それぞれの寝床
朝の鐘が鳴り終わる前に、俺は神殿へ着いた。
詰所の長椅子は固かったが、どうせ眠らないのだから固くても構わなかった。夜のあいだ、当番の衛兵が二度ほど茶を淹れてくれて、二度とも俺の分まで注いでくれた。牢じゃないほうの部屋は、思っていたより親切な部屋だった。
神殿の奥の小部屋で、アルトさんが昨日の話をもう一度確かめた。俺の言ったことと、子供たちの話と、押収した紙の場所。食い違いがないか一つずつ照らし合わせて、最後に、俺の名前の横へ印をつけるよう言われた。字が書けないので、指にインクをつけて押した。アルトさんの指の染みの理由が、一つ分かった気がした。
それから、子供たちの行き先が決まった。
ロッタには叔母がいるらしく、その人の身元が確かめられるまで神殿で預かる。ペトは、町の東で小さな子を何人か預かっている織物職人の夫婦の家へ。ベンは神殿の寮にしばらく残って、読み書きと、自分でやりたい見習いの仕事をアルトさんと相談する。
そしてミアは、エッダさんの家へ。
アルトさんはミアに、エッダさんの家でいいかと聞いた。ミアは椅子の上で手を握り合わせて、エッダさんを見て、それから俺を見た。
俺は首を横にも縦にも振らなかった。決めるのは俺じゃない。
「まずは何日か、うちで試してみないかい」とエッダさんが言った。「合わなかったら、合わないと言っていいんだよ。私も、そのほうが助かるから」
ミアは長いこと考えて、こくりとうなずいた。
神殿の門の前で、四人はばらばらになった。ロッタはわんわん泣いて、泣きながらミアの袖を離さなかった。ペトは黙ってミアに手を振り、ベンは「またな」と言って、ロッタの頭を少し乱暴に撫でた。ロッタは泣き顔のまま「髪がぐしゃぐしゃになる」と怒った。怒れるなら大丈夫だ、と思った。
ミアはロッタの手を両手で包んで、何か小さく言った。俺には聞こえなかった。ロッタはうなずいて、ようやく袖を離した。
*
エッダさんの家は、神殿から東へ歩いて十分ほどの、鈴蘭通りという坂の途中にあった。
石造りの二階建てで、小さいけれど窓がよく磨かれている。門を抜けると庭があり、井戸と物干しと、豆の蔓を這わせた畑があって、真ん中に古い梨の木が一本立っていた。庭の奥には木造の平屋がもう一棟あるが、雨戸が閉まっている。
俺は神殿で支給された着替えの包みを抱えて、二人の後ろを歩いてきた。ミアの荷物はそれで全部だった。包みは驚くほど軽かった。
「二階に、あんたの部屋があるよ」とエッダさんが言った。「見ておいで。ユウさんは、こっちでお茶でも」
台所の脇の食卓に案内されて、俺は包みを椅子に置いた。二階へは行かない。ミアが寝起きする部屋を、俺が先に覗く理由はない。
階段を上がっていく足音が二つ。床板がきしむ音。窓の開く音。しばらくして、片方の足音だけがとんとんと降りてきた。
ミアが食卓の前に立った。
「窓から、梨の木が見える」
それだけ言って、俺の顔を見ている。報告しに来てくれたのだと分かるまでに、一拍かかった。
「そうか。いい部屋だな」
「うん。……木に、鳥の巣がある。たぶん、つぐみ。つぐみはね、地面で虫をさがすとき、ちょっと走って、止まって、また走るの」
昨日まで途切れ途切れにしか話さなかった子が、つぐみの歩き方を説明していた。俺は「へえ」と言って、たぶん間の抜けた顔でうなずいた。つぐみが走って止まるのは、知らなかった。
お茶を一杯飲むあいだ、エッダさんはこの家の決まりをいくつか話した。朝ごはんの時間、井戸の使い方、夜は門に閂をかけること。ミアは一つずつ、真剣な顔で聞いていた。
それで、俺の用事は終わりだった。
「俺は、町の宿に戻ります」
椅子から立ってそう言うと、ミアがこっちを見上げた。泣きそうな顔ではなかった。ただ、何かを確かめるみたいに、じっと見ていた。
「……いつ、来る?」
声は小さかったが、はっきりしていた。昨日のミアは、俺が来るかどうかを自分から聞いたりしなかった。
明日、と言いたかった。言ってしまうのは簡単だった。でも、ここはエッダさんの家で、俺はこの家の人間ではない。
「エッダさん。明日、伺ってもいいですか」
エッダさんは俺とミアを順番に見て、考える顔をした。
「昼の鐘のあとならいいよ。私も、ユウさんに聞いておきたいことがあるしね」
「じゃあ、昼の鐘のあとに来る」
俺はミアに向き直って言った。ミアは口の中で「ひるのかね」と繰り返した。
門まで見送りに来たミアが、エッダさんが閂を確かめている隙に、俺の外套の端を引いた。
「あした、きつねさんにも、なる?」
ひそひそ声だった。この子の中では、それは二人だけの話になっているのだ。
そこで俺は、ようやく気がついた。このまま俺が狐の姿で出入りすれば、ミアはエッダさんに隠しごとを抱えたまま、この家で暮らすことになる。九歳の子に、預かってくれた人への秘密を持たせることになる。
「それは、明日エッダさんに話してから決める」
ミアは目を丸くして、それから、ほんの少し肩の力を抜いたように見えた。
*
麦わら亭は、エッダさんに最初に教わった北門近くの安宿だ。軒先に麦わらの束が吊るしてある。看板の字は読めないが、麦わらは読める。
共同寝所は一泊六銅貨。帳場の親父に七枚のうち六枚を渡すと、俺の掌には銅貨が一枚だけ残った。
寝所は細長い部屋で、壁に沿って藁布団が八つ並んでいた。先客が五人。そのうち二人がすでに寝ていて、片方は規則正しく、もう片方はときどき思い出したようにいびきをかいた。思い出すたびに、隣の男が寝返りを打った。
俺は窓際の布団に腰を下ろし、銅貨を一枚、指先で回した。
森で寝れば、この六枚は残った。分かっていて、今夜は町で寝ることにした。森は寝床ではありません、と二度言われたからというのも、少しはある。何かあったときに、すぐ鈴蘭通りへ行ける場所にいたかった。何もないのは分かっている。エッダさんは門に閂をかけていたし、あの家にはあの家の決まりがある。それでも、今夜だけはそうしたかった。
明日は、昼の鐘より前に荷揚げ場へ行こう。ガストンさんに、昼に抜ける分だけ短くてもいいから仕事をもらう。それから、エッダさんにどう話すかを考える。
いびきの男が、また思い出したようにいびきをかいた。隣の男が、また寝返りを打った。
俺は銅貨を握ったまま、藁布団に横になった。天井の梁に、蜘蛛が一匹巣を張っている。窓から、つぐみの巣は見えなかった。




