秘密を預ける相手
「昼に抜ける? 構わんが、抜けた分は払わんぞ!」
荷揚げ場のガストンさんは、たぶん普通に話しているつもりで、川向こうまで届く声を出す。俺が頭を下げると、樽を三つ指さして「なら先にあれだ」と言った。
昼の鐘までに樽を三つと麻袋を十二。腕に影を這わせて重さを少しだけ逃がしながら運ぶ。やりすぎると周りの荷役が目を剥くので、ときどき肩で息をするふりも混ぜる。
鐘が鳴ると同時に、俺は荷揚げ場を出た。
*
鈴蘭通りの家の扉を叩くと、エッダさんが開けてくれた。食卓にはもう茶器が三つ並んでいて、そのうち一つは小さい器に温めた牛乳が入っていた。ミアがその前に座って、両手で器を包んでいる。
俺は椅子に座る前に言った。
「今日は、エッダさんに話しておきたいことがあって来ました」
エッダさんは眉を少しだけ上げて、俺の向かいに座った。
「ミアはもう知っています。助けたとき、ミアの前で見せたので。でも、このままだとミアに黙っていてもらうことになる。それは違うと思ったので、自分で話しに来ました」
ミアが牛乳の器から顔を上げた。
「俺は、黒い狐の姿になれます。というより、たぶん、最初は狐でした」
三週間ほど前、北の森で黒い狐として目を覚ましたこと。この人間の姿は自分で練習して作ったもので、誰か他人に化けているわけではないこと。一日でも十日でも崩れずにいられること。どうしてそうなったのかは、自分にも分かっていないこと。その前のことは、まだうまく整理して話せないこと。
言葉にしてみると、怪しいところしかない話だった。
エッダさんは途中で一度も口を挟まなかった。聞き終わってから、茶を一口飲んで、器を置いた。
「見せてもらえるかい」
俺は椅子から降りて、台所の床に立った。外套の輪郭をほどき、身体を縮める。視線が床へ近づいていき、尻尾が一拍遅れて床板を払った。
エッダさんは、しばらく何も言わなかった。
それから椅子の上で身をかがめ、黒狐と同じ高さまで顔を下ろして、俺をじっと見た。
「……朝のうちに床を掃いておいて、よかったよ」
ミアが牛乳を噴きそうになって、慌てて口を押さえた。
*
「驚かせて、すみません」
狐の口から言葉を出すと、エッダさんの肩がぴくりと跳ねた。床掃除のことは平然と言えても、喋る狐はさすがに想定外だったらしい。
「喋るんだね」
「人間の姿で覚えた話し方を、こっちでも使えるみたいで。大きな声は出ません」
エッダさんは背を起こして、指を一本ずつ折るように、いくつか質問をした。その姿で人を傷つけたことはあるか。ないこと。ほかに知っている人はいるか。ミアだけだということ。同じことができる人をほかに知っているか。知らないこと。町の外から来た何かに追われているのか。それも、たぶん違うこと。
「分からないことは、分からないままにしておこう」
エッダさんは言った。
「急いで名前をつけると、あとで直すのが大変だからね。神殿で書記をしていた頃の癖さ。分からない欄は空けておくんだよ」
それから、口調をはっきりと改めた。
「そのうえで、お願いがあります」
一つ。この家に来るのは、エッダさんが良いと言った日と時間。前の訪問のときに決めておく。
二つ。エッダさんが家にいるとき。ミアと会うのは、原則としてエッダさんか、エッダさんが頼んだ大人のいるところで。
三つ。出入りは玄関から。狐の姿のときも。
四つ。夜は来ない。姿を変えて、黙って入ってくることもしない。
五つ。ミアを外へ連れ出すのは、当分のあいだ、エッダさんが一緒のときだけ。
「窓から勝手に入っていいのは、お隣のポムだけです」
「ポム?」とミアが聞いた。
「隣の家の猫だよ。窓から入ってきて、うちの一番いい椅子で寝て、挨拶もしないで帰っていく」
エッダさんはそう言ってから、俺に向き直った。
「ユウさんを疑っているから、こう言うんじゃないよ。この子を預かっている者として、あとで誰に何を聞かれても、同じ答えを言えるようにしておきたいんだ」
俺はうなずいた。狐の首でうなずくと、耳までいっしょに揺れた。
「全部、守ります。それと、来られない日ができたら、必ず先に知らせます」
エッダさんは少しだけ目を細めた。それが笑ったのかどうかは、まだ分からなかった。
黙って聞いていたミアが、器を置いて、小さな声で言った。
「きつねさんのこと、ほかの人には、ないしょ?」
答えたのはエッダさんだった。
「誰に話すかは、ユウさんが決めること。あんたが秘密の番をしなくていいんだよ。もし誰かに聞かれて困ったら、『ユウに聞いて』って言えばいい」
「そう言ってくれ。俺が困っておく」
ミアは俺とエッダさんを交互に見て、それから、ゆっくり息を吐いた。
それから椅子を降りて、俺の前にしゃがんだ。
「……さわっていい?」
聞いた相手は、俺だった。
「いいよ」
小さな手が、背中の毛を一度だけ撫でた。エッダさんは茶器を片づけるふりをして、それをちゃんと見ていた。
次の訪問をいつにするか尋ねると、エッダさんは「あさってに書類の日があるから、それに合わせよう」と言った。神殿のアルトさんが来る日だという。俺も来てよいのか尋ねると、助けた人の話が要るかもしれないから、と許してくれた。
*
人間の姿に戻って荷揚げ場へ駆け戻ると、ガストンさんは「遅い!」と怒鳴り、それから一番重い荷を回してきた。日が傾くまで、それを片づけた。
「抜けた分は夕方に取り返したからな。二十だ」
掌に銅貨が二十枚落ちてきた。
屋台で汁物を頼み、固いパンの端切れをつけてもらって六銅貨。器を返すとき、残りを数えた。十五枚。
今夜は宿には泊まらない。北門の閉まる前に外へ出て、森の端で夜を過ごす。昨日は町にいたかったが、今日は明日の分を残しておきたい。
門の脇で、記録係のカイが帳面から顔を上げた。
「今から外ですか、ユウさん」
「森のほうが寝つきがいいんです」
カイは何か言いたそうな顔をしたが、結局「朝の開門は鐘と同時です」とだけ言って、帳面に何か書き込んだ。何と書かれたのかは、もちろん読めない。
門を出ると、麦畑の向こうに森の影が黒く伸びていた。俺は腰の小袋を、銅貨が鳴らないように押さえて、歩き出した。
一枚から十五枚。昨日の夜の俺に、教えてやりたい。




