から、動かなかった。


*


車輪をどうするか、俺には分からなかった。


前の人生で、ぬかるみにはまった車を押したことはある。ただし、それは軽自動車で、エンジンがついていた。


「どうやって出すんですか。手順を教えてください」


御者は目をしばたたいた。俺が自分で知っていると思っていたらしい。


「……車の尻を少しでも持ち上げて、輪の下に石か枝を噛ませる。それから馬に引かせる。荷が重いと、後ろから押す奴がいる」


「荷は」


「ガキ……子供が三人と、水樽と、食い物の袋だけだ」


「子供たちは、先に降りてもらいます」


男の子が二人の子供を荷台から下ろした。小さな女の子と、そばかすのある男の子。この子がロッタで、こっちがペトだろう。ロッタは、降りるなり泥だらけの女の子に抱きついて泣き出した。ペトは、何も言わずに二人の横に立った。


その間、御者の足首には、細い影を一本だけ巻いておいた。逃げようとすれば分かる程度に。


車の後ろの影を、車軸の下へ潜り込ませる。持ち上げる。重い。麻袋よりも、樽よりもずっと重い。それでも、車の尻はゆっくりと泥から浮いた。御者が慌てて、太い枝と平たい石を輪の下へ押し込む。


「よし、引け」


御者が馬の手綱を引いた。馬が首を振り、蹄で泥を掻く。車輪が、ぎしりと鳴って、枝の上に乗った。


抜けた。


ロッタが、泣きながら「うごいた」と言った。


*


御者に馬を引かせ、男たちは影で運び、子供たちには俺の横を歩いてもらった。ベンが、ロッタを背負った。


林道を二百歩ほど先へ行ったところに、待避所があった。


御者の話では、昔この道で木を運んでいた頃、雨宿りに使った小屋だという。丸太を組んだ三方の壁に、板屋根が乗っている。入口に柱が二本。中は、子供四人が並んで横になれるくらいの広さだった。


空がまた暗くなってきた。


四人の男は、待避所から少し離れた、大きな木の下に座らせた。背中を幹に預けさせて、手首と足首を影でまとめたまま。枝が張り出しているので、雨はほとんど当たらない。痩せた男の口の帯は外した。外した途端に何か言いかけたが、俺がそちらを向くと黙った。


荷台を探すと、毛布が何枚かと、空の麻袋、水樽、それから黒っぽいパンと干した肉の入った袋が出てきた。御者台の下には、小さな木の箱があった。


箱の中には、油紙に包まれた紙の束が入っていた。


広げてみる。整った字がびっしり並んでいて、最後のところに赤い封蝋が押してある。


読めなかった。


何度見ても、一文字も分からない。これが何なのか、俺には言えない。


「奉公の書きつけだって、あいつ言ってた」


いつの間にか、男の子が横に来ていた。


「町のお屋敷に行くんだって。でも、道が違った。ミアが、違うって言ったんだ」


俺は紙を元の油紙に包み直して、箱に戻した。箱は、俺の横に置いた。


*


毛布を敷いて、パンを分けた。


水袋に樽の水を汲んで、差し出す。泥だらけの女の子は受け取って、自分では飲まずに、隣のロッタの口元へ持っていった。ロッタが飲み終わるのを待って、ペトに回し、それから最後に自分が飲んだ。


トマさんに無理やり持たされた水袋だった。水なんかいらないと言った俺に、森で倒れても知らんぞ、と言った。


倒れたのは俺じゃなかったが、役には立った。


パンを食べ終わる頃、男の子が俺を見た。


「で、あんた、名前は」


「ユウ」


「……ユウ」


男の子は、確かめるように繰り返した。


「俺はベン。こっちがペトで、こっちがロッタ」


ペトが、顎をわずかに引いた。ロッタは、毛布にくるまって目をこすっていた。


女の子は、膝を抱えて座っていた。泥はまだ、顔にも髪にもついている。俺と目が合うと、一度視線を落として、それから、また上げた。


「……ミア」


名前だけだった。それで十分だった。


「ミア」


俺が呼ぶと、ミアは小さく頷いた。


*


雨が降り出した。


板屋根を叩く音が、だんだん強くなる。俺は入口の柱にもたれて座った。外の木の下では、四人の男が雨を避けて身を縮めている。その向こうの林道は、もう暗くて、ほとんど見えなかった。


夜の森を、この子たちに歩かせるわけにはいかない。朝になれば、人が通るかもしれない。青い腕章の巡回員が、旧道の見回りに来るかもしれない。


それまで、ここにいればいい。俺は眠らなくても平気だ。


ベンは、入口に一番近い場所に横になった。俺と子供たちの間に。ペトは壁に背をつけて、膝を抱えたまま目を閉じた。


一番奥で、ロッタが小さな声で何か歌い始めた。


歌詞は、雨の音に紛れてよく聞き取れなかった。同じところを何度も繰り返している。たぶん、自分を寝かしつけるための歌なのだろう。俺は声をかけなかった。


ロッタの隣で、ミアが毛布にくるまっていた。


目は開いていた。


暗い待避所の中で、ミアの目が、入口の柱のほうを見ていた。俺のほうを。俺がまだ起きているかを、確かめるように。


俺は、小さく片手を上げた。


ミアは何も言わなかった。しばらくして、毛布がもぞりと動いて、ミアの目が閉じた。


ロッタの歌が、途切れ途切れになって、やがて寝息に変わった。


雨は、まだ降っていた。俺は柱にもたれて、子供の寝息を四つと、木の下の男たちの身じろぎを数えながら、朝を待った。


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