助けた、その先
雨は夜のうちに上がっていた。
待避所の庇から、溜まった雫がひとつずつ落ちている。俺は入口の柱にもたれたまま、空が灰色から白へ移っていくのを眺めていた。眠気はない。この身体は一晩起きていても平気だ。それをこんなにありがたいと思った夜はなかった。
背中のほうでは、子供が四人、毛布にくるまって眠っている。夜中に二度、ベンは目を開けて俺の背中を確かめた。「見てるから寝ていい」と言うと、二度とも黙ってうなずき、また目を閉じた。十二歳の寝方ではないと思う。
木の下の四人も、影の帯にまとめられたまま朝を迎えた。油紙の箱は、俺の横にある。
蹄の音がしたのは、鳥が鳴き始めてしばらくしてからだった。
旧林道の先から、馬が一頭、並足で来る。乗っているのは革の胴着の男で、左腕に青い布を巻いていた。北門でカイに教わった、青い腕章だ。俺は待避所から出て、子供たちの前に立ったまま片手を上げた。
男は十歩ほど手前で馬を止めた。木の下の四人と、そいつらに巻きついた黒い帯を見て、腰の短槍に手をやる。
「……術師か」
「そんなようなものです」
自分でもよく分からないので、それ以上は言わなかった。
男はテオと名乗り、隊商組合の巡回員だと言った。公道に臨時の検問が立っているあいだは、抜け道になりそうな旧道を朝夕見回っているのだという。胸元から出してきた真鍮の札には刻印があったが、残念ながら俺には読めない。読めない札を見せられて真剣にうなずくのは、なかなか気まずかった。
それでも、俺は話を聞きながら確かめた。この男は子供たちに近づこうとしない。四人を自分が連れていくとも言わない。検問の詰所へ戻って、町の衛兵へ伝令を出すと言った。
「昼過ぎには車が来る。それまで、ここを動かないでいてくれ」
テオは鞍袋から堅焼きのパンと干し杏の包みを出し、俺に預けて、来た道を駆け戻っていった。
*
子供たちが起きてきたので、パンを割って配った。干し杏は一人三つずつ。ロッタは一つ目を食べ終わる前に二つ目を握りしめていたし、ペトは三つを掌に並べたまま、なかなか口へ運ばなかった。
ミアは自分の分を受け取ると、少し考えてから、一つをペトの掌に足した。
ペトは驚いた顔でミアを見た。ミアは何も言わずに、自分の残り二つのうち一つを齧った。ペトは長いこと黙っていて、それから小さく「ありがと」と言った。昨日から数えて、たぶん初めて聞いたペトの声だった。
俺は人間の姿のまま、入口の柱のところに座っていた。ミアは時々こちらを見る。昨日のように身を固くはしないが、近寄ってもこない。それで構わなかった。待避所の中ほどと入口のあいだ、その距離が、今のミアが選んだ場所なのだと思う。
退屈したロッタが、小さな声で歌い始めた。麦を刈る歌らしい。途中で歌詞を忘れて同じところを三回繰り返し、ベンに「そこもう三回目」と言われて、むくれた顔で四回目を歌った。ミアが小さく笑った。
日が高くなった頃、車輪の音が聞こえた。
幌のついた荷馬車が二台。前後に騎馬の衛兵が四人。先頭の馬から降りたのは背の高い女性で、短く刈った髪に灰色が混じっていた。
「衛兵隊のベルナだ。テオが知らせてきた」
巡回員の名前が一致した。それでようやく、肩から力が抜けた。
ベルナ隊長は木の下の四人を一瞥しただけで、まっすぐ待避所へ来た。入口の前で膝をつき、背の高さを半分にしてから子供たちに名前を聞いた。声は低いのに、急かすところが一つもなかった。
二台目の荷馬車からは、若い男が降りてきた。神殿の書記補でアルトと名乗った。毛布の束を抱えた指先に、インクの染みが青黒くついている。
子供たちは神殿の車へ、大人四人は衛兵の車へ。ベルナ隊長の指示は短かった。俺は衛兵が縄をかけるのに合わせて、一人ずつ、一本ずつ影の帯をほどいた。縄が締まったのを確かめてから次をほどく。全員を一度に放したら、たぶん一人は走る。
指輪の男が衛兵に縄をかけられる時、ベンが小さく言った。
「あいつ、ヴァルクって呼ばれてた」
アルトさんがそれを書き留めた。
それからアルトさんは、俺に話を聞いた。
「あの男が子供のことを『商品』と言ったのは、俺が自分の耳で聞きました。女の子の腕を掴んで引きずっていたのも見ています。ほかの三人が奉公に行くと言われていたのは、子供たちから聞いた話です。俺が見たわけじゃありません」
アルトさんのペンが止まり、また動いた。
「紙は、御者台の下の箱に入っていました。昨夜から俺が預かっています。ただ、俺は字が読めないので、何が書いてあるかは分かりません」
箱を渡すと、アルトさんは油紙を開き、一枚目の上半分を読んだところで眉を寄せた。
「奉公契約の書式です。中身が本当かどうかは、戻ってから調べます」
それから俺を見た。
ペン先が、帳面の欄の一つで止まった。
「ここには『証言者、字を読まず』と書いておきます。署名の代わりの印は、明日の朝にいただきます」
名前の横の欄が一つ、空いたまま残された。
*
町へ戻る四時間、俺は神殿の車の横を歩いた。幌の隙間から、ときどき栗色の頭がのぞく。目が合うと引っ込み、しばらくするとまたのぞく。何回目かで、俺はのぞかれる前に手を振ってみた。頭は引っ込んで、それきり出てこなかった。手を下ろす場所に困った。
神殿に着いたのは夕方だった。子供たちは診療師に診てもらうため奥へ連れていかれ、俺は廊下の長椅子で待つことになった。
その長椅子へ、見覚えのある人が歩いてきた。小柄で、白髪を後ろできっちりまとめ、袖に黒い腕抜きをつけた年配の女性。おととい、この神殿の広間で、読めない募集の紙を読み上げてくれた人だ。
「おや。おとといの、森で寝ている旅人さん」
「エッダさん。その節は、お世話になりました」
エッダさんは、短期の預かり手として呼ばれてきたのだと言った。アルトさんから事情を聞いたらしく、俺の外套の泥はねを見て、何か言いかけてやめた。
正直に言うと、帰り道のどこかで、俺はちらりと考えていた。あの子がまた怖い思いをしないように、俺がそばに――。
そこまで考えて、自分の懐を思い出した。銅貨が七枚。家はない。昨夜までは森の木の根元で寝ていた。字も読めない。
「あの子たちは、どうなるんですか」
「明日の朝、アルトさんが本人たちの話を聞いて、受け入れる家と相談して決めるんだよ。神殿と、本人と、預かる家。その三つで決める」
エッダさんは、それが当たり前のことのように言った。実際、当たり前のことなのだろう。
「助けた人と、預かる人は、別でいいんだよ。別のほうがうまくいくことも多い」
それから、声をやわらげた。
「でも、ユウさんが四人とも連れて帰ってくれたから、明日その相談ができる。それは覚えておおき」
神殿の下働きの人が、木の椀を持ってきた。救恤の汁物だという。豆と玉葱が煮くずれていて、塩気が薄くて、とても温かかった。椀を返そうとしたら、もう一杯よそわれた。
アルトさんが廊下の向こうから顔を出した。
「ユウさん。明日の朝、鐘のあとにもう一度確認をお願いします。今夜は、どちらに」
「森に戻って、朝また――」
「森は寝床ではありません」
エッダさんだった。おとといと一字一句同じ、完璧な真顔だった。
通りかかったベルナ隊長が、それを聞いて足を止めた。
「詰所の長椅子を使え。牢じゃないほうの部屋だ」
そこは大事なところだと思ったので、俺はありがたく頭を下げた。




